最終章 それぞれの旅立ち
良介の言葉に、そばにいた由貴とつばさは、同時に、えっと驚きの声をあげた。
「何でそんな話が良介さんから出てくるんだよ。だって、迅兄さんは、来年はエベレストに登頂する予定なんだろ」
「……だから、俺が言ってるのは、その後の話だよ。はっきりした事はわかんねぇけど、ここの工学部の教授んとこに出前に行ったときに、迅の名前が出ててさ、思わず立ち聞きしちまったんだが……」
「また、立ち聞きかよ」
いらぬ突込みをいれてくる、つばさの頭を一殴りしてから、良介は話を続ける。
「何でも……アメリカのマサチューセッツにある、MITのコンピューター何とか研究所からの要請があって、先方が、桐沢 迅君に強く興味を示しているって話をしてたんだ。で、教授たちが、やっと迅もその気になってくれたって、嬉しそうに話してて……」
つばさは唖然と宙を見据えた。
「MITの研究所! それって、マサチューセッツ工科大(MIT)のCSAIL(コンピュータ科学・人工知能研究所)の事じゃないか。CSAILは、MITの中でも最大規模の研究所で、世界的にも情報技術の最先端をいってる特別な場所なんだぞ!」
だから、迅兄さんは、くるみのメールに渡米するなんて事を書いてきたのか。それにしても驚いた。スナフキンの奴、エベレストだけの登山馬鹿かと思っていたら、僕らの知らない所でそんな話を進めてやがったのか……。アメリカ……MIT。
けれども、冷静に考えてみれば、CSAILで人工知能の研究をやるならば、精神科医志望でもあり、超有能なハッカー? でもある、迅兄さんにとっては、願ったり適ったりの選択ではないか。
ヤバイ……。くるみが中学を卒業するまで、T大にいる。なんて悠長なことを言ってたら、あのスナフキンは僕を飛び越えて、どんどん上へ行っちまう。
つばさの頭の中で、色々な物がぐるぐると回りだした。そうだ、そういえば、今日、僕がコンマスをやったオケを見学していた“偉い人”の中に、確か、あっちの……と、ここまで、つばさが考えた時、
「いけねぇ、出前の途中だったんだ。天才少年! お前、その話の事をもっと詳しく調べとけ。それで、俺んちの店の場所を教えとくから後で報告にくるんだぞ」
焦った様子の良介は、回転寿司屋のパンフレットを、つばさの手に無理やり押し付けると、そのまま、くるりと踵をかえして校門の方向へ立ち去ろうとした。……が、
「おっと、大切な事を忘れてた。由貴さんに、俺は言っておきたい事があったんだよ」
と、振り返って、真剣極まりない目を女子大生に向けた。
「由貴さん、俺が前にあんたに出した“条件”のこと、まだ、覚えてる?」
由貴は怪訝な顔をする。
「 “条件”?」
「ほら、俺が、金庫の中から盗まれた携帯電話を渡すかわりにって出した、あの“条件”の事だよ」
その直後に、由貴の顔に浮かんだ苦い表情を見て、良介は驚き、
「違う、違う! 携帯電話云々の事じゃなくって、俺が言いたいのは、あの時、俺が由貴さんに言った“俺の彼女になってくれよ”って言葉の方なんだ」
「……」
「そりゃ、迅との仲を誤解して、由貴さんを俺の彼女にして、あいつの目をあかしてやろうなんて思ってた時期もあったけど、本当はそれだけの気持ちじゃなかったんだ。本当に俺は、由貴さんの事が好きで……。だから、無理になんて言わねぇけど、もし、良かったら、新しい店に寿司でも食べにくてくれよ。俺、このまま、由貴さんに嫌な奴だと思われてるのは、たまんなく切ねぇから」
おぃおぃ。
良介の突然の告白に、“この寿司職人は一体、何を言い出すんだ”と、つばさは、物凄く不可解な顔をした。
「あのさぁ、そういうのは、由貴さんと良介さんが二人っきりの時にしてくんない。部外者の僕にとっては、迷惑な話なんだけど……それにさ、由貴さんにはもう先約が……」
「先約……? 迅じゃねぇんだろ。なら、誰だよ、お前か」
「違う、違うっ! だって、僕にはくるみが……」
と言いかけて口を噤んでしまった、つばさに、良介は超冷淡な一瞥を送ってから、
「ま、そういう事だから、これからもよろしく。じゃ、俺はこれでっ」
そう言い残して、手を一振りすると、そそくさと行ってしまった。
* *
後に残された、つばさと由貴は、きょとんと目を合わせて、
「言いたい事だけ言ったら、けっこう、あっさりと行ってしまったね」
「うん……」
「でもさ、短い間に、本当に色々なことが起こって、僕も何だか疲れちゃったよ」
ふぅと息をつくと、つばさは、後ろにあった花壇のわきにもう一度、座りなおした。それから、手にしていたバイオリンに弓をあてると、小さくそれを動かし、適当な旋律を奏で始めた。
「そういえば、さっきから不思議に思ってたんだけど、つばさ君は、今日は何でこんな所でバイオリンを弾いてたの」
「だって、コンサートにも飽きちゃって、今日は大学祭だし、ちょっとしたストリートミュージシャンでも気取ろうかなあって思って。由貴さん、何か、リクエストない? どんな曲でも弾いてあげるよ」
そう言われてもと、選曲に迷っている女子大生に、つばさは笑みを浮かべ、
「あのさ、由貴さん、迅兄さんの事なんだけど……僕は、由貴さんがきちんと次の大学の事を決めれたんなら、その時は、あの人に電話をかけてみてもいいと思うんだ。“電話にもメールにも出ない”なんて、冷たい事を言ってるけど、迅兄さんの本心は、きっと、そんなんじゃないんだから」
「だって、これまでだって迷惑をかけてるのに……」
「なら、由貴さんは、これっきり、迅兄さんとはお別れにしたいわけ?」
無言のままの女子大生に、つばさは言う。
「冷静に考えてみれば、あのスナフキンが、毎日同じ時間に、女の子に電話をかけてたっていうだけでも、有り得ない話だったんだ。僕の勘からすれば、由貴さんは、迅兄さんの周りに群がってくる女子の中じゃ、あの人の気持ちの中にまで入り込んでた一番の人物だと思うんだ」
「……つばさ君、言ってる意味がよく分からないわ」
ああ、もう、じれったいなと、前置きしてから、つばさは言った。
「だから、迅兄さんと友達になりたいなら、思いきって電話してみれば? あのスナフキンは世間に疎いから何ぁんか反応がイマイチなところがあるけど、今のところ、僕のデータ上では、由貴さんが、あの人の一番の((彼女))候補だよ」
「……」
……で、2番は、くるみか? と思ったとたんに、つばさは急に焦りみたいな物を胸に感じた。駄目駄目、ここは、何とか、由貴さんに頑張ってもらわなきゃ。
「由貴さん、電話しようよ! 絶対に大丈夫だってば。僕が保証するっ。それに、今日の気持ちなんて、1・2ヶ月もたちゃ変わってるのが、人間ってもんでしょ。僕なんて、自分に都合が悪ければ、今日言った事だって明日になればもう忘れてるよ。だから、ねっ!」
力説する、つばさを見ているうちに、由貴は何だか可笑しいような気分になってしまった。すると、急に心が軽くなってきた。
「そうね、編入試験が上手くいったら、電話してみようかな。……迅さんだって、きっと喜んでくれるわよね」
「そうそう、それは、もう大喜びだよっ。ってことで、じゃあ、僕が選曲して何か由貴さんために弾いてあげるよ。え……と、モーツアルトがいいかなあ、それとも、ブラームス?」
少し考えた後で、つばさは、そんな曲は、この場じゃつまらないんじゃないかなと思った。それだから、弓をひらりとバイオリンの弦にあて、そばにいる女子大生に意味深な瞳を向けてから、こう言った。
「やっぱ、ここは情熱的なロドリーゴの曲。川井郁子バージョン、レッドバイオリン“アランフェス協奏曲”」
つばさが弓を動かした瞬間に、彼が手にした、バイオリンから伸びやかな旋律が響きだした。低音からのゆったりとした音色が、蒼に溶け込みながら、晴れ渡り高くなった秋の空へ流れてゆく。
その不思議と心に染み入ってくる旋律に引かれ、大学祭を見学に来ていた学生たちが、わらわらと、つばさの回りに集まってきた。
「上手いわね。あの子、知ってるわよ。音楽科へ飛び級した天才児でしょ」
「まだ、13歳なのに、もう大学生で……名前は何っていったっけ?」
どう見ても大学生とは思えない少年バイオリニストを見つめて、彼らは言う。
「そうそう、思い出した。あの子の名前って、確か……」
“闇雲つばさ”だったよね。
そんな定番の囁きに、つばさは、軽く眉を動かした。けれども、口元でかすかに微笑むと、後はほとんど気にもめない様子で、気持ちよさ気に弓を動かしつづけた。
― 完 ―
【 エピローグ 】
事件から2年がたち、
登場人物たちのその後はどうなったかというと、その近況は、こんな感じである。
桐沢迅
つばさたちと別れた1年後の冬に、エベレスト最難関、南西壁登頂に挑むも、頂上まで約200m足らずを残した標高8560mの地点で積雪と悪天候に阻まれ、やむなく登頂を断念。
体力、気力面などの消耗が激しく、雪崩の巣に捕らえられそうになりながらも、無事に下山。その半年後に、マサチューセッツ工科大のCSAIL(コンピュータ科学・人工知能研究所)に、T大からの派遣研究員として、渡米。現在、アメリカ、マサチューセッツ州、ケンブリッジ市のアパートで一人暮らし。
坂下(坂下)由貴
国立系の薬学部の編入試験に合格。それを期にT大を退学、一人暮らしを始めた。新しい大学で薬学を学ぶ傍ら、精神面でのカウンセラーを受け、大学生活もようやく落ち着いてきた。夏休みが来るのを楽しみにしている。
山根昭
退院から、半年後にT大音楽科へ復学したものの “毒物混入事件”での後遺症で麻痺した指は、プロのバイオリニストとしての完全回復は難しく、一旦は落ち込むが、現在は、指導者としての道に気持ちを切り替え大学院に進学。優秀な成績を修めている。
渡米した桐沢 迅とは、メールを通して、交流を続けている。
岬良介
新しい場所での回転寿司屋も、細々ながらも客足が出始め、ひとまずは落ち着いた生活を送っている。坂下 由貴が、新しい大学で親しくなった美貌の友人を連れて、時々、来店してくれることが目下の楽しみ。
藤野香織
“毒物混入事件”の裁判にあたり、被害者でもある山根 昭から、罪の軽減を求める異例の情状酌量の嘆願書が提出された事もあり、犯行当時の彼女の精神状態が、軽度ではあるが、心神耗弱にあたると判断した裁判所は、藤野 香織に執行猶予つきの有罪判決を下した。
その後、香織はT大を自主退学。今は、自宅でバイオリンの練習を続けると供に、将来的には音楽療養士の資格をとるべく、学習を始めた。最近、その事についての相談で、T大近くの喫茶店にて、山根 昭との再会を果たした。
そして、闇雲つばさと、くるみの姉弟はというと、
「つばさっ、忘れ物はないのっ? 2週間も演奏旅行に出るんだから、ちゃんと、昨日、持ち物点検したんでしょうね!」
「だから、やったって言ってるじゃん。下で、車が待ってんだから、もう、行かせてよ」
義兄、桐沢 迅が渡米してまもなく、二人は、つばさの強い要望もあり、ボストン交響楽団の常任指揮者からの招きを受けて、マサチューセッツ州、ボストン市に留学したのである。
現在は、交響曲楽団の関係者の一家をホストファミリーとして、姉、くるみと共にホームスティをしている。つばさは、交響楽団傘下の機関でバイオリンを学びながら、ボストン交響楽団の客員バイオリニストとして、公演にも数多く同行し、忙しい日々を過ごしているのだが……、
急いだ様子で部屋を出てゆこうとした時、つばさは、言い忘れたとばかりに、くるみの方にくるりと振り返った。
「僕の事を心配してる暇があったら、くるみはもっと、英会話の勉強に精を出したら? まかりなりにも、T大付属校からの留学生って肩書きでこっちの高校に入学してんだから、成績が悪いと日本に呼びもどされちゃうよ」
「大丈夫よ。最初と違って、こっちに来て、もう1年もたつのよ」
弟の心配をよそにアメリカ生活を満喫している姉の様子に、
「ふぅん。それよりも、僕がいないのをいい事にして迅兄さんのアパートに出没するのは、いい加減にやめといたら? あの人、昭さんへのメールに、“義妹がいつも突然、やって来る”みたいな事を書いてるみたいだぞ。きっと、いい迷惑なんだよ」
すると、くるみは、むっと唇をとがらせて、
「別にいいじゃないの。迅兄さんが住んでるケンブリッジは、すぐそこなんだから。それに、夏休みに由貴さんがこっちに来るんだから、その打合せもしとかなきゃ」
その姉の言葉に、つばさは、“くるみのライバル到来か”と、ちょっと苦い笑いを浮かべてしまった。
やがて、外から、つばさを待ちきれずにクラクションを鳴らす音が響いてきた。
「いけね、本当にもう行かなきゃ。じゃ、くるみ、夏休みまでには帰ってくるから、それまで元気でね!」
旅行用の荷物を引きずりながら部屋から出てゆく弟の後姿に、ちょっと寂しいような気分になる。けれども、ううんと首を振り、
「うん。夏休みにね! それと、演奏会がんばってね!」
くるみは、はじけるような笑顔を浮かべ、旅立つ、つばさを見送った。
― 幕 ―
【後書き】
* *
完結しました。
読んでいただいた方々に感謝感謝です。感想やご意見などをいただけたら、とても有難いです。
ギフテッド(天才児)、精神分析、エベレスト登山、ハッカー、少年審判など、色々と折りこんでの小説でしたが、大部分は作者の好みですが(笑)、できれば、次はアメリカを舞台に桐沢迅を中心の続編を書きたいと思っています。
そちらの前振りといいますか、本編の番外編も公開しておりますので、よろしければ、そちらもどうぞ。
『余罪のタイムライン 番外編 ~ 天才児×天才児の義兄×パパラッチ=災難 ~』
https://ncode.syosetu.com/n8893fq/2/




