第三話 産まれてしまったからには。 その三
「なんだよ、これ……?」
壁にピッタリと張り付いている、瑞穂ちゃんのピンク色のスマホ。どうして……壁に?
頭を捻りながらも、そのスマホに近づいていく。
近くまで行くと、理由がわかったよ。蜘蛛の糸だ……蜘蛛の糸で、張り付いている。
オレは彼女のスマホを指でつかみ、糸で壁から引き剥がす。
オレの知っている蜘蛛の糸とは異なり、それはえらく粘ついていたよ。
変な臭いがしないのは、オレと、そして持ち主である瑞穂ちゃんにとっては吉報だったろうな。
無臭で、粘ってはいるが……だんだんと空気に糸は溶けていく。
オレの正気度が、まだ高いから?……この糸は空気中に溶けてくれるのだろうか?
……変なことを口走っているという自覚ぐらいはあるよ。
でも、本能的には納得してる。この悪夢の世界は、オレの精神状態を反映して形作られているらしいから……。
そんな世界において、オレは幻覚の瑞穂ちゃんを追いかけている。瑞穂ちゃんに何か役割を与えているのか?
ピーチ姫みたいなポジションなのかな。彼女を助ければ、この悪夢は終わってくれるのか……。
……幻覚の世界のはずなのに、手の中にある瑞穂ちゃんのスマホは、やけにリアルだった。
着信はまだ続いている。『志郎お兄ちゃん』。画面にはオレの番号につけられた名前があるよ。
オレは、なんだかとてもさみしくなる。瑞穂ちゃんに会いたくなる……。
でも。バッテリーが切れてしまったのか、画面が暗くなっていくんだ。
瑞穂ちゃんとのつながりも、切れてしまったように感じて、ひどく落ち込むよ。
世界がまた暗くなるのを感じた。
ここは危ない場所だったんだ、瑞穂ちゃんの隠れた場所には、あの蜘蛛みたいなものがいたのかもしれない。
……さっきの腐乱死体を想像し、吐き気を催す。
でも。そんなことしている場合じゃない。
お兄ちゃんは、がんばらないといけないんだよ。
名医のくれた錠剤を、吐き気が込み上げてくる口の中に放り込む。
奥歯で噛んで、唾液で喉の奥に押し込むのだ。
あと三つになった。
怪物どもに囲まれたり、噛みつかれたりしたときに使おうと思っていたけど、いいんだ。
そんなことはいいんだよ。
必要なのは、大切なのは瑞穂ちゃんだ。この場にいないということは、スマホに糸がついていたということは……。
……きっと、さらわれている。
あの蜘蛛みたいな怪物か、あるいは他の怪物に。
あの蜘蛛は……ナースの体内に、腹に、こんがり童子の『卵』を産み付けていたように感じた。
考えたくはないけど。
瑞穂ちゃんにも、そんな行為をしようとしているのかもしれない。
やさしくて、元気な瑞穂ちゃんは、こんがり童子が母親にしたいと願望するのかもしれかい。
瑞穂ちゃんなら、抱き締めるだろうか?
バケモノでも、自分の腹から出て来た我が子なら。
それを腕に抱けば、焼き殺されると知りながらも、抱き締めてやれるのだろうか……。
知りたくない。
瑞穂ちゃんが、こんがり童子を産む光景も見たくない。
どうにか、すべきだ。
どうにか……。
……だから。
オレは薬を飲んだぞ。
ほら、世界よ。名医のくれた魔法の薬のおかげで、明るくなりやがれ。
闇が消えて、暗がりがなくなり、この狂った病院の歪みが減少すれば……見えてくるかもしれない。
オレがいくべき場所。
オレが助けなきゃいけない瑞穂ちゃんへの場所。
そこへとつながる、手がかりが、このリネン室にはあるんじゃないのか?
人が煙みたいに消えて、たまるものかよ。
世界は明るさを取り戻していく。
そして。
オレは見つけたんだ。リネン室の片隅に、大きな穴があった。
男のオレなら通れないけど、瑞穂ちゃんぐらいのサイズなら、無理矢理に引き込めそうな穴だった。
そいつは、地下に続いている。暗くて奥は見えないが、地下には広い空間があるようだ。
行くべき場所は、ひとつだった。