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第7話 迅と昭

 由貴は、我を忘れて商品を盗り続けてゆくうちに、自分がしている事がいい事か悪い事かもわからなくなってしまっていた。


“誰か止めて……私を止めて”


 カシャリと、シャッター音が鳴ったのは、その時だった。


「あ~あ、またなの? でも、今回は黙って見過ごす事なんてできないわよ」

 ぎょっと、振り向いた由貴にあざけるような笑みを浮かべながら、携帯電話スマホを手にした藤野香織が購買部の入り口に立っていた。

「香織さ…ん?」

 ぼうっと、商品の文房具を手に持ったまま、由貴はその場に立ち尽くしていた。また、万引きの現場を携帯で撮られてしまった。何度、私は同じ事を繰り返してしまうのだろうと。

 そんな彼女をきつい目で睨みつけると、香織は、万引きされた品物の入ったショルダーバックをひったくるように奪い上げた。

 その時、


「凄かったな。壁を忍者みたいに登ってさ」

「何にしても、あの子が下に落ちなくて良かったよ」


 どうやら、つばさの事故の顛末てんまつを見届けに仕事を放り出して校庭へ出ていた購買部のアルバイトたちが、戻ってきたらしい。香織は万引犯の女子大生の腕を強く引くと、ショルダーバッグを手に、購買部のレジの方へ向かっていった。

「お願い。購買部の人たちには言わないで! 何でもいう事を聞く、だから……」

 由貴は懇願する。けれども、

「言わないわけにはゆかないでしょ。一つ、二つ盗ったのとはわけが違うわ。あの空っぽになった商品棚を見て、おかしく思わない人はいないわよ」

 香織は聞く耳をもたず、ショルダーバッグの中の盗られた商品をレジの机の上にぶちまける。すると、アルバイトの学生たちが、大急ぎでレジに戻ってきた。

「これ、全部、頂戴ちょうだい

「香織さん……?」

 由貴にちらりと視線を向けると、香織は自分の財布を取り出し、

「領収書の名前は、音楽学科にしといて」

 つんとすました顔で、あたふたとレジで大量の商品のバーコードをなぞるアルバイトに向かって言った。


 * * *

「で、どういうつもりで、こんな事をしたのかしら」

ティーポットからあがる湯気を眺めながら、香織はさりげなく質問する。

 購買部で由貴が盗んだ商品の代金を払った後で、香織は躊躇ちゅうちょする彼女を自分の研究室に連れてきたのだ。

「……」

「言いたくないなら、それでもいいけど、あまり派手な事はしない方がいいわよ」

 香織は俯いたまま座っている由貴をちらりと見てから、紅茶のカップを差し出した。すると、

「……私、駄目だって分かっていても、万引きがやめれない……そういう精神的な病気で……」

「そう……精神科医志望の迅さんといつも一緒だったんで、なんとなく気づいてはいたけどね」

 目の前の華やかな容姿の女子大生を力のない目でみつめる。それから、由貴は、かなり戸惑いながら言った。

「商品の代金は、私が払います。香織さんや音楽学科にはいわれのない物だから」

 ところが、香織は心配いらないわと笑顔で、

「学部で時々、一括して備品を購入する時があるから、領収書をそれに混ぜ合わせておけばいいだけの話よ。そんな事より、私ね、由貴さんにお願いがあるの」

「お願い? 香織さんが私に?」

「だって、あなた、さっき購買部で私に言ったじゃない。何でも言う事を聞くって。でも、心配しないで。そんなに難しいお願いじゃないから」

 腑に落ちない表情で、由貴は再び、香織の方へ視線を向けた。


* * *

 先ほどまでの大学での騒ぎも、すっかり収まり、コンサートの見物客が去った後の校内は再び静けさをとりもどしていた。大学の研究室から大講堂に向けて続く銀杏並木。木枯らしに吹かれながら揺れる木々は、ほとんどが落葉し、寒々と晩秋の景色に溶け込んでいた。唯一、並木の下に植えられた赤い山茶花の花だけが、殺風景な路辺に彩りを添えている。


 また、山へ戻るか。


 人気もまばらになった銀杏並木の下を桐沢きりさわ はやては、所在なさげに歩いていた。精神科医になりたい気持ちは今も捨ててはいないが、やはり、大学は居心地の悪い場所でしかなった。

 けれども、小型金庫の盗難、坂下由貴の万引依存の再発、そして、義弟、闇雲つばさの研究室からの転落。自分とは関わりのない事だとは口が裂けても言えない、それらの事柄を放置したまま、今回ばかりはすぐに帰っていいものか。


 ふぅっとため息をもらす。すると、その時、通りかかった大講堂からバイオリンの音が響いてきたのだ。


 ……コンサートは終わったのに、まだ、誰か中にいるのか?


 バイオリンの音色に引きつけられるように、大講堂の扉に手をかけ、中の様子を覗いてみる。


 バイオリンソナタ


 聞いたばかりのよどみのない旋律に耳を傾け、


 あいつらしいな……もう練習とは。


 その弾き手 ― 山根 昭 ― の姿を目にして、迅は呆れたように笑みを浮かべた。


 観客は誰もいなくなった大講堂の中へ入り、迅は、演奏の邪魔にならぬように一番後ろの席にそっと座った。そして、目を閉じ、響いてくるバイオリンの音色に耳を傾けた。

 そういえば、高校時代、授業はおろかクラブ活動にもろくに参加しないで、ずっと俺が根城にしていた校舎の屋上に、いつもこの音が聞こえてきたっけ。


 それは、高校一年も半分が過ぎようとしていた、ある日の事。特に目標もなく、何かに興味を持つわけでもなかった迅は、屋上に響いてきた高校生が弾くにしては、上手すぎるバイオリンの調べに、思わず音楽室のある下の階に降りていってしまったのだ。

 誰もいない音楽室の中で、一人、バイオリンの弓を動かしている同級生。

「おい、止めろ。安眠妨害だ」

「……」

 それが、桐沢 迅と山根 昭が交わした最初の言葉だった。


 真面目な昭は才能があるにもかかわらず、それ以上に努力もしていた。その頃、すでに天才児ともてはやされ、音楽コンテスト等でも主だった賞を総なめにしていた義弟、闇雲つばさの影に隠れながらも、彼は地道に世間での評価を高めつつあった。

 迅は、そんな昭が妙に気に入ってしまった。そして、昭の方もあの“天才児ギフテッド”闇雲つばさの義兄とは思えぬ、風来坊ふうらいぼうな性格の迅に何となく魅かれてしまったのだ。


 あの頃は、まだ、世間に溶け込みたいと思っていたな。

 

 そんな思いが迅の脳裏をよぎった時、突然、バイオリンの音が鳴り止んだ。

「そんな所にいないで、もっと前の席に来てみたら?」

 はっと、目を開いた迅に向かって、舞台にいたバイオリニストが笑顔で語りかけた。


*  *


「何だか、こうやって迅とお茶するのも久々な話だね。ここって、炭焼珈琲が美味いんだっけ」

 大学の裏門を出た、すぐ近くの古びた喫茶店で、山根 昭は懐かしげにメニューに目をとおす。

「そういえば、昭とは一年以上も来てなかったな」

「一緒に来たくても来れないさ。だって、迅はめったに大学にいないんだから」

「えっと……オーダー取ってもらわなきゃな」

 ばつが悪そうに彼から視線をはずし、ウェイトレスを探すふりをする桐沢迅に昭は思わず笑みをもらしてしまった。

 取るに足らない世間話をした後で、

「それにしても、迅、いつまで大学を休むつもりなんだ。いい加減にしないと卒業だってできないぞ」

 昭は、少しいさめるように言った。だが、その後で、無言で含み笑いをする元同級生に、何だよと解せない顔をする。

「いや……義妹とまるで、同じような事を言うんだなと思って」

「くるみちゃんか? お前の事を本気で心配してるんだろ。可愛くていい子じゃないか」

 まあなと、空で返事をする迅に昭はいらだったのか、打って変わって少し怒ったような声音を出した。

「精神科医になりたいんじゃなかったのか。何浪しても入れない人間だって、いっぱいいるんだぞ。そんなT大医学部にすんなり合格しておいて、ろくに大学にも通わないなんて、それが許される事だと思ってるのか」

「……在籍期間が切れるほどには、休むつもりはないよ。それに、今は他にやりたい事ができてしまったんだ」

 普段からは、考えられないほど高く声を荒げている自分を不思議に思いながらも、昭は言葉を続けた。

「“やりたい事”って山に篭る事か。どう贔屓目ひいきめに見たって、それは現実逃避以外の何物でもないだろ! 迅の家の中が色々と複雑なのは分かっているが、高校時代からお前はずっと逃げてばかりな感じがするぞ。もう、いい加減に自分の将来をしっかり見据えた行動をしろよ。いくら父親がT大の理事長だって、何時までもそれに甘んじてるわけにもいかないだろう」

 ところが、

「……エベレスト、冬季南西壁登頂」

「え?」

 突然、迅の口から飛び出した予想もしていなかった言葉に、虚をつかれたように、目をしばたたかかせる。

「日本でも成功者はまだ、6人しかいない。単独無酸素ではゼロだ。けれども、上手いぐあいに登山隊のパーティに入れてもらえそうなんだ。それを終えたら俺は、ここに戻ってくるつもりだ」

 それが、物の節目なんだよと、迅は言った。そして、何の事だかわからない風の友人に少し説明を加えた。

「何で、そんな事を考えてしまったのかな。それでも、山を知るうちに、俺は地上8000mのエベレストの最高峰、それも超困難だといわれる南西壁のアイスフォールを超えて、その頂上から下界を見下ろしてみたくて、たまらなくなってしまったんだ。どんなに高い学力や才能があっても、そんな高みから見下ろされてしまったなら、俺も昭……お前だって実にちっぽけな生き物にすぎないんだ。俺は、それを実際に自分の目で確かめてみたい」

「でも、今までの成功者が6人って事は、それって相当、危険なんじゃないのか」

「6人の成功者のうち、2人は下山時に高山病が原因で亡くなってる」

「そんな、それって……」

 昭は、目の前に座っている元同級生の顔を真正面に見据えて、ごくりと唾を飲みこんだ。前からこいつには“世捨て人”的な所があった、もしかしたら、桐沢 迅は……

「それは、自殺行為みたいなもんだ。迅……お前、死にに行きたいのか」

 わずかに沈黙があった。けれども、迅は、昭の言葉を一蹴するように声をあげて笑った。

「まさか。自殺するなら、もっと手っ取り早い方法で俺はやるよ」

 何ともいえない奇妙な空気に耐え切れず、昭はテーブルに置かれた冷めた珈琲を一気に飲み干した。苦くて酸っぱい味がする。それにしても、エベレスト南西壁? アイスフォール? いくらなんでも、そんな話は唐突すぎる。

「両親とか……くるみちゃんやつばさ君には、どう説明するんだよ。僕は……少なくとも、僕は、迅にそんな場所には行って欲しくない。それに、由貴……坂下さんには、まだ、その事を言ってないんだろ」

「坂下? 何で俺が彼女に言わなきゃならないんだ」

「だって、あの子が一番、お前を頼りにしてるじゃないか」

 その時、ふと昭の声音が震えたような気がして、迅は、今まで躊躇ちゅうちょしていた質問を口に出してしまった。

「昭は、坂下 由貴の悪癖の事を……もう、知ってるんだろ」

「……」

「俺はずっと、聞いてみたいと思っていたんだ。お前は、一体、どういうつもりで、彼女の万引きの現場を撮った携帯電話を金庫になんかしまったんだ」

「迅、お前、携帯電話の件を知っていたのか」

 その事は、自分と藤野香織、そして、坂下由貴しか知らないはずだ。昭は大きく眉をしかめた。

「偶然にお前と藤野の話を研究室の廊下で聞いてしまった良介から、俺はその話を聞いた」

「そうか、良介から……。ただ、僕は彼女を助けたかっただけだよ。ほら、迅だって、あの子のために色々と世話をやいてたじゃないか。お前にやれて、僕にやれないはずがないって、そう思うのはいけない事なのかい」

「けれども、坂下 由貴のケースは特殊だ。俺はできれば、昭には口を出して欲しくない」

 珍しく声を荒らげた迅の態度に戸惑いながらも、この時の昭は、彼をここまで感情的にさせた事に、ほのかな満足感を抱いてしまった。


 迅の怒る顔なんて、初めて見た。おもしろい。今なら、こいつの気持ちをもっと、表に引っ張り出す事ができるかも。

 

 昭は、少し意地の悪い嘘を言ってしまったのだ。

「でもね、あの子は、僕が万引きの現場を撮った携帯電話を返すかわりに、出した条件に、まんざらでもない顔をしてたんだよ」

「……条件?」

「桐沢 迅と別れて、僕の彼女にならないかって事」

 その瞬間、大音響と共に、昭は自分のいる位置が大きく回転したような気がした。そして、次には、喫茶店の床の上に這いつくばりながら、珈琲カップから零れ落ちた雫が自分の周りに広がってゆく様を、呆然と眺め続けていたのだ。


「おいっ、お前たち、こんな場所で喧嘩けんかはやめろっ!」


 腕力では、黒く日焼けした迅と繊細な顔立ちの昭とでは、どう見ても昭の方が分が悪い。たまたま、喫茶店に居合わせていた客の一人が、迅に思い切り突き飛ばされ、床に転げている昭をかばうように二人の間に入ってきた。だが、


「おかしな推測で、人の心を乱すような事を言うのは止めろ!」


 こみあがってきた怒りを抑える事ができず、その客を押しのけて、桐沢 迅は、さらに声を荒げて言った。

「興味本位で坂下由貴には関わるな! 間違った同情心、邪推や嫉妬、虚栄心。それが何もかもを駄目にしてしまう事に、何故、昭……お前は、気づこうとしないんだ!」

「迅……?」

 昭は、この時、ふと、迅の言葉の意味が坂下 由貴に向けられたものではない気がして、合点がゆかぬ顔をした。そんな昭の視線に気づいてか、迅はぷいとそっぽを向いてしまった。そして、財布を取り出し、適当に掴み出した紙幣の何枚かを喫茶店のテーブルに置いてから、思い立ったように、ズボンのポケットに手をやった。

「これは、お前に返しておくよ」

「えっ」

 ぽいと自分に向かって投げられた銀色の品に、昭ははっと目を見開いた。

 これは、香織の携帯電話……。それも、あの小型金庫に僕が入れた……。

「迅っ、まさか、小型金庫を盗んだのはっ?」

 驚いて、声を荒げた昭に向かって、桐沢 迅は、ぶっきらぼうにこう答えた。

「小型金庫をお前の研究室から盗んだのは、俺だよ。その携帯の中身は何も見ていないけど、大学や警察に知らせたいなら、どうぞ、ご自由に。ただ、それを餌に坂下由貴を惑わす事だけはやめてくれ」

 てっきり、小型金庫を盗んだのは、由貴だと思い込んでいた昭にとって、迅の告白は意外すぎた。確かに迅は由貴に特別な感情を持っている。これは、そこまで迅が彼女の事を好きだって事か。けれども、それも何か違うような気がしてならない。言うべき言葉が見つからず、昭は思わず、けれども彼の心に一番正直な台詞を声に出して言ってしまった。

「なら、エベレストなんかに行くのはやめろ! そしたら、僕は、金庫の事も携帯電話の事も由貴さんの事も、全部、忘れてやる」

 その時、本編転倒もはなはだしいと、迅は激しく解せない顔をした。

「……何で、そんな話が出てくるんだ。今はそんな話をしてるんじゃないだろ」

「いいから、“うん”と言えよ。僕は思うよ。彼女を惑わすなと、言ってる迅こそ、一番、彼女を……いや、僕や、くるみちゃんやつばさ君を、惑わしている張本人だ。お前がいつまでも、風来坊を決め込んでいるから、みんながそれを心配して心が落ち着かない。迅、由貴さんに関わっている場合じゃないのは、僕じゃなくてお前の方だ!」

「完全に論点を逸脱してる。……馬鹿馬鹿しくて、これ以上、話す気にもなれないよ」

 昭にあきれたような一瞥を送ると、迅は彼にくるりと背を向け、足早に喫茶店から出て行った。

 

 こんな風に喧嘩別れをしたかったわけじゃなかったのに……後に残してきた昭の事が、妙に心に引っかかる。迅はもう一度、喫茶店の方向へ足を向けようとした。だが、どうしても後戻りすることができず、そんな自分をはがゆく思いながらも、駅への道を一人で歩いて歩いて行くのだった。


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