序章 その1
うつ病……そう診断された時、情けなく思ってしまった。十人に一人はなる、ごくありふれた精神病ですから。そう励まされたが、心は晴れなかった。
うつ病なのだから、そんなものなのかもしれない。どんな励ましの言葉でも、ネガティブに捉えてしまうのだろう。
何もする気が起きず、一日中、死ぬことばかりを考えてしまう。リストカットしている連中に対して、今までは、どこか遠くの国の見知らぬ宗教の信者ぐらい分からなかったけれど……。
手首を切るぐらいで死ねるなら、楽だし、早い。だからやるんだろう。うつ病だから、やる気が出ないんだ。
自分を殺す気力も弱いから、楽な自殺の手段を選ぶのさ。
首吊り用のロープを枝にくくるとか、そもそもロープを買いに出掛ける元気も出ないよ。
謎の腹痛と不眠から始まり、病院巡りのあげく、オレは精神病だと診断された。ガンでもなくて良かったけど、心を病んだと言われると、それはそれでへこむ。
……精神病、精神病、精神病……。
その単語で思い返すのは、田舎の叔母のことだった。
叔母は強烈なそれだった。わめき散らしながら、よく叫んでいた。「あの子が来る、童子さまが来るんだ!!みんな、逃げるんだ!逃げなきゃ殺されちゃうよう!!」
錯乱した叔母は、そんなことをよく叫んだもので、小学生だったオレは、本当に叔母のことが嫌いだった。
オレが12才の頃、叔母は地元で有名な精神病院に入院させられた。自分の家に火をつけたから、とてもじゃないが面倒見切れなくなったのだ。
いつもはやさしい親父が実の妹である叔母のことを口汚く罵るのを見ることも、小学生時代に終わった。
叔母のことは家族のなかでも自然とタブーになっていき、誰も触れなくなった。父も母も見舞いになど行かなかったのだと思う。
叔母の狂気に触れることは、とても心を消耗されるからだ。親父も行きたくはないだろう……。
……精神病に対する偏見かもしれないが、子供時代に体験した叔母の狂気のせいで……オレは人一倍、その病気たちに嫌悪感があり、うつ病を患った今、ますます落ち込んでしまう。
親族にそんなヒトがいると医者には言えなかった。知られれば、叔母と同じ病院に閉じ込められるような気がした。
死にたいという願望さえあるのに……叔母のようになるのはイヤだと考えている。それは、うつ病野郎にしては前向きなことなのだろうか?
見栄があるんだよ。よく見られようとすることは、前向きなのか?……それとも、自分を卑下してしまいがちなうつ病野郎の特徴なのか。
……わからない。
とにかく、明日から薬を飲もう。気持ちが楽になる素敵な薬物を。朝に毎日飲むヤツと、不安が強くなれば飲みなさいと言われた薬がある。
最新式の良いお薬らしい。この病院はうつ病の実績があるから安心ですよと、カウンセラーが語っていたけど、本当かな?
……わからない。考えるのが億劫になる。うつ病だからしかたないから気にしないでいいらしい。
……そうさ。全部うつ病だからしょうがないし、全ては幻覚だ。
イヤだけど認めれば楽になるのかな。
…………そうさ、オレは精神病にかかった。しかも、全人類の10%ぐらいがかかる、インフルエンザみたいにありふれた、よくある特殊じゃないヤツだよ。
叔母とは違う。
叔母が見ていたものとは違う。
……すべて、うつ病由来の幻覚だ。鏡の中に黒い子が見えるのも、うつ病のせいだ。
あんなものは、インフルエンザと同じぐらいありふれている、うつ病野郎ならよく見るヤツだ。風邪引いたときの、くしゃみとか鼻水みたいなもんだよ。
早く。
早く、戻ろう。
そうだ、戻ろう……家に……。
「……結城さんって、本当にうつ病なんですかね?」
いつものナポリタンを注文し、それを食べていると……オレがマスターに語った愚痴を隣で聞いていたウェイトレスが口を開いた。
「なんだい、瑞穂ちゃん。お医者さんを5つも回って、4つも紹介状書いてもらったあげくに辿り着いた、オレの名医に文句があるのかい?」
合理化した現代社会では、個人経営の喫茶店なんか絶滅寸前だが……田舎者のオレはこういう店が好きだ。小汚なくくすんだサイフォンとかワクワクするからね。
だから、この喫茶店には入り浸っている。朝飯はこの『珈琲あかね』で食べるし、休みの日もよく利用している。
会社をお休み中の病んだオレも、ここでなら食事が喉を通る。何故か?……わからない。喫茶店が好きだからかもしれない。
「いいかい、瑞穂ちゃん、ここでの食事は例外的なんだよ。家だと食う気が失せる」
「どうして?」
「名医に聞いて欲しいところだよ」
「看板娘が可愛いから?」
自称看板娘がニコリとはにかむ。瑞穂ちゃんは高校では陸上部らしいから、肌はほんのり小麦色だし、細すぎるかも。
健康的過ぎてセクシーさよりも可愛らしさが目立つか。でも、社会人で営業職だからかな、口はお世辞を勝手に発信する。
「そうかもね」
「やったー、口説かれたー」
「夏休みの素敵な思い出の一つにしてくれ。マスター、ビール」
「昼間から?」
「病院では禁止されてない。酒飲んだら心が晴れるかも」
「うつ病はアルコール依存症も合併するんだよ?」
「すぐに酔っぱらって眠るよ」
自慢じゃないけど、オレは酒が苦手で、すぐに眠ってしまう。
「まさか、ここで寝ちゃう気なの?」
バイト少女は驚いてる。
「そうだよ?ここ、昼過ぎたらほとんど客来ないじゃないか。だから、瑞穂ちゃんも受験勉強できる」
「あれは試験勉強とか、追試。私、受験はしないの」
「オレみたいに高卒で働くの?」
「県大会で、10000メートルを最も早く走れる女子だもん。大学推薦は決定的よ!」
全国大会に出られるレベルの健康優良陸上部員からすると、受験戦争なんてものは不必要か……。
「瑞穂は大学でも陸上続けるんだ?」
「そのつもり。就職とかは、まだまだ分かんないな」
「今は人手不足だから、高望みしなけりゃ、そこそこの会社に入れるよ」
「高卒なのに大手企業に入ってる結城さんが言うんだから、心強いわね」
「大学出てないからってバカにするなよ?」
「してませーん。でも、どーして?」
「田舎の工業高校には強力なコネがあるんだよ。そこでマジメにやってれば、割りといい企業に入れたりするのさ」
「なんか田舎ずるくない!?」
「仕事帰りに映画館によれる都会の方がズルく思うよ」
「ははは!結城ちゃんは映画館好きだもんねえ。はい、ビール」
ジョッキ入りじゃなくて、たんなる缶ビールだ。メニューにはない品だから、こんなものさ。
「うちでビール飲んでるの結城さんだけ」
「いいじゃないか。マスターとは出身県が同じだから、何だか気が合うんだよね」
「まあね」
ビールを昼間から飲むよ、味については、あまり好きじゃないけど、よく寝られるから、そういう道具としては好き。
「なんか、うつ病っぽくないと思う」
「幻覚見てるんだぜ?うつ病だよ、うつ病。仕事行く気にもならないし。この喫茶店はマスターとか瑞穂ちゃんいるからか、スゲー気が楽になるだけ」
「裏が神社だからじゃない?」
瑞穂ちゃんの発言にビールがより苦く感じた。
瑞穂ちゃんはオレがうつ病患者だと信じていない。それどころか学生らしく愉快な珍説を推してくる。
「取りつかれてるんじゃないの、結城さん」
「仕事や疲労感にね」
「そうじゃなくて、幽霊、ゴースト、悪魔とか?……見えるんでしょ?」
「見えるよ、幻覚がね。うつ病由来の、極めて科学的な幻覚がね」
「科学的な幻覚って、黒く焦げた子供のこと?」
「そうさ。そうじゃないと……何だって言うんだい?」
「わかんないけど。お払いとか行けば良いんじゃないかな」
瑞穂ちゃんはどこか真剣だ。人類が何世紀にも渡って蓄積してきた医学よりも、自分のファンタジーな世界観を重視できるのは子供の特権かもしれない。
「神社の近くの喫茶店に行くと、治るタイプのうつ病なだけなんだよ」
「そっちのがピンと来ないわ」
「……いいさ。薬飲んで、マスターの地元の海にでも遊びに行けば、心のエネルギーが回復して、神社コーヒー飲まなくても、うつ病ぐらいコントロールが利くよ」
「神社コーヒーってのは、ボクのコーヒーのことかい?」
「除霊パワーつまっているんなら、全国から悪霊にお困りの顧客が群れ成して来るようになるかもよ」
「楽しそう!SNSにアップしようよ!」
「ホントに困るから、するんじゃないよ、瑞穂?」
「はーい」
高校生は物好きだ。オレの見ているのはうつ病由来の幻覚だよ。
窓の外から覗き込んでいるのは、悪霊じゃなくて、オレの心の産物だ……黒く焦げた、アレは……記憶にある地元の伝承を、疲れたオレの心が検索して、幻覚にしているだけのこと。
アレは……こんがり童子なんかじゃないんだ。
だから。
幻覚が見えているから、心を楽にする薬を飲むのさ。ビールと併用すれば、すぐに眠れる。
錠剤を噛む。唾液に融けた錠剤が、わずかにビールの苦味を消し去っていく……酒と安定剤が、オレの体内で手を組んで、健やかな睡眠へと誘ってくれた…………。