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第4話 背信

「分かった、分かったから、もう、演奏は止めていいよ。ほら、ケーキがちょうど来たところだから、休憩にしよう」

 昭は苦い笑いを浮かべると、降参だという風に、つばさに向かって両手を挙げた。

「完全に僕の負け。バイオリン部門で優勝したのは僕だけど、内容的にはつばさ君の方がいいに決まってる」

 そう宣言してしまうと、昭はかなり心が軽くなった。これで、僕は単なる一人のファンとして、闇雲つばさと接することが出来る。

 つばさはそんな昭に意外な顔つきをする。

「勝ち負けなんて考えた事もないんだけど。昭さんの演奏は良かったよ。あのままでも、きっとウィーンからの……何てたっけ、リバールだっけ? 彼のお眼鏡に留まると思うし」

「リバール? リバールが今度の演奏会に来るの」

 つばさの言葉に香織がいつにない大声をあげた。


 ピーター・リバール


 それは、2年前、香織が弟子としてウィーンに交換留学生としていた頃の彼女の師匠だった。おかしい。直弟子の香織に一言もなく、来日するなんて。

「あれ、知らなかったの? 学生の間では、今度の演奏会で彼がまた弟子を選ぶって、けっこう噂になってるのに」

 つばさの言葉に、昭と香織は何とも言えない、きまりの悪さを感じながら沈黙した。

 連絡がこなかった。それは、香織は今回、リバールの弟子候補からはずされたという事だ。つばさは2位だったので今回はバイオリンの演奏はしない。だから、多分、彼はコンクールの優勝者の昭を弟子に選ぶだろう。

 その思いが胸に溢れかえり香織は、泣きたいような気分になった。その時

「わぁ、美味しそう。紅茶もまた入れ直したし、みんなで食べましょっ」

 くるみの明るい声が響いてきて、その場の張り詰めた空気は表面的には和やかに流れ出したのだ。

 再び、くるみに救われたと、昭はほっと息をついた。

「演奏会が終わったら打ちあげをするから、つばさ君とくるみちゃんもぜひ、来ておくれよ。良介の家の回転寿司屋を貸しきってあるんだ。仲間うちだけの会だから、気をつかう必要もないし」

「良介さん家の? 行くっ。あそこの寿司って値段の割には美味いよね。でも、昭さんて海老、カニ類が駄目なんじゃなかったっけ」

「大丈夫。良介もそれをよく知ってて、僕が行った時はちゃんと抜いた分を回してくれるから」

 昭とつばさのやり取りを聞いていた、くるみが不本意な声音で言葉を挟んできた。

「海老、カニが駄目って、昭さんって、そんなに好き嫌いがあったの。それも美味しそうな物ばかり」

 すると、香織が昭を代弁するようにその問いに答えた。

「昭さんは“甲殻アレルギー”なのよ。殻のある海老とかカニを食べると、即座に体中に真っ赤な湿疹が出て、どんなに美味しそうでも、食べちゃいけないの。可愛そうだけど、仕方ないわねえ」

 そういう理由だよと、昭はあきらめ顔で笑う。

「別にいいじゃん。寿司は海老とカニだけじゃないし、ウニに大トロに……ああ、考えただけでもお腹がすいてきた。……で、その会って誰が来るの」

 つばさの贅沢な想像に笑って答えた香織の返事は、最初はよどみのない調子だったが、後になるにつれて微妙な色合いを帯びていた。

「つばさ君と一緒だと、相当高くつきそうな会になりそうね。予定では、昭さんと私、つばさ君とくるみちゃん。それと……由貴さんに迅さんも」

「迅兄さんが来るのっ!」

 飛び上がって喜ぶ、くるみを制するように昭が言った。

「迅は……多分、来ないよ。一応、声はかけておいたけど、でも、坂下君が来れば、姿を現わす可能性はなくもないけど……」


* *

 土曜日。音楽科コンクール優勝者のコンサートの日は、空気がぴりりと肌を刺し身がひきしまる寒さだったが、冬晴れの空に、胸がすくような青空が広がる爽やかな天気になった。

 時間は午前9時。

 この日、コンサートが開催される予定のT大の大講堂には、楽器の準備やリハのために出演者たちが、少しずつ集まってきていた。

「僕の出番は、午前の部の最後の方だろ。何でこんなに早く来なくちゃなんないのさっ」

 姉のくるみにせかされて、大講堂の準備室の追いやられながら、つばさは不本意そうに唇をとがらせた。

「一発勝負で演奏する気? つばさは、ピアノ部門の優勝者なんだから、それなりのリハーサルをやっとかないと。それに昭さんが出るヴァイオリン部門は午前の一番なんだから、早く行かないといい席がとれないでしょ」

「一発勝負で十分なのに」

 自分の技量に並々ならぬ自信がある事はもちろんだったが、昭や香織と違って、海外留学をしたいとか有名音楽家の弟子になりたいとか、そんな野望は露ほども持たないつばさは、コンサートで楽器を上手く弾こうが弾くまいが、そんな事には全くの無関心を決め込んでいた。それよりも、せっかく寝坊ができる土曜日の朝に目覚めてる自分が悲しくてたまらない。

「何言ってんの! 私は客席を確保してくるから、つばさは、しっかり練習してなさい」

 つばさは肩をすくめ姉の機嫌をそこねぬように、お愛想っぽい笑みをいっぱいに浮かべて、こう言った。

「……ところで、僕、楽譜を研究室に置きっぱなしにしてきたんだけど……」

「ええっ、楽譜も持たずにここに来たの」

「まぁ、全部、暗譜してるからいいんだけど」

「あんたはよくても、みんなと音合わせとかに使ったりもするんでしょ! 研究室は近いんだから、早く取りに行きなさいよ」

「はい、はい」

「“はい”は、一つでいいの!」 

「はあい」

 毎度の事ながら何に対しても弟は無頓着すぎる。くるみは、気のない足取りで研究室の方に歩いてゆく、つばさのあとを追いながら、ふぅと小さく、ため息をもらした。


 コンサートが行われる大講堂のすぐ右手には、音楽科の学生たちの研修室がある建物が隣接して建てられていた。成績優秀な学生は、定期演奏会の他にも個別でコンサートを開いたり、リハーサルを行ったり、研修室はそのための控え室としても機能している。

 4階建てのこの建物の3階に、昭と香織の研究室があった。つばさは2階だ。

その部屋で、乱雑におかれたバイオリンのケースや本の間から、四苦八苦して楽譜を引きだそうとしている弟を横目で見ながら、くるみが、そういえば……と、口を開いた。

「昭さんの研究室から金庫がとられた時の事を香織さんから聞いたわ」

「へえ、昭さんは盗難の話をするのを嫌がってたのに」

「香織さんは、普通に話してくれたわよ。それが、ちょっとおもしろいのよ。金庫が盗られたのは、警備の人が帰った先週の土曜の夜から、学生たちがやって来る月曜の朝の間なんだけど、その間、昭さんの研究室は外から鍵がかけられていて、昭さん以外には誰も中に入れなかったみたいなの」

「大学側にマスターキーはなかったの? それを犯人が使ったのかも」

 つばさは、楽譜を無造作に机に放り出すと、少し興味がわいた風にくるみの方に目を向けた。

「それに窓から入ったのかもしれない」

「マスターキーも昭さんが持っていて、大学には預けてなかったんだって。その上、窓にもきちんと鍵がかけられてあって、窓もドアも壊された様子は少しもなかったらしいわよ」

「ふぅん、それって“密室盗難事件”じゃん」

 つばさは、自分の言った台詞が気にって、いたずらっぽく瞳を輝かせた。

「それにしても、何で昭さんは携帯電話を小型金庫なんかにしまったんだろ」

「さあ、そこまでは香織さんの話には出てこなかったし、あんまりしつこいのも良くないと思って聞かなかったわ」

 そうだねと、さりげなく相槌をうちながらも、つばさは、昭がオリジナルの曲を彼に聞かせてくれた時の歪んだ音色 ―それは、本当に最初の部分だけだったのだが― を思い出し、胸の奥に何かがつかえているような心地悪さを振り切る事ができずにいた。


* * 

 つばさたちの研究室がある建物の裏手には、延々と続くレンガ壁があり、建物の廊下側にある桐の木が敷地内から飛び出すほどの大きな枝を張っていた。その桐の木の下あたりが大学の裏門になっている。裏門を出ると、そこには多少広い通りがあり、学生相手を相手にする古本屋や喫茶店がぽつぽつと立ち並んでいた。


その中でも、あまり流行っていそうにない古びた喫茶店の前で、坂下由貴はそっと窓から店内の様子を伺った。迅かどうかもわからない黒い人影を喫茶店の中に見つけただけで、心臓がどきりと音をたてる。由貴は落ち着かない様子で、腕時計に目をやった。


 午前9時30分


 まだ、来てるわけがない。約束は10時なんだもの。

 だが、波打つ心臓の音を懸命に抑えながら、喫茶店のドアを開けた時、由貴は別の驚きで表情を固くこわばらせた。

「よう、ずい分、早く来たじゃん」

 喫茶店の奥の席から、由貴に向かって親しげに手を振る男がいる。


 みさき良介りょうすけ


 桐沢きりさわ はやてと、高根たかね あきらの高校時代の同級生。2人との付き合いの関係で、由貴も彼の実家がやっている回転寿司屋には何度も行った事があり、良介ともそこそこの親交がある。それでも……

「何で、良介さんが……ここにいるの?」

「迅に頼まれたんだよ。あいつがどうしても都合がつかないから、行って、由貴さんの話を聞いてくれないかって」

「……」

 由貴は、良介に彼女の悪癖の話なんかした事もないし、したいとも思わない。けれども、良介の口ぶりには、何かを知っているぞと言わんばかりの含みがあった。まさか、迅が由貴の秘密を良介に話した? そんな事有り得ない。有るわけがない……有って欲しくない!

「まあ、そんな所で突っ立ってないで、こっちに座れよ」

 にやと笑みを浮かべながら、手招きする良介に導かれるままに、由貴は愕然と唇を震わせ、彼のテーブルの前の席に座った。


 由貴の緊張を感じ取ってか、良介はなだめるようにこう言った。

「あいつも薄情だよな。もしかしたら、迅は来ないかもしれないけど、でも安心しなよ。あんたの話は俺が聞いてやるから」

「話を聞くって……良介さん、何か、迅さんから私の事を聞いてるの」

 不安が心に溢れてきて、由貴は良介とまともに目を合わす事ができない。

「万引きと、小型金庫の盗難。そして、携帯電話」


 やっぱり、全部、知られてる……。


 目の前に座っている予定外の男の言葉に、由貴は泣きたいような気分になった。

「……それも迅さんが話したのね」

 彼が意味深に浮かべた笑みをどう解釈したらいいんだろう? 戸惑った表情の由貴をからかうように、良介が言った。

「それより、俺は由貴さんにもっと大切な話があるんだ」

「大切な話?」

「実は、あの金庫を盗んだのって……“俺”なんだ」

「えっ」

「昭の研究室に忍び込んで、あんたの為に金庫を盗んでやったのは俺って事。だって、あの香織とかいう鼻持ちならない派手な女に、万引きの現場を携帯で撮られて、困ってたんだろ? だから、研究室に弁当を届けに行って昭たちと部屋を出た時、あいつが閉めた鍵をポケットに入れたのを見て、さりげなく、それを抜き取っておいたんだ」

「……その鍵を使って、良介さんは昭さんの研究室から小型金庫を盗んだって言うの? でも、鍵を失くしただなんて、昭さんは一言も言ってなかったわ」

「そりゃそうさ。だって、小型金庫をいただいて、研究室の鍵をかけた後、俺はそれを扉のノブにぶら下げておいたんだから。多分、昭はあの鍵を見つけてる。なのに、その事を誰にも言わない。それって何でだと思う?」


 ……昭さんが私をかばってくれてるから。鍵を盗んで、小型金庫を盗ったのは私だと思っているから……


 苦々しい思いが胸にこみ上げてきて、由貴は吐き気がしてきた。何でよく調べもしないで、私を疑う? その気持ちにあえて気づかぬふりをしているのか、良介は涼しい顔で言葉を続けた。

「昭は明らかに、あんたをかばってる。やつは由貴さんの事が好きなのかもな。でもさあ、俺の気持ちの事も少しは考えてくれないかな」

 彼の薄ら笑いに、やはりそういう事かと、由貴は強く眉をしかめた。いずれは飛び出してくるだろうと想像していた展開。良介は、盗んだ携帯電話を餌に由貴をゆすろうという魂胆に違いない。

「……いくら欲しいの」

 ところが、良介はその言葉に驚いたように一瞬、言葉を詰まらせた。

「ま、待ってくれよ! 俺は由貴さんをゆする気なんて全然ないんだ。ただ……携帯電話をあんたに渡すには、一つだけ条件がある」

「条件?」


「……俺とつき合ってくれよ」


 唐突に出された、その条件に由貴は何ともいえない心地の悪さを感じていた。つい最近、携帯電話の件で、同じような事を別の人からも言われた。もてていいわねと、安易に考える事なんて出来ない。どう誤解したのか、岬 良介もそして、“山根 昭”も由貴があの自由気ままな医学生の彼女だと思い込んでいるらしい。


 この人たちは私の事なんて、これっぽっちも好いちゃいない。

 由貴は、口からこぼれ出そうになる軽蔑の言葉を抑えるために、ただ黙って下をうつむいていた。

 私は単なる嫉妬から芽生えた報復の道具にすぎない。


“ 桐沢 迅”から“彼女”を奪ってやったという、馬鹿げた虚栄心を満たすためだけの。


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