第8話 つばさの検証
「迅兄さんが、小型金庫を盗んだ犯人だなんて、そんな事あるわけないでしょっ!」
大講堂の隣の建物 ― その2階にある、つばさの研究室で、くるみは悲鳴に近い声をあげた。それでなくても、“つばさの転落事件”の後で、くるみの気は物凄くたっていたのだ。
「だって、兄さんが、僕を助けてくれた時に色々と分かっちまったんだ。あれは絶対、あの人の仕業だ」
「理由がないでしょ! 何で迅兄さんが、昭さんの小型金庫を盗まなきゃなんないのよ」
「それは僕もわからないけど……」
「ほらっ、説明できないっ。だいたい、つばさは迅兄さんを悪く言いすぎるわよ。いくら、あの人が素敵”だからって、嫉妬する事なんかないのに」
嫉妬って……僕があいつにかよ。
すごく不本意。でも、9割方はその通りだったのだが。けれども、ここで後に引くわけにはゆかないと、天才少年は大きく深呼吸をして、
「なら、きちんと説明をしてあげる。迅兄さんが、どうやって、“密室盗難事件”の犯人になりえたか、ドアも窓もどこも壊されていない研究室から、どうやって小型金庫を盗んだか……そのトリックを、今、ここで!」
困惑と好奇心でいっぱいになった、くるみの瞳が、自分に向けられている。どきどきするのと得意な気分で、つばさは座っていた椅子から立ち上がり、研究室の窓の方に歩いていった。
「本当は、実際に小型金庫が盗まれた、3階の昭さんの研究室でやるのがいいんだけど、この部屋はあそことまったく同じ作りだから、とりあえず、ここで僕は盗難事件の検証をします」
へたに3階に行って、僕にメールを打ってきた昭さんと鉢合わせでもしたら、ちょっと困るからなと、つばさは開いていた研究室の窓をがらがらと閉めた。研究室の窓は普通サイズよりは大きい2枚の引き戸になっている。
つばさは、内側の窓の側面、中央あたりについている、金属の鍵を指差した。これは一般のどの窓にもよくみられる鍵で、取っ手のある三日月型をしており、それを回す事でもう外側の窓に付いているフックに金具を引っ掛ける仕組みになっている。
「最初に僕がおかしいと思ったのは、ここなんだ」
「鍵がどうにかなってたの?」
もっと、その位置をよく見ようと、くるみも窓のそばに近づいてゆく。
「僕が言ってるのは、鍵がついている内側の窓ではなくて、鍵の本体を引っ掛けるフックのある、外側の窓ガラスだよ。フックの少し上の部分に……小さな穴を見つけたんだ」
「穴?」
「そう、小さな、直径にして1ミリにも満たないくらいの」
「……でも、そんな小さな穴から、一体、何ができたっていうの?」
くるみに、にやりと小さく微笑むと、つばさは机の上にあった指揮棒を手にとった。
「例えば、この指揮棒を細くて頑丈なアルミ製の針金だと仮定してみて。そして、閉められた窓には鍵がかけられていたと。窓のフックの上には、小さな穴があいている。外側からその穴に針金を通すと、針金の先はどこに当たると思う?」
ほら、ちょうど、その位置だよ。
つばさは目でそう語ると、指揮棒の先を鍵の取っ手に押し当てた。すると、くるみがあっと声をあげた。
「そうか! 穴に通した針金の先が、閉じられた状態の鍵の取っ手に当たっているなら、外からそれを押し続ければ、鍵はくるりと回る」
「そう、鍵にロックがかかっていた場合は少しやっかいだが、ロックをかける人って案外少ないもんだよね。それならば、その方法で外からでも窓は壊す事なく簡単に開けれるんだ」
どうだい? とばかりに、つばさは満面の笑みを浮かべて、くるみを見た。けれども、
「でも、それだけじゃ、“密室盗難事件”とはいえないわ! つばさのやり方は、ただ、窓を壊さずに外側から鍵を開けるだけの方法じゃないの。小型金庫を盗まれた後の昭さんの研究室の窓は、ちゃんと閉められていて、鍵もかけられていたのよ」
そう言った、くるみに天才児の弟は、ちっちと指を振った。
「盗難犯の“お帰り”を、僕が忘れるとでも思っているの。窓を閉じ、鍵をフックからはずした状態で、今度は十分に長さがある糸を鍵の取っ手に絡めて、窓ガラスの穴から外へ出しておく。金庫を盗んだ犯人は、その後、糸が抜けないように気を配りながら、そっと窓を開け、外に出ていったんだ」
「ああ、そうか、窓を開けた時に抜けないように、糸には長さがないといけなかったのね。でも……」
つばさの説明に相打ちを打ちながらも、くるみは腑に落ちない顔をしている。
「つばさは、簡単に犯人は外へ出て行ったって言うけど、窓の外でしょ? 一体、どうやって……」
「その説明は後まわしにするとして、まずは、鍵のトリックを仕上げてしまおうよ。外に出た犯人は窓を閉め、穴から外にでている糸をゆっくりと引っ張った。すると……」
つばさは手で何かを引くような仕草をして、くるみに言った。
「鍵の取っ手が引かれると同時に、その本体も回転して、がちゃんと外側からでも、研究室の窓に鍵をかけれるわけだよ。もちろん、糸は、強く引き続ければ、自然に取っ手からはずれて、そのまま回収ができるでしょ」
なるほどぉと、ちょっと感心してしまったが、それでもと、くるみは反論の声をあげた。
「それが、何で、迅兄さんが犯人だって証拠になるのよっ。私には全然、わからないわ」
「ええっ、本当に? これだけ言っても、まだ、くるみには、わからないの」
その大げさな言いっぷりが、わざとどうかは判断ができない。けれども、つばさは激しく理不尽な顔つきで、
「僕を助けた時に、事も無げに研究室の壁を登ってきた、あのサル……いや、迅兄さんの技を見てただろ? あんな短時間に道具も使わずに壁を登りきって、窓ガラスに穴を空け、さらに小型金庫を持ったまま下に降りてゆけるのは、山の中で鍛えてる、あの人以外には考えられないじゃないか。彼は、垂直な場所では最強だよ。それにね、僕があの人が犯人だって思った決定的な証拠が他にもあるんだ」
「証拠?」
「うん。僕が窓の外に落ちた時、あの人の肩に足をかけて、窓から研究室にもどろうとしたんだけど、窓枠が太くて適当に掴める場所を探せなかった。その時に、迅兄さんは何て言ったと思う? “窓の下に凹みがあるから、そこに手を入れろ”って、何で僕の下にいた迅兄さんにそれがわかるんだい? あれは、一度、ここの壁を登って、窓から研究室の中に入った事のある人間しかわからない事だよ。それが、僕が迅兄さんが小型金庫を盗った犯人だと断定した理由なんだ」
あまりにもよどみない、つばさの弁舌に、くるみは反論ができなくなってしまった。それでも、
「……万が一、万が一の話で、迅兄さんが小型金庫を盗んだ犯人だったとしても……私には、やっぱり、兄さんが金庫を盗る理由がわからないわ」
しゅんと、首をうなだれてしまった、くるみが何だか痛々しい。姉のがっかりした顔を見たかったわけじゃないのにと、つばさは、盗難事件の犯人を指摘した事に物凄い後味の悪さを感じてしまった。
「きっと、どうしようもなく、そうしないといけない理由が何かあったんだよ。それも、事件が大げさにならないように、なくべく、色々な物を傷つけなくていい、今回みたいな方法でね。迅兄さんは、ちょっと変人だし、融通もきかないし、高い所にばかり登りたがるし、山から帰って来た時は臭いし……まあ、色々と困った人だけど、友達の物を平気で盗むなんて、そんな事のできる人ではないんだから」
相変わらずの毒舌だが、珍しく迅の事をかばうように言った弟の言葉に、くるみは、にこりと明るい笑顔を見せた。その笑顔にいつも、つばさは翻弄されてしまうのだ。
だから、どきまぎした心を隠そうと、大急ぎで話題を変えた。
「そ、そういえば、コンサートの打ち上げは明日のお昼らしいよ。場所はいつもの良介さんの回転寿司屋。今回はかなり昭さんが出資してくれるらしいから、メニューは期待していいんじゃないの」
「明日の昼? 今日の夜じゃなくて?」
「何でも明日の朝に、ピーター・リバール……彼はウィーンから来た偉い音楽家なんだけど……に昭さんが演奏を聞いてもらうんだって。コンサートの時はリバールの都合が悪くて聞いてもらえなかったらしいから。昭さんの性格だから、今夜はバッチリ練習がしたいんじゃないの」
くるみの質問に、つばさはそう答えた。それから、
僕なら、練習なんかしないけどねと、こそばゆいような笑顔を浮かべた。
* * *
T大の正門を出て、欅並木の通りをまっすぐに進むと、大学の最寄駅にたどり着く。この場所は典型的な学園都市のようだったが、線路を挟んだ南と北では大きく風景を異にしている。南側は、比較的裕福な家庭の学生たちが好むような閑静なマンション。北側は、昔ながらの学生アパートがあり、その周りの商店街にも安価で気安く入れるような飲食店や雑貨店が並んでいた。
その中の一つの店が、桐沢 迅と、山根 昭の高校時代の同級生、岬良介の実家が運営する回転寿司屋だった。ここは、もともとは普通の寿司屋だった。ところが、経営の不振から良介の父は、自営を諦め大手チェーン店の傘下に入る形で、自宅店舗を回転寿司屋に改造したのだ。
「あ~あ、学生はいいよな、みんな楽しそうでさあ」
恨めしげに店の前を過ぎてゆく学生たちの姿を見据え、岬良介は、カウンターの内側で、小さくため息をついた。
その気になって頑張れば、偏差値が断一に高い医学部や専門的な才能を求められる芸術学部は無理にしても、自分だってT大の商学部くらいには、入れる学力はあったのだ。
それを家の事情が駄目にした。良介はなりたくもない寿司職人に身を沈めている自分を疎んじていた。……が、
「ま、でも今日はいいか。由貴さんが、会いに来てくれたんだもんな」
細く剃り込んだ眉を軽く動かして、良介はカウンターの向こうに座っている坂下由貴に笑顔を向けた。彼女は彼に返事をするでもなく、黙ってカウンター席に座っている。
時刻は、午後4時。夕食にはまだ早く、もともと流行っているとはいえない回転寿司屋には客は誰もいなかった。