第一話 海へと向かう。 その五
急ブレーキをかけながら、オレの腕は咄嗟に動いていた。
瑞穂ちゃんのことを、守ろうとして彼女の体に左腕を伸ばしていた……。
ブレーキ音が響きながら車は止まる。何かを轢いてしまった衝撃はない……。
「大丈夫?瑞穂ちゃん」
「う、うん。大丈夫……でも、今、目の前に、いきなり人影が……っ」
「田舎だから、年寄りとかが左右も確認せずに道路を横断したりしてる」
急ブレーキと急ハンドルの影響で、車は路肩に乗り上げる寸前だった。
文句を言いたくなって、人影を探す。探すが、どこにも見当たらない。
「いないね……は、はねてないよね?」
「そんな音も衝撃もしなかった」
……でも、巻き込んでいたら?車の下に、潜り込んでいる可能性もある。
……逃げたくなる。でも、大人として、そういうわけにもいかない。
オレは車から降りた。
イヤな想像をしながら、車の前面を確認しに行く。はねていれば、そこに痕跡があるはずだ……大きくへこんでいるはず。
もしも、そうだったら?……刑務所行きかも。前方不注意?車道のど真ん中にいきなり現れたとしても、はねた者が不利になる。
理不尽だが、世の中はそんなものだよ。
心臓の拍動が聞こえる。強くて激しい動悸だ。薬を飲みたくなるが、こらえる。そんな場合ではない。さっさと事実を確認しよう。轢いてはないはずだ。それを確認しなければ、不安でやりきれない。
息を押し殺したまま、車の前方に躍り出た。
……。
……。
……。
安心する。車の前方にはヒトをはねた痕跡はない。
車のなかには不安そうな表情の瑞穂ちゃんがいた。彼女はシートベルトを小さな手でつかんでいる。不安なんだろうな。
彼女のためにも、確認しなければならない。車の下に巻き込んでいないことも……。
車の下に広がる闇に、不安を抱く。でも、オレはその場にしゃがんで、車の下を覗いていたよ。
そこにも、何もいなかった。
安堵の息を吐いて、緊張感から解放される。
「志郎お兄ちゃん……」
不安に駆られた瑞穂ちゃんが、車から降りて来ていた。
助手席の方からこちらを見ている。瑞穂ちゃんを安心させたいから、オレは事実を告げる。
「何もないよ」
「そ、そっか、よかった!」
そう言いながらも、彼女はその体を屈めて車の下を覗き込む。
「ホントだ、何もない」
うつ病野郎の目玉を信じないのは良いことだ。幻覚を見るのだから、あるべきモノを見落とすことだってあるかもしれない。
だから、瑞穂ちゃんにも確認してもらえると安心だった。
「何もないよね?……ていうか、さっきのヒト、どこにいったのかな……?」
見通しの良い場所だ。周囲を見渡せるけれど、何もない……いや、道路の脇には大きく伸びた夏草が風に揺れている……。
あの夏草に隠れている?……妄想が過ぎるな。
時速100キロ近くではねれば、あそこまでヒトは飛ぶこともあるかもしれないが、60キロしか出していない。不安だから、安全運転を心がけていたからね。
……だが、一応、確認しておくことにする。
夏草の生い茂る路肩に近づき、誰かが倒れていないかを確認した。誰もいな……っ!?
すえた腐臭が鼻腔を刺激し、ハエの群れが立てる羽音を聞いた。
それは、腐敗している動物の死骸だった……。
「うわ!?なに、あれ!?」
「狸だよ。車にはねられたのさ……ここまで飛ばされたのかな」
狸は車の進行方向に逃げるからか、ほとんど車道のなかに死骸が転がっている。
でも、かなりの速度ではねれば、こんなところまで飛ぶこともあるのかもしれない。あるいは、死骸を誰かがここに投げ捨てた?
どうあれ、見ていて気持ちの良いものではない。腐敗して、体液が黄色い汁となってあふれだし、灰色にかさつく毛皮の下で、うじ虫が蠢いている光景なんてものは……。
「車に戻ろう」
「……うん、そうだね」
……女子高生には腐りかけの狸の死骸なんて、刺激が強かったのかな。都会ではなかなか見かけない光景のひとつだ。
猫あたりが車にはねられている光景ぐらいとは遭遇するけれど、腐敗した死骸なんてものは、見かけないものさ。
道路の管理を委託された会社が、腐る前に死骸を片付けてしまうからね……そう、命は死ぬと腐るのだ。
久しぶりに腐った死体を見て、オレも楽しい気持ちにはなれない。
「あー、お昼先に食べててよかった」
「そうだね」
「テンション下がる……でも、いいもん。海と温泉宿が待ってるもん!」
『二百メートル先、右折です』
スマホが語ってくれる。そのナビに従い、オレは右折したよ。
道路の標識にも、海岸の名前が書いてある………………?
「あれ?」
「どうしたの?」
「……いや、海岸の名前が、小守町海水浴場になってる」
「それだとまずいの?」
「いや、それは隣町で、ここは和田ヶ浜ってところなんだけどな……」
町が合併して、名前が変わった?……そんなことは、ないはずなんだけど……。
「久しく戻ってないから、感覚がズレたんじゃない?どっちの浜でもいいよ。海水のある浜辺ならさ!」