第一話 海へと向かう。 その八
「志郎お兄ちゃん、大丈夫?」
「……うん。溶けかけのうどんが鼻から出そうなだけ」
「……辛そうだね」
「まあね」
トイレの外にいる瑞穂ちゃんに真実を報告しながら、オレの栄養になりそこねたキツネうどんを下水に流していた。
トイレの入り口にある手洗い場で顔を洗う。脂汗だらけだったし……そして、口のなかをゆすぐため、手に水をためた。
そして、それを口に入れてうがいした。嘔吐の味を分散するためだ。
鏡を見る。不機嫌そうな顔のオレがいるが、幻覚はない。魔法の薬を噛み砕いたのが良かったのかも。素早く溶けて、体に回ったのかな。
でも、うどんと一緒に大半が体から出てしまった……まあ、いいさ。とりあえず、役目は果たした。
トイレから出ると、不安げな顔の瑞穂ちゃんがいた。
「大丈夫?」
「……うん。うつ病野郎には、酷な仕事だったけどね」
「でも、志郎さんがあそこにいて、良かったね。あの妊婦さん、助かったじゃない」
「うん。そうだね……ああ、すごく、疲れた」
「休んだらいいよ。そこの椅子に座ろう」
瑞穂ちゃんに手を引かれて、待合室の長椅子に座る。緊張感が抜けて、体を支える心の力が失くなったのか、ガックリと手足が脱力する。
背もたれに支えられながら、反り返る……そんな情けないオレの隣に、瑞穂ちゃんが座ってきた。
「オレ、ゲロ臭いから近くに来ない方が良いかも」
「気にしないし。志郎お兄ちゃん、がんばったよ」
「……そうかな。安心してゲロ吐くなんて、情けないよ、男としては」
「そうでもないよ。みんな慌ててた。オロオロしてた。でも、志郎お兄ちゃん、ちゃんとここまで妊婦さんを連れて来たし」
「最低限は、がんばれた」
「うつ病、すぐに治るよ」
「……そうだといいね。ああ、疲れた……ちょっとだけ、休んでいい?」
「うん。私、ジュース買ってくる。玄関のところに、自販機あったから。お兄ちゃん、何が飲みたい?」
「……ここ、紙パックのジュースしかないんだよな。乳製品ばっかりで……えーと、コーヒーっぽいヤツ」
「コーヒーを愛してるのね」
「なんか、落ち着くから……そのコーヒーで、魔法の薬を飲むんだ」
「わかった。買ってくるから、待っててね」
瑞穂ちゃんがコーヒーを買いに旅立つ。一人ぼっちになり、寂しいような……落ち着けるような……。
とにかく、疲れた。
ため息を吐きながら……オレは長椅子に体を横倒しにする。他に患者さんもいないから、問題はないさ。瑞穂ちゃんが戻ってきたら、起き上がろう……倦怠感が、すごい。
働いたから、もうエネルギーが切れたのかもしれない。クーラーの風を浴びた椅子が、冷たくて気持ち良かった……雨音が聞こえる。
曇天はついに泣き出したらしい。雨音は好きだ。雨音ばかりを流す動画を聞きながら、眠ることもある。朝にはスマホのバッテリーも切れてしまっているけれど…………。
……まずいな、ちょっとだけ眠るかも。瑞穂ちゃん、思ったより、帰ってこないな。彼女もトイレに行ったのかも。
女の子って、繊細だもん。
緊急事態の妊婦さんの手を取ったりして、彼女も大きなストレスだったはずだしな…………。
…………雨音が、強くなる。
…………眠気が強くなる。
そして、夢見心地のなかで、叔母から聞いた狂気の言葉を思い出す。
いいかい、雨の日はダメだ。
雨の日に、子供を産んではいけない。
いけないんだ。こんがり童子はね、体が燃えているだろう?
だから、雨の日にはこちら側にやって来て、体を雨で冷ましてるんだ。
だからね、そんな日に子供を産もうとしていると、母親に寄ってくる。子供を殺して、自分達がその子に成り代わろうとするんだよ。
だからね、雨の日にだけは、子供を産んじゃいけないんだよ…………いけなかったんだ。だけど、あんたは………………。