第一話 海へと向かう。 その七
まさか、戻る予定のない地元に戻ってきたと思っていたら、救急車の真似事をすることになるなんて。
……ストレスで胃液が躍動している。消化に良いうどんを食べていて良かった。
「……すぐに吉崎先生のところに着くからね、気をしっかり持ちなさいね!!」
「は、はい……」
「ああ、もう志郎お兄ちゃん!飛ばせないの!?」
「揺らさない方が良いかもしれないだろ……?」
「そ、そっか……そうだよね?」
皆が混乱して慌てている。何だか現実感がない。
ストレスでフワフワとした感覚に襲われている。
指示があるから助かったな。吉崎先生の病院に行けばいい。
知っているよ。地元だから。内科もやってるし、小児科もやってる。なんだって診てくれるんだ。昔ながらの田舎の医者で、行けばどうにかしてくれる、年寄り先生がいる。
「ううう!!」
妊婦の苦しむ声を聞き、ルームミラーで彼女の苦悶の表情を見る。
ああ、くそ。ゲロを吐きそうになるが……耐えなきゃな。赤ちゃんと、そのお母さんの命がかかっている……。
信号も少ない町だし、他の車とすれ違うこともなかった。奇妙なぐらいさびれているけど……問題はない。
好都合だ。ちょっとだけ飛ばせる。
「そこを右に曲がるのよ?」
スマホで吉崎先生に連絡している海の家のおばちゃんが、オレに確認してくる。
「大丈夫ですよ!」
つい返事が荒くなってしまった。この場の緊張感に体が震える。唇が、冷たくなっているように感じた。
死人みたいに真っ青な顔になっているかもしれない……。
右折し、アクセルを踏み込んだ。イライラしているのかも。この状況から逃げ出したいだけか?……妊婦も、胎児も、オレには重すぎる。
神さまは、意地悪だ。よりにもよって、こんな時に、こんな場所で、こんな精神病野郎に試練を与えるなんて。
もっと頼りになるヒトが、この状況に遭遇すべきだったんだ。
すみません。
オレみたいなヤツが、人様の命を預かるなんて、本当に、酷い話だよ……。
「あそこだね!吉崎産科・小児内科って看板がある!」
白い看板に青い文字。古い看板だ。オレの記憶の通りの看板。
白衣を来た、じいさん医者が駐車場にいて、こちらに向けて手招きしている。
……記憶の中よりも老けて、頭も禿げてしまっているけど、吉崎先生だった。
オレは先生の前に車を横付けした。瑞穂ちゃんがドアを開けて叫ぶ。
「先生、助けて!」
「はいはい、こっちにおいで」
吉崎先生は慣れている。妊婦さんを見ても顔色を変えない。
「……あー。これは産まれるね。両肩から支えてもらって歩こう。それが一番早いし、楽だよ」
「わ、わかりました……っ」
オレも車を降りて、瑞穂ちゃんと協力して妊婦さんの両肩を支えながら歩く。
吉崎先生の後を追いかけるようにして、一歩一歩、進んでいくんだ。
先生とおばちゃんがドアを開けてくれる。
「そのまま土足で上がって。とにかく、こっちに運んでくれたらいい」
「わかりました」
「君が旦那?」
「違います。オレは通りかかって……」
「ん?ああ、君、結城さんのところの志郎くんか」
「はい……」
「そうかい。帰省してたか……まあ、いいさ。とにかく、この椅子に彼女を座らせてくれたら良いよ」
それは、分娩台というものなのだろうか。分からないが、もう吉崎先生の言うことに従うしかない。
命を預かる責任感は、オレには重荷すぎるんだ……。
先生の指示に従い、妊婦さんをその椅子に座らせる。
「あとは、私らに任せて、君らは外に出てなさい」
先生はそう言ってくれた。看護師が二人いるし……オレはお役ごめんだ。解放感がすごい、安心した。
安心したけど、吐き気が胸をつく。処置室から出たオレは急いで、トイレに駆け込んだ。場所は知っているさ、小さい頃から、お世話になってるんだ。
風邪とか、インフルエンザとか、学校に行きたくない日の仮病とかで、お世話になってる。
オレは知らないけど、ここで産まれたらしいしね。
ああ、見知らぬ妊婦を連れて、生まれた地に戻り、精神病を患っているオレは、ゲロを便器にぶちまけていた……。




