序章 その3
オレは叔母のせいで、小学生時代も中学生時代も、よくからかわれていた。
それがイヤでケンカしたり、いじめられないようにするために柔道やら空手を習ったりした。
高校になる頃には体格も出来たし、隣町の工業高に進学したこともあり、いじめられることはなかった。
だが、元・男子校の工業高校だったからか、女っ気なく過ごすのみだった。
畑と野山に包囲され、クラスに女子は二人しかおらず、どちらも柔道部員で85キロより上の体重を持っていて、女子扱いしにくさがあったのが現実だ。
楽しいことは少なかったな。マジメに勉強して、教師に気に入られ、さっさと社会人になりたかった。
そうすれば、叔母の思い出が漂う地元を離脱することが出来るから。
目論みは成功し、オレは大手の車産業の一員になれたし、地元から都会への転属を望み、地元から離れられた……オレの田舎は都会へ転属を望むヤツは少ない。農家もしなけりゃならないヤツもいるからね。
都会に出てきて、オレは本当の意味で叔母から逃れられた気がしている……。
「そういうことかー」
徐霊珈琲を二人で飲みながら、瑞穂ちゃんに自分のことを聞いてもらっていた。
女子高生カウンセラーごっこに、オレは癒されたのか、それともグアテマラから輸入された焼き豆はうつ病にも効くのか、何だか頭のモヤモヤが晴れたような気がしているんだよね。
長年、隠してきた本音だからかもしれない。自分が何かから逃げるってコトを話すのは、おとこには辛い作業なんだよ。
でも、うつ病だからか、ヤケクソになっているのか、自分がどれだけ苦しい日々を送っていたのか、叔母の見せた狂気から逃れたかったのかを語ることが出来て、オレは気持ちが楽にはなった。
しばらくの沈黙が過ぎて、瑞穂ちゃんは語り始める。
「……私は叔母さんも叔父さんも姪っ子も好きだから、結城さんの苦しみは理解してあげることまでは難しいと思う」
「そうだと思う。オレの苦しみなんて、理解してたらうつ病になるさ」
「あはは。そうかも。でも、今は叔母さんのことで苦しくないんでしょ?」
「……そうだね。もう、終わったことだと思っている」
「なら、それでいいのよ。きっと」
「ああ……ありがとうな、瑞穂ちゃん。何というか、一連のサービスで、心が楽になったよ」
営業の技術としてではない、プライベート仕様のありがとうは、とても難しい。悲惨な子供時代を過ごしたオレには、ヒト付き合いは困難な作業の一つだ。
不器用な顔の筋肉を、歪めながら笑う。
天真爛漫な笑顔が得意な小麦色の女子高生は、より早く走るために矯正したという、キレイな歯並びを見せつけながら、ひまわりのような笑顔になる。
夏とか、笑顔の似合う子だ。うつ病によく効く気がした。
だけど、そろそろ遅くなっている。
スタンガンにも負けない下心は、皆無じゃないけど、惨めな子供時代について語った後に、彼女を押し倒すのは、あんまりにもカッコ悪いからね。
「ありがとう。とりあえず、今日はもう遅いから、お家に帰りなさい」
「そうだね。もう、七時半過ぎだし」
「送ろうか?」
「大丈夫だよ、ふらついてたから私が来たわけだし。それに、街中は明るいよ……?」
「……いや、タクシー呼んどく」
「ええー、もったいないよ!?」
「出張徐霊珈琲とかカウンセラーのお礼をしたいんだよ。瑞穂ちゃんを痴漢から守りたい気持ちが強いんだ、今のオレは」
「そ、そーすか?」
「そーすよ」
まあ、スタンガンに焼かれる痴漢の方も心配な気がしたけどね……。
スマホでタクシーを呼んでみた。寮の前まで来てくれるらしい、5分後にね。意外とこの時間帯でも捕まえられるもんだな。
部屋の外に出て、瑞穂ちゃんに三千円ほど渡した。タクシー代と、出張サービス代さ。
「なんか、お金もらうつもりじゃなかったんだけど……」
「三千円じゃ足りないぐらいのことをしてもらったよ」
「えへへ。そう?迷惑じゃなかった?」
「うん。うつ病治りそう」
「徐霊珈琲スゴいね」
「そうだね」
幽霊なんて信じちゃいないけど、今は瑞穂ちゃんの遊び心に付き合える心の余裕がある。
薬が効いたのか、それともグアテマラ産の徐霊珈琲が良かったのか……。
ともかく、いい心の休養が出来た気がする。あとは故郷の……近くの海に行けば、気が楽になりそうだ。
都会が好きな気がしていたけど、田舎のヒトがいない環境を求めていたのかもしれない。
「あ。タクシー来た!」
「うん。じゃあ、おやすみ、瑞穂ちゃん」
「うん!おやすみ、結城さん!」
健康的な素早さを発揮して、瑞穂ちゃんはタクシーまで走っていった。彼女はオレに手を振り、タクシーに乗り込んだ。
そして、タクシーが走る方向にオレは視線を動かし……会社の先輩を見つけた。
「山田先輩?」
「え!?あ、ああ……お前、療養休暇中だよな?」
「うつ病と診断されました」
「……仮病だろ?」
「いいえ、診断書ありますし、今日は医師の勧めに従って休日を過ごしてみました。とても心地よく過ごせましたよ」
「女子高生との援助交際がか?」
「違います。喫茶店の出張サービスですよ、アレは」
「……喫茶店の出張サービスで女子高生が部屋に来るって……お前、そんなうつ病の治療法なんて、あるわけないだろ?」
……たしかに。彼女の善意から来るもので、別に治療じゃないな。
「……なんか、心配して損したわ。これ、一応、見舞いのスイカ。ガンガン食って、週明けぐらいには復帰しろ」
「明日は海に療養に行くので、もう少しかかるかも?うつ病は、なかなか時間のかかる病気なので」
「……まあ、その様子だと調子良さそうだ。いつものお前っぽいし。じゃあな、一応、お大事に」
スイカを手渡した山田先輩は、何か大きな誤解を残したまま、独身寮を立ち去っていった……。