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第5話 転落

 午前10時30分


 T大の大講堂は、音楽科コンテストの優勝者の演奏を聞こうとほぼ満席の状態だった。桐沢迅は、空席を探すでもなく、出入口近くの壁に寄りかかり舞台から流れてくるバイオリンの音色に耳を傾けていた。


 相変わらず上手いな。


 弟のつばさと違って音楽には、てんでうとかったが、舞台にいる“山根昭”の演奏が並でない事は、素人の迅にもよくわかった。今回のバイオリン部門の優勝を昭に持ってゆかれたように、うかうかしていると、いつか、つばさも昭に太刀打ちできなくなってしまうかもしれない。

 そんな考えがふと頭に浮かんだが、すぐにそれを打ち消すように小さく笑う。


 当たり前か。あの天才少年はちっとも練習しないみたいだけど、昭は、才能がある上にあれだけ熱心に音楽に取り組んでいるんだから。


 そろそろ演奏を聞くのも飽きてきたと、大講堂から出てゆこうとした時、

「なんだ、最後まで聞いていかないのか」

 迅は後ろから彼の肩をたたいた男の声に、驚いたように足を止めた。


「良介じゃないか、一体、どういう風の吹き回しだ? 昨日はクラシックコンサートなんて全然、興味がないって言ってたのに」


 実は、迅は、昨日の夜に岬良介の実家の回転寿司屋に立ち寄っていた。そこで、良介から由貴からの伝言として、“明日は会えない”と言付けられていたのだ。何度、電話しても迅が携帯に出ないので、由貴は彼がよく立ち寄る、良介の寿司屋なら連絡が取れると思ったらしい。

 けれども、迅の携帯の着信履歴には由貴の名前は一つもなかった。いくら山の中でも、すべての場所に電波が届かないわけがない。訝しげな迅に良介は言った。


「まあ、俺もちょうど眠くなって来た頃だ。ちょっと、外へ出ないか。前に話があるんだ」

 そして、良介に促されるままに、迅は大講堂の外へ出て行った。



 空は相変わらず秋晴れに澄みわたっていた。都会の空は狭いけど、今日はそれほど悪くもないなと、迅は思う。それでも、何かが心に引っかかっていた。大講堂から続く大学の小道を歩きながら、迅は彼の後ろについて来る友人に問いかけた。


「……で、話って何」

「実は……」

「実は、何だ?」

「……お前に俺が昨日した、“明日は会えない”っていう由貴さんからの伝言。あれって、嘘だったのさ。それに、俺はさっきまで、お前の代わりに例の喫茶店で彼女と会っていた」


「え?」


 良介の言葉に、迅は歩く足を止め、理解できないといった風に、しかめた顔を良介に向けた。俺の代わりに? しかも、何でこいつは、俺と坂下が10時にあの喫茶店で会う事を知ってたんだ。

 その考えを読み取ったように、良介が答える。


「だって、お前は、昨日、くるみちゃんからかかってきた、電話に面倒くさそうに答えてたじゃないか。“10時には人と会うから、優勝者のコンサートは見に行けないって”お前がこっちに帰って来て人と会うっていったら、あの喫茶店で由貴さんと大体の見当はつくのさ」


 まだ、迅が山に篭ってしまう前に、良介は大学の裏門近くの古びた喫茶店で親しげに語り合っている二人の姿を幾度となく目にしていた。普段、女の子になど目もくれない迅が相手にしている清楚な女子大生が、良介は気になって仕方がなかった。


「お前、どういうつもりだ」

 怒りとも戸惑いともとれる声で、迅は元同級生を睨めつけた。だが、良介は

「先週の金曜日。迅、あの日もお前は、昨日の夜みたいに俺ん家の回転寿司屋に寄ってたな。週末にはまた、谷川岳に戻るとか言って。あの日、俺がした話を覚えているか。そう、昭の研究室へ俺が弁当を届けに行った時に廊下で聞いちまったていう、あの話だよ」


 口元を軽く歪めて、迅は沈黙している。


「坂下由貴が、藤野香織に万引きの現場を携帯の画像で撮られた。藤野はそれを大学に提出しようとしている。坂下をかばおうとした山根昭が、その携帯電話を研究室の小型金庫に入れて鍵をかけた」

「……その話は確かに、聞いたが……それがどうしたって言うんだ」

 重い口をやっと開いた迅に、良介が勝ち誇ったような笑みを浮かべた。

「……そして、その日の後にあの携帯電話は小型金庫ごと、何者かに盗まれた。その犯人は何故、そんな真似をしたんだと思う?」


「……」


「答えは簡単じゃん、坂下由貴をかばうため。あの娘は自分のために盗みまで働いてくれる男がいるなんて知ったら、さぞや、感激? いや、驚くだろうなあ」

「お前……何が言いたいんだ」

「だから……」

 良介は、完全勝利の笑みを浮かべて、迅に告げた。


「俺が教えてやったんだよ。坂下由貴に、その“犯人”の名前を」

「何っ?」


 愕然と自分を見据える迅の横をすり抜けて、良介は涼しげな顔でこう言った。

「由貴さんは、もうお前には会いたくないらしいよ。なぁに、大丈夫。後はちゃんと俺がフォローしておくから。だから、お前は安心して、山にでも何処にでも篭ればいいさ」


 先ほどからの澄み切った青空に、灰色の雲がかかりだした。にわかに北風が強くなり、木枯らしがキャンパスの木々を大きく揺らしだした。


 小型金庫を盗んだ犯人を、坂下由貴に教えたって……


 その場に立ち尽くしながら、鼻歌まじりに大学の小道を歩いてゆく岬良介の後姿を、桐沢迅は、ただ呆然と目で追い続けていた。


* * * 

 割れんばかりの拍手喝采をあびながら、音楽科コンテストの課題曲と、オリジナルのバイオリンソナタの演奏を終えた山根昭は、まだ興奮のさめやぬ表情で、舞台の裏にもどってきた。


「昭さん、すごく良かった!」

「さすがはバイオリン部門1位!」


 他の出場者からかけられる賛美の声に、昭は素直に笑って礼を言う。

 一方、次が出番の闇雲つばさは、楽譜の確認もろくにせず携帯電話スマホを握り締めて、何やら手元を忙しく動かしていた。


「こらっ、つばさ君っ、いい加減にゲームは止めなさいっ」

「ま、待って。もう、ちょっとでクリアだから」


 運営スタッフの女子学生に叱られて、つばさは大急ぎで携帯の小画面に映し出された敵を倒しにかかる。よし、クリア! と、物凄く邪心のない笑顔を女子学生に向ける。そうされてしまうと、彼女たちが自分にとても甘くなる事を、この少年はしかと把握していた。

「もう、仕方ないわねえ。出番なんだから早く用意して。昭さんはとっくに舞台から戻って来てるわよ」

 つばさは、女子学生の声につられて、舞台の袖にできている学生たちの輪に目を向けた。昭はその中心で穏やかな笑みを浮かべて談笑していた。


 確かにさっきの演奏は良かったよ。前に研究室で聞かせてもらった時より、音も柔らかで、ずっと綺麗だったし。


 遊んでいるようでも、つばさの耳には昭のバイオリンの音色の一音、一音が正確に届いていた。本当に腕をあげたなと改めて感服する。だって、昭さんはこの大学の学生の中で唯一、僕が認めたバイオリニストだもん。

 そんなつばさの視線を感じてか、昭がふと、こちらを見たのだ。するとその時

 マナーモードに設定してあった、つばさの携帯電話が突然、振動を始めた。


「メール? こんな時に?」


 一体誰からと、不思議に思いながらも、つばさは受信メールを開いてみた。


 “演奏が終わったら、僕の研究室で待ってて。― 昭 ― “


「昭さんからだ」

 少し戸惑いながら、昭に再び目を移す。すると、昭はにこりと微笑み、手をあげて、つばさにその手を小さく振ってみせた。


* * *


『ジムノペディ』


 それは、エリック・サティが1888年に作曲したピアノ曲。

 T大音楽科コンテストの優勝者の中で、どう見ても大学生というよりは小学生に近い容姿の少年が、舞台のグランドピアノに指を置いた瞬間、観衆たちは、はっと息を呑むようにその演奏に聞き入った。


“ゆっくりと悩める如く”


 サティが意図したその主題をいとも容易く、しかも独創的に奏でる演奏者。

「やっぱり、闇雲つばさはモノが違う」

 T大音楽科の中に、つばさの名前や経歴を知らない者は誰もいなかったが、改めて彼の演奏を耳にした時、その誰もが山根昭が、つい感じてしまうのと同じ種類の羨望や嫉妬の感情を胸に抱いてしまうのだ。


 そんな事、僕には関係ないし。


 それなのに、羨望と嫉妬の的の本人 ―つばさ―は、涼しい顔で“弾きたいから、弾いてるだけ”の態度を崩さない。


「つばさ君には本当に驚かされるわ。あの年でまわりに流されるって事がないんだもの」

 大講堂の客席で、確保しておいた隣の空席に滑り込んできた女子学生に目をやり、闇雲くるみは、にこりと明るい笑顔を浮かべた。

「良かった、香織さん、間に合ったのね。昭さんの手伝いが早く終わったんだ」

「うん。それにしても、すごく盛況だわね。くるみちゃんが席を取っててくれなかったら座れないところだったわ」

 いつも通りの華やかな微笑の藤野香織に目をやり、くるみは小さく息を吐いた。本当にこの人は綺麗で、昭さんとはぴったりな人だなあ。


 私もいつかは、香織さんと昭さんみたいに、迅兄さんとお似合いのカップルになれるかしら。


 そう思うと自然に顔がほころんできた。つばさと同様、兄妹の関係なんて、てんで無視して、くるみはしばし倒錯の世界に酔いしれた。

 ところが、

「そういえば、迅さんを大講堂の入り口で見たわよ。声をかけようとしたら、あの回転寿司屋の、良介とかいう友達と一緒に出て行っっちゃたけど。確か、彼、今日は来れないって言ってたんじゃなかったっけ」

「えーっ! 私があんなに誘ったのに、良介さんと一緒にいたの」

 可愛い女子中学生よりも、剃り込みの入った寿司職人の方がいいなんてと、凄まじく、がっかりした顔のくるみを、どうなだめていいかがわからず、香織は苦笑する。


 この娘にしても由貴さんにしても、あんなにぶっきらぼうな人のどこがいいのかしら。


 とりあえず、何か声をかけとかなきゃと口を開こうとした時、


「まあ、いっか。やっぱり、迅兄さんは昭さんの演奏を聞きに来てたんだから。何だかんだ言っても、兄さんは、いつも昭さんの事は気にかけてるって事だよね」


 ころりと態度を変え笑顔で言った、くるみに香織は解せない顔をする。何故なら、香織が昭と迅と知り合った頃には二人の間にはすでに微妙な距離が開いていて、そこまでの仲の良さは感じられなくなっていだのだから。


「昭さんと迅さんって、高校時代はどんな感じだったの。昭さんの事はだいたい、想像がつくけど、あなたの義兄さんって、私から見ると、少しとっつき難い感じなのよね」

「真面目一方の昭さんを、迅兄さんが、時々、引っ張り出して学校の屋上でサボらせてたみたいで、昭さんは迷惑そうにしてたわりにはそれが気に入ってたみたい。迅兄さんってね、ああ見えても、けっこう優しいところがあるんだよ」


 へえ、そうなのと、香織は気のない返事をした。


 くるみちゃんは、迅さん贔屓だからそう思えるのかしら。私はやっぱり彼を好きにはなれないけど。


 そんな香織の思いを感じ取ったのか、くるみは、

「私たちのお母さんが、病気で死んだ時、まだ私たちは小学生だったんだけど、お父さんは出張中で親戚の人も誰も来てくれなくて……私たちのお父さんって、ちょっと人に嫌われやすい性格なのは、香織さんも知ってるでしょ」


「……くるみちゃんたちのお父さんって、T大の理事長さんね」


 確かに理事長の傲慢な性格は香織も常々耳にしていた。そういえば、くるみたちの義兄、桐沢迅の母が理事長と離婚した原因も、そんな彼の性格によるところだと噂が聞こえていた。


「その時に、私とつばさを心配して一番に駆けつけてくれたのが、迅兄さんだったの。あの人は、お父さんの前の奥さんの子供で、私たちとは関係なんかないのにね。兄さんは確かに、メールを打っても電話をしても、私を無視してばっかりだけど、本当はちゃんと、私とつばさを見ていてくれる。そこんとこが……」

 ふふふと怪しげな笑みを浮かべ、くるみは目をハート型にして言った。


「私は好きっ」


 はあ……と、呆れたような顔で、香織はとりあえず相づちだけは打っておいた。色々と複雑なのねと、心の中でそう思った。けれども、迅に対しての印象はやはり、くるみが持つような好ましい物ではなかった。


 だって、いつも、一歩離れた場所から他人を見ているような、あの人の目が私は嫌い。

 大学を休んで山に篭って好き勝手するのはいいけれど、そのわりには、成績も良くて、くるみちゃんからも慕われて……あれって、一心不乱にがんばってる昭さんにとっては、けっこうプレッシャーになってるんじゃないかしら。それに、由貴さんの件でもそう。桐沢迅が由貴さんと親しくしているのは、好意からなんかじゃないわ。あの人も由貴さんの万引き癖を知っている。そして、絶好の機会とばかりに彼女を観察してるのよ。つばさ君に色々と世話をやいている事だって、それは、あの子が類いまれな天才児だからじゃないかしら。くるみちゃんは、そのおまけってわけ。


 昭さんも由貴さんも、そして、つばさ君もくるみちゃんも……単なる、人の心を探るためのサンプルなのよ。あの桐沢迅という、精神科医志望の変わった男のための。


 だが、そんな話題には関わらない方が良いに決まってる。香織は、くるみに胸の内を明かす事もなく、笑顔を作った。

「あまり、おしゃべりしてると、まわりの人たちに叱られてしまうわ。ちゃんと、つばさ君の演奏も聞きましょ」

 すでに、つばさの演奏は第3楽章に入っていた。

 徐々に絡み合ってゆく人々の心のひだには目もくれず、その調べは、ただ淡々とピアノの鍵盤上から醸しだされる。


“ゆっくりと厳かに”


 『ジムノペディ』第3楽章 ― その主題を十分すぎる技量で弾きこなしながら、楽曲は終わりに近づいていった。


* * *


「演奏が終わったら、研究室に来いだなんて、昭さん、いったいどういう、つもりなんだろ」

 それも、メールで打ってくるなんて、なーんか変だなと思いつつも、つばさは昭の研究室への階段を一人で上っていった。三階にある第一研究室 ― 山根昭の研究室 ― の前で、つばさは軽く、そのドアをノックした。けれども、中から返事はなく、ドアのノブを回してみると、鍵がかかっている様子もない。


「……中で待ってろって事なのかな」


 そうっとドアを開けて、誰もいない研究室の中に入ると、つばさは、きょろきょろと辺りを見渡してみた。普段どおりの小綺麗に片付けられた同じ部屋。


 昭さんは、ふざけて隠れてるなんてキャラじゃないしなあ。


マナーモードのままのつばさの携帯電話が、再び振動し始めたのは、ちょうど、その時だった。

「また、メール?」

 訝しげに首を傾げながら、メールの中身を読んでみる。


 “窓の外を見てみて”


「窓の外ぉ?」


 全く不可解! おまけに、よくよく見てみれば、研究室の大講堂側の窓は、こっちに来てよとばかりに大きく開けはなれている。

昭さん、一体、どういうつもりなんだよと、つばさは窓の近くに近づいていった。すると、窓の近くにあった、盗られた小型金庫の場所が空いたままの机が目に入ってきた。

 そういえば、金庫が盗られた時って、ドアも窓も鍵がかかってたんだよな。そう、あれは“密室盗難事件”……なんとなく、気になってサッシ窓のクレセント鍵に視線を向ける。その時、つばさは、はっと大きく目を見開いた。


 これって……まさか


 だが、その場所をよく見ようと、窓枠に手をかけた時、


「……!」


 つばさの背中に、ひどい衝撃がはしった。それと同時にぐいと体を持ち上げられた。


 これ、ヤバイっ!


 そう、思うか思わないうちに、少年の体は窓の外へ落ちていった。


 突き落とされた!


 自分が置かれた状況をそうだと判断しうる、その前に。



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