第二話 悪夢は雨の日に産まれた。 その六
嫌いな虫って、誰しもが一つや二つ持っているものだろう?
オレは蜘蛛が嫌いだ。アシダカグモがね。理由は、ヤツらに知性を感じるから。
田舎の古い家で育ったから、ヤツらとはよく遭遇した。手のひらみたいに大きなヤツもいる。
……本当に気持ちが悪いよ。あいつらは、跳び跳ねたりもするしね。
何より、こちらが脅すとわ150センチぐらい逃げて、止まり。振り返るんだ。
間合い測って、安全な距離を理解しているように見えた。
他の虫けらよりも、賢い。多機能。
そこがイヤなポイントだ。益虫とかいうが、ヤツらのもたらすメリットなど、オレはいらない。
この世から消えて欲しいものの一つが、今、目の前にいた。
暗がりのなかで黄色い瞳を光らせる中年男性たちの顔と、二メートルはありそうな巨大な蜘蛛の体がくっついたゲテモノがね。
蜘蛛の巨大な胴体と腹には、中年の顔がたくさん張り付いている。理由はしらないが、中年たちの顔は物憂げで、どいつもこいつも何かをクチャクチャと噛んでいる。
……瑞穂ちゃんの肉だろうか。
そんな最悪の考えが頭に浮かんだとき、巨大蜘蛛はオレめがけて、あの不気味な飛び跳ねを使ってきた。
恐怖で体がすくみ、反応できなかった。
すぐさま、押し倒される。焦げた肉のにおいがする。焼肉屋の近くみたいなにおい……クチャクチャと中年どもが何かを噛んでいる。
消火器をもう一本持ってきておけば良かった。後悔するが、もう遅い。
蜘蛛の脚が、オレの胴体に絡み付き、オレの顔のすぐ下には、ネバつく唾液がキラキラと輝く牙の列がある。
食い殺す気なのだろう。蜘蛛の脚が、オレの体を締め付けてくる。肋骨がバキリと折れるのを感じる……。
とても痛い。死を連想する。柔道黒帯だけも、八本足との寝技は知らない。しかも、こいつの牙から垂れる唾液がかかった場所は、また熱さを感じるんだ。
歪んだナースとは、また別の熱さ……皮膚が煙を上げている。イメージしたのは、酸だ。消化液だから、塩酸でも混じっているのかもしれない。
いや、塩酸どころか硫酸かも知れない。
このままでは、殺される。肋骨が折れて、肺に刺さるかもしれないし、硫酸で焼き殺されるかも。
動こうとすれば、動く。蜘蛛はデカイが重さはない。だけど、離れないし、ひっくり返そうともがくと、足を何本か外して体勢を整え直す。
どうにもならない。
どんどん酸をかけられて、胸やら顔が溶けていく。痛みと熱さ、そして、溶けていく不安感。
じっくりと絞められながら、溶かされて死ぬのだろう。
……蜘蛛に殺されるのはイヤだ。他に殺されたい生物の候補とかはないけどね。
だから、またあの魔法の薬に頼る。
もがいたとき、右腕が一瞬、自由になった。体勢を直すために、脚をオレの体から外しやがったから、この化け蜘蛛は。
だから、今は胸ポケットに指が入る。悲鳴も出せないほど肋骨を締め上げられていて、溶けていく痛みを叫びとして表現することも出来ないけど。
錠剤を口に運ぶことは出来る。分かっている。この薬を飲めばいいんだ。
そうすれば、オレの心は落ち着いて、この悪夢は濃度を失う。こんな怪物蜘蛛も、消滅してしまうのさ。
オレは錠剤を口に入れて、奥歯で噛み潰していく。砕いて、唾液とまぶして飲み込むんだよ、すぐに効果を発揮してもらうためにな……。
さっきは有効だった。だから、頼むよ……名医がくれた魔法の薬よ。このクソ蜘蛛を、消してくれ。
祈りは通じて、精神安定剤は巨大蜘蛛から力を奪っていく。弱くなっている。蜘蛛は死にかけているんだよ。
だから、オレは暴れた。暴れると、強さを失った蜘蛛の脚はバキリと折れてしまうのだ。
蜘蛛の腹を右膝と左の靴底を使って、思い切り蹴飛ばしてやり、ヤツをそのまま仰向けにする。
仰向けになった蜘蛛は脚をばたつかせていやがる。強い殺虫剤を浴びて、もがき死ぬ蜘蛛のようだ。
オレは痛む体を無理矢理に起こす。溶けた肉が、喪失感を伴う不気味な痛みを発生させる。
食われた気持ちになる。本当に、ムカつく。オレは、死にかけの巨大蜘蛛の腹に蹴りを入れる!何度も、何度も、怒りと憎悪を込めて、中年男の顔面が張り付いた、その巨大な膨らみを蹴りつけ、踏みつけていた。
しばらくすると、ヤツの脚が丸まっていく。フツーの蜘蛛みたいに、死ぬと足が内向きに曲がるようだ……。
不気味で不快だが、オレを食おうとした蜘蛛が死ぬと思えば笑みも浮かぶ。
「ざまあみろ!!」
そして、再生も始まる。溶けた皮膚と、折れた肋骨が治癒していく。肉がうごめき、皮膚の痛みが薄らいでいくし、肋骨の痛みもまたしかりだ。
オレは、この世界のルールを把握し始めている。
オレの狂気と連動しているのさ。何故かまでは、理解が及ばないけれどね……。




