第二話 悪夢は雨の日に産まれた。 その七
死んだ怪物蜘蛛は、ゆっくりと消え去っていく。黒い粉になりながら、床に崩れ去り、床にたまったその粉も、空気にでも溶けるかのように消失していく……。
リネン室の蛍光灯が幾度か点滅しながら、やがて完全に点灯した。
そこら中にあったはずの蜘蛛の糸が消え去って、折り重なったシーツが入ったカーゴとか、積み重なった毛布が見える。
世界は平常運転を取り戻したらしい。名医がくれた魔法の薬が、またオレの精神を救ってくれた。
……いや、命もかな。
「痛いしね……っ」
酸の唾液で焼かれた左胸と左腕、あと顔も痛みが残存している。すぐに全快するわけじゃない、心的外傷後ストレス障害というヤツかも?
世界一嫌悪している生物に、食い殺されかけたんだ。嫌な気持ちになるに決まっている。
全ては幻覚の産物のはずなのに……あちこちの痛みがオレを不安にさせるんだ。
それでも。
今は動こう。オレがここに来たのには理由があるのだから。
もちろん、瑞穂ちゃんを助けにだ……ここは妄想の世界だけど、オレは彼女にとって保護者に他ならない。
……リネン室を歩く。さっきまでとは景色が異なっているから。
精神が安定すると、この世界の形状もマシになるのか。
寝具の入ったカーゴを押して、探した。瑞穂ちゃんと呼ぶ。返事はない。
3台目のカーゴを押そうとして、何かにぶつかった。
もしかしたら、床に倒れている瑞穂ちゃんかも。
そう考えて慌てて、カーゴの反対側に回り込んだ。そこには、悪夢が置き土産を残していた……。
「くっ!!」
そこに転がっていたのは、蜘蛛の糸が絡み付く、160センチほどのカタマリだ。
糸は先程よりも薄くなっているのか、中身の形がよく分かってしまう。ヒトの形だ。細くて小さい体……女の体をオレは想像してしまう。
「瑞穂ちゃん!!」
嫌な予感しかしない。彼女が捕らえられている繭状のそれに、オレは飛び付いていた。
動悸が激しくなる、心臓がこの状況に恐怖を抱いているのが分かる。いやだ、瑞穂ちゃんを助けてあげなくちゃ……っ。
指を使って、彼女の小さな体に絡み付く糸を引きちぎっていく。むしり取る。一心不乱になって……。
頭部から先に出してあげたい。そう考えながら、頭を包む糸を剥ぎ取っていくと、ベリリという糸とは違う何かが裂けるような音がした。
「……え」
戸惑いながら、右手の指が掴むものを見る。
オレの指の間からは、瑞穂ちゃんの無数の黒い髪と……赤黒い何かと、腐臭を漂わせる何か黄色いものが見えた。
黄色いものは臭くて、粘液を垂らす……。
腐った、ヒトの脂とか……だろうか。昼間に見た腐った狸の死骸を思い出す。あれの膨らんだ目玉からは、黄色い涙があふれていた。
あれは、腐敗した生き物中身……それが、目玉のための穴からあふれていたものだ……。
瑞穂ちゃんの、体はすでに腐っているようだ。
「瑞穂ちゃん……っ」
彼女の名前をつぶやきながら、恐る恐る、オレは手から繭へと視線を移していく。
見たくない。
確認したくない。
でも、オレの手が彼女の頭皮の一部を剥ぎ取ったとすると……いや、生きているかもしれない。
何より、瑞穂ちゃんに会いたい。
黒い髪が。
そこにあった。
引きちぎられた糸のベールから、黒い髪と、白と赤と黒と黄色が見えた。
白は頭蓋骨だと思う。赤は血で、黒は何か分からないし、黄色は何なのかも知りたくない。
オレは、再び吐いた。吐くものなど、何も無いはずなのに……。
胃液があふれ、喉の奥と鼻の奥を胃酸で痛めながら、瑞穂ちゃんの腐乱死体のすぐそばに、黄色い体液をぶちまけていた。
もう、何も考えたくない。
こんな悪夢は、悪夢にしたってあんまりじゃないか……。
瑞穂ちゃんが、死んで、腐った姿を見ることになるなんて……。
ああ、もう、イヤだ……魔法の薬も、効かないじゃないか……世界が、また暗くなる……きっと、胃酸と一緒に、薬を吐いちまったからだ。
オレは……きっと、また一段と精神病が進んだのだ。もう、完全に狂っているのかもしれない…………。




