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第6話 再犯

 コンサートが終わった後に香織と別れ、大学の小道を裏門に向かって歩いていた、くるみは、ふと学生たちの騒ぐ声の方向に目を向けた。音楽科の研究室がある建物の下に人だかりができている。以前、大学の文化祭の打ち上げの時にも、学生たちが大騒ぎをしていたけれど、そんなお祭り気分な様子でもない。


 妙な違和感をぬぐいきれないまま、その場所へ近づいてゆく。見れば人々は上を見上げ指さしながら、口々に何かを叫んでいる。その声に誘導されるように、研究室の3階に目を向けた瞬間、くるみは頭の中が真っ白になってしまった。


「つ、つばさ!?」


 その名前を声に出すのが精一杯だった。


 だって、だって……私の自慢の弟が、


「誰か早く消防へ連絡しろっ! あのままだったら、あの子、下へ落ちるぞ!」

 みんなが騒いでいる意味がやっとわかった。研究室の3階の窓の雨よけの出っ張りに風に吹かれながら、かろうじて2本の腕でしがみついている少年。けれども、いかにも力のなさそうな腕は、今にも雨よけを掴んでいる手を離してしまいそうだ。

「は、早く、助けて。誰か、つばさを助けてっ!」

 ようやく出せた声で、くるみは叫んだ。何であんな所につばさがいるの? あの子、さっきまで大講堂でピアノを弾いてたじゃない!


 体育会系ぽい男子学生の数人が、研究室のある建物に駆け込んでいった。けれども、彼らが到着するまで、つばさが窓にしがみついていられる保証もなく、もし3階から落ちて下の地面にたたきつけられたら、命が助かる見込みなんてほとんどない。 泣いてる場合じゃないが、涙が勝手に滲み出てきてしまう。

 その時、

「あの馬鹿、何やってんだ!」

 くるみは、その声の方向にはっと目を向けた。

「迅兄さん、兄さんっ、た、大変、大変なの。つばさが落ちる、落ちるのよ」

 くるみの口からは、そんな言葉の羅列しか出てこない。


 迅は、くるみを一瞥すると、ちっと舌を鳴らし、集まった学生たちの間をすり抜け、つばさがぶら下がっている研究室の下に駆けていった。

 建物の下から上を見上げ、何かを確認するように視線を動かす。それから、右手を1階の窓枠にかけると、迅は、その場所を始点にして、一気に研究室の壁を登っていった。

 2年間も山に篭って、簡単な岩登りより、はるかに危険なアルパインクライミング(岩壁がんぺき登攀とうはん)をやり続けていた彼にとっては、研究室の建物をよじ登るくらいは、容易いことだ。

 建物にある出っ張りや、雨よけのとい、窓枠、それら全てを手がかり、足がかりにして、驚く人々を下に残したまま、するすると、つばさが宙吊りになっているすぐ下の位置まで登りきってしまう。


「スパイダーマンだな。あれは……」


 呆れたように、そうつぶやく、やじ馬たちの声を尻目に、迅は頭の上の義弟にどなりつけるように言った。



「俺の肩に足をかけて、とっとと上に登るんだっ」


 サルかよ。


 と、つばさは、足元に来ている義兄に目をやり、むっと表情を硬くした。はっきり言って、手には感覚なんてものは残ってはいなかったし、もう、窓の出っ張りに捕まっている腕の力は限界にきていた。それでも、何で助けに来たのが“こいつ”なんだよ……。

「あんたになんか、助けて欲しくない」

「下に落ちたいのか! 馬鹿言ってないで、早く登れっ」

 その時、手が窓際から外れそうになり、つばさは不本意ながらも、迅の肩に足を乗せてしまった。

「さっさと行け! 壁にしがみついてる俺にだって力の限界があるんだ」

「だって、窓枠が太くてうまく掴めないんだ」

「窓の内っ側に凹みがあるから、そこに手をかけろっ」


  凹み……? ああ、あった。


 迅に言われるままに、つばさは手探りに見つけた昭の研究室の窓の凹みに手をかけ、残った力の全部を集中して体を持ち上げた。すると、腰のあたりを下からぐいと押し上げられた。畜生、また、あいつか。手助けなんていらないって言ってるのに。

 だが、何だかんだと言っても、研究室の中に転げこむように戻れた時、

「た、助かったぁ……」

と、つばさは心の底から安堵の息をもらした。その息がきれないうちに、彼に続いて登ってきた迅が窓から姿を現した。


「つばさっ、お前、一体、何をやってたんだ!」

 瀕死ひんしの気分の自分とは裏腹に、軽々と窓を乗り越えて研究室に入ってくる義兄がうざったい。

「別に……ちょっと、手を滑らせて落ちただけ……」

 本当は誰かに突き落とされたなんて、口が裂けても言えない。だって、それを言ってしまったら、最初に疑われるのは、つばさにメールを送ってきた昭さんなのだから。


 でも、もしかしたら、昭さんが……?


 そんなはずあるかいっと、首を何度も振ってから、恨めしげに自分が落ちた窓を見つめた。するとその時、つばさの脳裏にふと、おかしな事が浮かび上がってきたのだ。


 そういえば、あの窓の鍵。それに、僕を助けにやってきた迅兄さん……窓の凹み……


 つばさは、一瞬、口を閉ざし、それから自分の目前に眉をしかめて立っている桐沢迅をじっと見つめてから、瞳をきらりときらめかした。そうして、物凄く人の悪い微笑みを浮かべて言った。


「兄ぃさん……やったね」


 迅は、一瞬、不可解きわまりない顔をする。だが、バタバタと研究室にやってくる足音を耳にして、口に出しかけた言葉とは違う台詞をつばさに言った。

「俺はもう行く。こんな場所にいて、根堀り葉堀り質問攻めに合うのは、まっぴらだ」

「えー、もう、行っちゃうの? でもさぁ」

 その言葉の続きを阻止するように、つばさをきりと睨めつけ、迅は昭の研究室から出て行ってしまった。義兄の後姿を見つめながら、13歳の天才少年はふぅんと小さく呟いた。

何処どこからともなくやって来て、何処どこへともなく去ってゆく。ほんっとうに、あの人は、スナフキンだな。でも、スナフキンって……」


 泥棒だっけ?


* *


 つばさを研究室の中に残し、心にわだかまりを抱いたまま、迅は、救援のためにやって来る学生たちとは別方向の階段を駆け降りていった。


あいつ、一体、何をやってたんだ。手を滑らせて窓から落ちたって? そんな見え透いた嘘を誰が信じると思ってる。


久々に大学にもどったかと思えば、また、何かしらのトラブルが起こっている。坂下由貴の件だって、こうも容易く彼女の悪癖が再発してしまうなんて……それに、良介は本当に小型金庫を盗んだ犯人の名前を坂下に教えたんだろうか。


それだけは、知られたくなかった……。


 ただでさえ不安定だった彼女の心に、その事実を知った事が、いい影響を与えるはずがないではないか。自分の今までやってきた事がすべて間違いだったような気がしてならない。憂鬱な気分で1階の廊下にたどり着いた時、迅は前方で立ちすくんでいる女子大生の姿に、はっと目をやった。そして、同時にひやりと冷たい汗をかいた。


坂下由貴……。


迅に向けられた視線は、半ば戸惑い、半ば非難しているように感じられた。

「さか……」

 その名を口にしようとしたが、続きを声にする事ができず、迅は沈黙した。言うべき言葉が浮かばない。それでも、黙って過ごせるはずもない。だが、一歩、足を踏み出した瞬間、由貴は迅にくるりと背を向け、その場から走り去ってしまった。


 廊下を小走りに駆けながら、やるせない気分で、由貴は腕時計に目をやった。時刻は午後1時を少しまわったところだった。

 

この時間に間に合うなら、良介さんを代わりに来させなくても、約束の時間を変えてくれるだけでよかったのに……。


 すると、由貴の心の中にぽつりと小さな“疑い”が浮かび上がってきたのだ。


“もしかしたら、迅さんは、私との事が面倒になった……の? だから、良介さんに万引きの話をしたのでは……”


 考えるほどに、小さな“疑い”は大きな“疑惑”に姿を変えてゆく。


 もう2度としないと誓った購買部での万引きを、私が、始めてしまったから、あの人はその事で、また私から頼られるのが嫌になって……。


 のど元に込み上がってきた胸が詰まるような思いが、由貴の切れた息を余計に苦しくさせる。


“明日からは、俺がその携帯に電話する。午後2時20分に毎日、坂下がその悪癖をしたくなくなる、その日まで”

 

 迅が由貴にそう約束した次の日から、毎日、午後2時20分にかかってきた迅からの電話。およそ、会話とは思えないような短い言葉にすぎなかった が、それでも、彼からの電話を待つうちに大学の購買部での万引きの事など、由貴は頭の片隅にも浮かばなくなってしまった。カウンセラーと理由をつけて時々は迅を呼び出して、大学近くの喫茶店で世間話を聞いてもらったりもしたが、迅は渋々ながらも応じてくれた。そうしているうち、つばさやくるみとも親しくなった。


 あのまま時間が止まってしまえば、良かったのに……。

 

  由貴の悪癖がなくなって、しばらくしてから携帯への電話は徐々になくなり、それがふつりと途絶えたと同時に、迅は大学を休学し山に篭ってしまった。自分では大丈夫だと思っていたのに、心の拠り所を失ってしまった由貴は、再び購買部へ足を運んでしまったのだ。


“いくら精神科医志望だからと言っても、リカバリーアドバイザーになってくれなんて、図々しい願いを聞き入れて、おまけに何の報酬もなしに、誰が何回も万引依存症の女の子の面倒なんて見るのよ。あの人はよくやってくれたわ。充分すぎるくらいに……”

 おまけに私は、迅さんの彼女でも何でもないんだから迷惑なだけ……そう、迷惑な……。

 

泣くつもりなんてないのに、涙がかってに溢れてくる。


見捨てられた……。

私、彼に。


その言葉が脳裏に浮かんだ時、由貴は口元を押さえ、その場にぴたりと足を止めた。ひどい吐き気がしてたまらない。だが、苦しい気持ちから逃れるように視線を前に移した時、彼女は急に無表情になり、ふらふらとそちらの方向へ歩いていった。


 時刻は午後1時5分


 アルバイトが交代する午後2時30分までには、まだ時間があったが、今日はどういうわけだか、誰も人がいない。

 由貴の視界の先にあるのは、大学の購買部。そして、商品棚に並べられた文房具。


 ― 盗ってみたら? この棚にある商品を全部 ―


 何かが心にそうささやいた。そのとたん、心の中の靄がすっと晴れ渡ってゆくような気がして由貴は商品棚の方へ近づいていった。そして、肩からさげたショルダーバックの口を大きく開け、棚の一番上に置いてある文房具類を片っ端からその中へ放り込み出したのだ。


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