序章 その2
夕方までカウンター席で寝ていたが、客が増えてくる6時半に瑞穂ちゃんに起こされた。
「さあ、結城さんお家に帰りましょう!」
「……実家には戻らないよ。行くのはマスターの家の近くさ。オレは、カプセルホテルでもネカフェでも……」
「それは明日のことでしょう?……今夜は自分のアパートに戻らなきゃ」
「ああ、そうだね」
ゆっくりと立ち上がる。安定剤のおかげなのか、ふらついたよ。
「だ、だいじょうぶ?」
「行ける。今、外には幻覚がいないから」
「取りつかれているっぽいヒトの発言」
「そうだね。まあ、しつこい幻覚が見えちゃうのさ、心の疲れた社会人は」
「とにかく、どうするの?タクシー呼ぶ?」
「いいよ、電車乗って独身寮まで行く」
「途中までだから、一緒に行ってあげるね。こういうの、同伴っていうんでしょ?」
小麦色の顔で、にんまりと少女は笑った。オレは苦笑する。
「喫茶店にはないシステムだよ。変な言葉を覚えるんじゃない、女子高生」
「はーい!じゃあ、行きましょう、お客さん!!」
キャバ嬢の真似事か。健康的な小娘の瑞穂ちゃんには似合わないが……徐霊コーヒーの香りがする瑞穂ちゃんは、たしかにオレの人的安定剤というかね。
商店街を瑞穂ちゃんの後ろを歩き、帰宅ラッシュで込み合う電車に乗る。二つの駅を過ぎて、瑞穂ちゃんと一緒に電車から降りた。
「幽霊は出てる?」
「出てません。そもそも幽霊とかいないし」
「まあ、何にせよいなかったのは良いことですね」
「ほんとそーですね」
独身寮には、すぐついてしまった。女子高生ともっと長く一緒にいたかった?……どうかな、23才と女子高生のコンビはギリギリで犯罪じゃないのかもしれない。
でも、うつ病野郎と女子高生のコンビって方がダメっぽく聞こえるな。幻覚見えちゃうような男のそばに、女子高生がいることは罪深く思える。
「さて、ここが結城さんの部屋かー。大きな企業の独身寮なのに、フツーのアパートっぽいよね」
築十八年の微妙な長さの伝統を持つ建物だ。寮って言っても、そんなものさ。共同生活するわけじゃなく、社員のために割引が利いている建物ってだけ。
会社にも近いから、通勤には楽。社畜ライフを満喫できるわけさ。
「じゃあ、気を付けて帰るんだよ?夏だから明るいけど、痴漢や変態には気を付けて……」
「ううん。部屋に上がらせてもらうの。徐霊するから」
「……徐霊はともかく、独身幻覚野郎の部屋に上がり込むのはまずくないか?」
「結城さんが下心持たなければ平気。あまり防音とかイマイチそうだから、襲われたら叫ぶし。あと、これもあるの」
「これ?」
「うん。これ」
女子高生は見慣れぬ機械を通学用のバックから取り出して、オレに見せた。
「都会人が好む徐霊マシーン?」
「そんなものかな。スタンガンって言うんだよ。叔父さんが貸してくれてるの」
「オレ対策に?」
「ううん、結城さんじゃなくて、変態さん用に。だから、私の身は安全なのだー」
脚の早い陸上部員は、手のなかにある対変態用電流マシーンのスイッチを入れた。
バチバチバチと空気が鳴っている。とても怖い機械だった。スケベ心が焼け死ぬ音が、胸の奥から響いてくる。
「さあ、とにかく部屋に入れてね、結城さん」
「オレ、女子高生に脅されてるみたい」
「うつ病らしく、被害妄想的ね。同伴サービスの延長なだけですから」
キャバ嬢と幽霊退治屋ゴッコを楽しんでいる夏の少女は、オレを支配して、オレの部屋に踏み込んで来やがった。
「へー。男のヒトの部屋とか、初めて入ったわ。意外とキレイね。エッチな雑誌とか転がっているのかと思っていたのに」
「エッチな雑誌とかが転がっていると楽しいのかい、女子高生的に?」
「スマホで撮影して叔父さんと一緒に笑おうかと」
「悪魔か」
「冗談よ。見て見ぬフリをしてあげる!」
上手く隠してあるから問題はないよ。その言葉をうつ病野郎は心にしまう。
オレの心の内など知らない瑞穂ちゃんは、徐霊ゴッコを始めたよ。
呪文とか?巫女服に着替えるとか?……そういうファンタジーなサービスはない。
霊験に満ちあふれたグアテマラ産コーヒー豆を、叔父さんの店から借りてきた豆挽き機でゴリゴリと削り、それをコーヒーにすることで、徐霊ゴッコを完遂された。
「これで、うちの店と同じような香りがするでしょ?徐霊珈琲の出前ね!」
「ああ。ほんとにね。独身寮の部屋で現役女子高生に淹れて頂いたコーヒーは最高だよ」
「そういう発言ばかり聞いているからか、うつ病っぽく感じないのよね。なんか元気そうに見えるわ」
「……瑞穂ちゃんは夜のオレを知らないからさ。不安で吐いたり、幻覚が窓の外に張り付いたりするから、スゴく辛い」
「そ、そうなんだ。ごめんなさい、勝手なことを言って……」
「いや。いいんだ、本当に助かってるんだよ。このコーヒーの香りがしてると、とても落ち着くんだ……今夜は、瑞穂ちゃんのおかげで、よく眠れるような気がする」
「それなら、よかった。わざわざ出張サービスした甲斐があるわ!」
元気に笑う少女を見ていると、心が落ち着く。オレの学生生活は叔母のことをからかわれてばかりで、孤独なものだった。
だからか?女子高生の瑞穂ちゃんに癒されるのは?……そんな後ろ向きな補完を、ヒトの心は考えるものなのか……。
「……結城さんって、高卒のくせに難しい本読むんですね」
エロ本を探していたのか、気づいたときには、瑞穂ちゃんは本だなを漁っていたよ。
「民俗学……?経済なんとか……精神分析なんとか……?金属材料がなんとか?」
まさか、ナントカと読んでいる部分の漢字を読めていないのだろうか?……受験でなくて良かったよ、と、瑞穂ちゃんの学力をオレは心配した。