第二話 悪夢は雨の日に産まれた。 その五
古びた消火器を片手に、玄関ホールの壁に貼り付けられた病院の見取り図を睨み付ける……。
リネン室、リネン室、リネン室……。
何ヵ所かあるな。どこに瑞穂ちゃんはいるのだろうか。
分からないけど、近くから行こう。オレはスマホのカメラでこの地図を撮影しておく。
スマホは機能してくれる。悪夢の中でも頼りになりやがる。
上着の胸ポケットにスマホを差し込み、このホールから最も近いリネン室へと走った。
走る理由は、瑞穂ちゃんが待っているから……というだけじゃない。
そこら中が段々と薄暗くなっていくのが分かるからだ。
この暗がりが強くなれば、きっと、オレはまた酷い幻覚を見るのだと思う。
歪んだナースに出会うんだろう。いや、それ意外の幻覚とも出会うかもしれない。
瑞穂ちゃんが電話で言っていた。他にもいるのさ、怪物どもが……。
……ああ。
イヤだな。
やる気が起きなくなる。くそ……何もかも放り出して、逃げたくなっちまう。
これたがら、うつ病は!!……瑞穂ちゃんが待っているのに、何てことを考えるんだろう……たとえ、彼女がオレの妄想の産物だとしてもだ。
自己嫌悪する。
夢や妄想の中でさえも、ヒーローになれないなんて、オレは本当にクズだよ…………。
心が落ち込み、それに応じるように世界が歪んでいく。
近代的な総合病院に見えていた場所が、あちこち赤く錆び付いていくのさ。
いや、白くて清潔さを感じさせていた壁紙の裏側から、血が、染み出しているのかもしれない。
壁紙に、まるで葉脈みたいな筋が浮かんでいく。あれは……血管かもしれないな。
カッターか何かで切ると、血が吹き出すかもしれない。
だって、拍動している。病院の血管……?狂気の産物としては、ありがちかもしれない。
オレは、最初のリネン室に近づき、黒い影の群れを見た。
そうだ、瑞穂ちゃんは部屋の前に、あいつらが集まっている、と教えてくれた。
じゃあ、あそこにいるのか?
あいつらは、部屋を開けられないのか……何て言うか、うつ病患者の産物らしく、無気力だな。
いいさ。やってやるよ。ここが悪夢の中なら、何をしたっていいハズだ。
あの黒い影が、歪んだナースになるより先に、消火器で消し飛ばしてやればいい!
さっきは、ひびらせやがって……。
消火器で、お前らなんか消してやる!!
オレは強気になった。さっきまで落ち込んでいた自分が嘘のようだ。躁うつ病さ。テンションが不安定なんだろうよ!!
うつ病がより悪化しているんだ!!今のオレには、怖いものなんてない!!ヒーローになるんだよ!!
「消えちまえ!!くそナースども!!」
叫びながら、リネン室の前にいる黒い影どもに、徐々に歪んだナースに化けようとしている暗黒どもに、思いきり消火剤の霧を浴びせてやる!!
『ぎゃわひひひきいいい!!??』
『まぎゃがごごおおおおおお!!??』
意味のわからぬ音を放ちながら、消化材を浴びた歪んだナースともが、溶けていく。
まるで、熱されたチーズみたいだと感じるよ。手足がグニャリと曲がりながら床に垂れ落ち、あの膨らんだ腹は、気泡みたいにパチリと弾けて、腐った臭いを放ちながら、中身がゴロリと転がり落ちた。
中身は、そうさ。
オレが今までよく見てきた、黒いガキどもだ。
こんがり童子に似た、オレの幻覚。
今までの恨みを晴らすかのように、床へと転がる黒い赤子たちへも消火剤をかけてやる。
やつらは口が焦げてくっついているからな、無言なんだ。
悲鳴を聞かなくて済むのは幸いなことだ。目の前で黒が白い泡に呑まれて溶けていく。
ざまあみろさ!!……あの呪われた怪物どもが、跡形もなく消えちまったよ!!
オレは、笑っていた。空になった消火器を投げ捨てて、怪物どもの死を喜んだ。
ヒーローらしくないさ。でも、いいんだ。一般人はそんなものにならない。残酷で、利己的な、経済動物の一種類。
それが、オレたち日本のサラリーマンだ。
正義のヒーローになれないオレは、怪物の残骸を踏みつけながら、リネン室をノックした。
「瑞穂ちゃん、いるのか?」
……無言だった。オレの狂った笑いにドン引きしてるとか?……あるいは、ここじゃないとか?
分からない。まあ、ドアを開けてみれば分かるだろう。
そんな気楽な考えの元に、ドアを開いていた。
ドアの奥には……蜘蛛の巣があった。
小さいやつじゃない。リネン室中に蜘蛛の巣が張り巡らされている。
イヤな予感はもちろんしたよ。オレだってバカじゃないんだ。
逃げるべきだろうか?……でも、逃げられない。オレは、蜘蛛の糸が巻き付いた物体を見つけていたから。
アレは、蜘蛛が獲物を糸で覆うやつじゃないか?160センチはあるけど……もしかして、あのなかには……。
「瑞穂ちゃん……」
嫌な予感はしている。あの中に、瑞穂ちゃんがいるんじゃないかと……オレは繭みたいなそれに近づき、見つけていた。
目が合ったよ。
そいつは、闇に潜み、オレを待ち構えていた、新たな怪物だったんだ。