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第一話    海へと向かう。


 ……酷い悪夢を見たけれど、早朝に襲いかかってくる、あの強烈な倦怠感は無かった。


 うつ病の名医はよく効く処方をしてくれているのかもしれない。


 口は渇いて、舌先はピリピリするけど、腹も痛くないし、嘔吐も来ない。頭にかかるあのモヤモヤもなくて、囀ずるスズメたちを殺してやりたくなったりもしない。


 何より。


 あの黒い影の幻覚を見ないのだ。窓の外を見ても、一匹もいない!あの黒い影どもが、どこにもいない朝は久しぶりだ!!


 朝五時半。真夏の朝は早く、うつ病に効果のある現代医学の権威と……もしかしたらオレの繊細な神経を癒してくれたグアテマラのコーヒー豆と、マスター。そして、瑞穂ちゃんにお礼を言いたくなった。


 死にたくない朝は久しぶりだ!


 オレは、友人知人の全てに、この貴重な朝について記した文面を一斉送信してやろうかと考えたが、30分考えた後でやめておいた。


 いいさ。これは躁病という状態かもしれない。鬱と躁が交互に来るかもと、名医は語っていた。


 まあ……落ち着こう。除霊珈琲を……いや、グアテマラのコーヒーを淹れよう。


 プロの選んだ豆だし、瑞穂ちゃんがコーヒーを淹れるための道具を残してくれている。


 早朝の五時半から、グアテマラ産のコーヒー豆をゴリゴリと削っていく。


 除霊効果の高い香りが、オレを救ってくれるようだ。地元の近くの海などではなく、グアテマラ旅行でもすれば、オレのうつ病は即日に完治するのかもしれない。


 朝イチでコーヒーを飲む。マスターの味には遠く及ばず、料理が下手すぎるからという理由で母親に心配されて、マスターの喫茶店のバイトに出された瑞穂ちゃんのコーヒーよりも不味い。


 だが、プロの豆はさすがだ。香りだけは素晴らしいな……。


 オレはその香りと、やや薄くなってしまったコーヒーを楽しみ、トーストを食べると、名医のくれた除霊能力の高い錠剤を犬歯のあたりでガチリと噛み砕いていた。


 あとはシャワーを浴びる…………鏡を見たくはないな。よかったよ。四日前に、黒い影がうごめく幻覚を鏡に見ておけて。


 おかげで、鏡にはガムテープで段ボールを張りつけてある。


 明かりをつけて、浴室に入り……オレは足を滑らせかけた。


 驚いたんだ。


 ガムテープが湯気でゆるんだのか、床に段ボールの切れ端が落ちていたからね。


 ……そのせいで、オレは鏡を覗くことになった。薬を飲んだおかげかな。鏡の奥にいるのは、オレだけだ。


 無精髭が生えているな。昨日も剃らなかったからな。働きはじめてからは、毎朝剃るようにしていたんだが……。


 今朝は、止めておくことにした。無駄に張り切り過ぎると、またうつ病が酷くなり、黒い影の幻覚を見るかもしれないからだ。


 怖がっているわけじゃない。


 オレは、うつ病と戦いたいだけなんだ。だから、段ボールを拾いあげて、再び浴室の鏡を封じたよ。


 これで、黒い枝もこちら側に生えて来ることはない……。


「鏡を、見なければいい。そうだよな……」


 ……オレは今、誰に訊いたのだろうか?……自分ではないことは確かだ。


 ……いや、考えないようにしよう。オレは、うつ病なんだ。どんなことを考えても、悪いことしか考えつかないはずだ。


 風呂に入る。


 背中を段ボールの張られた鏡に向けたまま。狭いユニットバスの中で、オレは無言のまま、バスタブに入ったまま髪を洗った。


 ……風呂を出て、四日前から準備していたバッグの中身をもう一度チェックした。


 着替えと、タオルと水着。一応、虫刺されや外傷用の傷薬や絆創膏。そういうものを入れた。


 あとはスマホの予備のバッテリーと充電器と、オレの心の守り神、グアテマラ産のコーヒー豆と、名医のくれた魔法の薬たちを入れるのさ。


 あとは服を着て、旅支度は完成だ。


 今日は故郷の……近くの海に行く。オレの好きな日本海と出会える。そして、温泉につかり、心と体をリフレッシュするんだ。


 躁状態にあるらしい、オレの心は弾んでいたよ。


 悪夢こそ見たが……オレの心には平穏と活力が満ちていた。


 問題はない。


 うつ病の治療は、順調に運ぶだろう。




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