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序章    その4


 グアテマラの魔法は、その夜、オレを救ってくれた。


 ガラスに張り付く黒い影を見ることもなく、夜の星と共にやってくる、得体の知れない妄想的な恐怖にも遭遇することはなかったよ。


 おかげで、ぐっすりと眠れた。


 すぐに眠れて、夢を見る。


 記憶に夢が残ることは稀だけど、この夢は見たことをしっかりと覚えている。


 だから、オレはそれが夢じゃないのかもしれないと思った。


 もしかすると、記憶とか。


 オレの自我に抑圧されて、封じ込められた子供の頃の思い出なのかもしれないし……そうじゃないのかもしれない。


 精神科の名医にカウンセリングしてもらったからか、素人の女子高生カウンセリングに学生時代の記憶とか願望を呼び起こされたとか?


 わからないけど、カフェオレの好きな女子高生が夢に出て来ていた。


 冬だったよ。だから夢だとすぐに分かる。セーラー服の少女は、ペットボトル入りのコーヒーと、牛乳を混ぜていた。


 それをレンジでチンするんだ。


 行動を予測したんだ、オレは、彼女を知っているのかもしれない、あるいは願望だから、自在に彼女を操れるのか?


 ……わからない。


 でも、興味がわいた。動かせるなら、彼女を自分の好きなように動かしてみたい。


 ああ、スケベな意味じゃない。よく分からないけど、気になることがある。


 忘れていることがあるような気がする。


 何か大切なことを……知りたいと願っている。このカフェオレを飲んでいる彼女の顔は、まっ白だ。


 記憶にモヤがかかっているかのように、そこだけが分からない。


 というか、顔がオレから見えない。他の場所は見えるのに、顔だけが分からない……もどかしい。知りたいと願う。


 だから、洗面所に向かえと念じていた。そこには大きな鏡があるからだ。


 そこなら、彼女は鏡に映る。彼女の顔を見れそうな気がするんだ……確証ではなく、予感めいたもの、あるいはただの誤解が心に生じて、彼女にカフェオレを飲んだら、洗面所に向かえと念じる。


 まるでゲームをしているかのように、彼女はパタパタと足早に洗面所に向かう……。


 洗面所に見える、風呂場と脱衣場とつながっている……セーラー服の少女は洗面台に向かい、足が止まる。


 行けと念じるが歩かない。ゲームではないからか。夢は、オレの思い通りには動いてくれないようだ……。


「え……っ」


 少女は消え去りそうなほどに弱い声を出していた。


 彼女は、後ずさりする……逃げている。鏡からだ。鏡から、黒い影があふれてくる。


 それは鏡の表面から木の根っこのような形に蠢きながら伸びてきて、実を結ぶように先端が無数に膨らんでいく。


 少女は、恐怖のあまりその場に尻餅をつき、震える手足は、彼女から逃亡の意思を吸い取っていくようだ。

 

 真の恐怖に出くわしたとき、ヒトは逃げられない。


 恐怖に誘われるように視線はその膨らむ黒い果実に固定され、震える体はガチガチと歯を鳴らした。


 逃げたいし、見たくないのだ。


 膨らみ、焦げた臭いを放つ、黒い無数の実たちを……。


 分かる。分かるけれど、オレも気になる。分かっているからだ。


 あの実が何になるかを、オレは分かっている気がするんだ。


 これがオレの心の中にある狂気なら、アレは、あの実が『出産』するのは、黒い小さな子供たちだ。


 鏡から生えた枝に成る実が、破裂する。


 そして、中からドロリとしたものが垂れてくるのだ。それはまるで卵を割って、中身をお椀にでも移すときのような、粘液質の動きだ。


 黒い卵。


 うん、そうかもしれない。あれは出産みたいなものだから。


 生まれた黒いぬめつく物体が、洗面所の床を這う。


 焦げた臭いがする。少女は、逃げたがる。目を反らしたい。


 それでも、出来ない。


 恐怖は涙と嗚咽に化けて、震える手足は逃げることを選ぶのではなく、身を守ろうと小さな体の前でか弱げに交差される……。


「こないで……こないで……っ!!わ、私は、あなたの、あなたたちのママじゃないのよ!!」


 あなたたち。


 そうだ、それは一人じゃなかった。鏡の国から現実の世界に生えて来た枝に実ったのは、無数の黒い実。


 膨らんで、弾けたそれからは、実の数だけ粘液質の黒い赤ん坊が生まれて来る。


 蠢きながら、黒い粘液と、実とつながるへその緒で、弾けた実を引きずりながら顔も口もない焦げた赤ん坊たちの群れが、少女に近づいていく。


 逃げろ!!……そんな風に叫んだのか。あるいは、どうなるのか先を見てみたかったのか……分からない。


 何も思えなかったのかもしれない。黒い赤ん坊の群れは、いきなりそのゆっくりとしていた動きを加速させ、犬か、あるいは犬よりも速い動きで、少女に襲いかかる。


「やだあ!!やだあ!!こないで!!こないでえええ!!!」


 拒絶し手足をバタつかせ、黒い赤ん坊たちから身を守ろうとするが、黒い赤ん坊たちは一瞬のうちに少女の体に食らいつく。


 いや、噛みついたわけではなく、求めているのだと感じた。男が女に抱く劣情ではなく、食欲とか……いや、母親を求めているのか?これは、母親になれと強いる行為なのかもしれない。


 赤子の群れが黒い粘液を、少女の服と肌に塗り付けていく……オイルのようだ。あるいは、タール?同じことか。どちらでもないのは確かであるが、不愉快極まりない。


 少女は悲鳴と体の暴れを用いて、この事態を拒絶しようともがくが、黒い粘液に絡まり、手足の動きは悪くなっていくのだ……。


 クモの巣にかかる蝶。


 あるいは、暴漢たちに凌辱される娘にも見えた。どうにもならない悪夢じみた状況に少女は泣き叫び、観察者であるオレはあの群れを成す黒い赤子に対する嫌悪と、哀れな彼女への同情に顔をしかめる。


 ……そして。


 それは始まった。


 黒い赤子たちから、炎があふれる。


「やだ、やだああああああああああ!!!」


 裏返り金切り声になる甲高い悲鳴をあげて、少女は己の末路に絶望する。


 熱い。


 そして、肉が焼ける音と痛みを訴える叫びがあふれていく……牙ある肉食動物であるヒトの食欲をそそる肉が焼ける臭いが漂い始めていた。


 少女の足は、まるで焼き肉屋の換気扇から吐き出される臭いと全く同じ煙を放つ。


 そんなことを連想し……吐き気を催したが、胃袋を夢には持ち込めない。そして、その地獄の光景は止まらない。悪夢は、それを見る者の願いをきかないのだ。


「いやあああ!!やめて!!やめて!!燃やさないで!!死んじゃう!!死んじゃうよう!!」


 少女の体は足だけでなく全身が焼かれていく。暴れようとしても、無駄だ。粘液は重たげに絡まり、彼女の拒絶の動きを無効化するから。


 結末を予感する。赤い炎に呑まれた彼女は、このまま焼け死ぬのだ。


 どうしてやることも出来ず、オレはその光景をどこからか見ていた。


 全てが、赤く包まれる。炎はもはや弱々しくしかもがけない少女を焼いているだけじゃない。


 洗面所そのものを、いや、少女の家ごと、赤く染め上げ灼熱の底へと呑み込んでいくのだ。


 燃えている。


 全てが燃えて、焼かれて、黒く焦げていく。


 狂気の歌が聞こえる。


 知っている声で。


 叔母の声で、子守唄が響いてくる。狂気を帯びた美しさで、ときおり旋律を外れながら、歌声が響く。


「かわいい、かわいい、こんがり童子。母親探して、抱きついて。いっしょに寝んねしようとささやくの。やさしい母親探してる。いっしょにいつまでもいてくれる母親を探してる。まんまをあげて、抱き締めて、今夜、頭にキスをして。愛してあげなきゃ殺される♪」


 焼けていく。少女と、少女の家が赤く焼けて、そして、やがて、黒く焦げて死体は固まり残存する。


 黒く焦げた世界で。うごめく黒い赤子の群れたちが、何かを求めて、四方八方に散らばっていく。


 知っているよ。あれは、母親を求めているんだ。


 見つけて、母親にしたいんだ、どこかにいるやさしい女を。


 あの黒くなり、眼窩と口のくぼみしか分からなくなった焦げた顔の少女は、こんがり童子たちを抱き締められなかった。


 存在しないさ。燃える赤子を抱ける女なんて…………。


 オレは、彼女の顔が分からない理由に気づけた気がする。


 知っている彼女の顔は、黒く焦げて、目も耳も鼻も唇も、分からなかったからだと思った。


 でも、そんな理由に至る理屈は分からない。いや。これは、しょうがないことさ。こんなものは、うつ病患者の見る悪夢に過ぎないのだから…………。



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