第48話 迅とくるみと、そして雨
闇雲家の玄関を飛び出し、冷たい雨の中を走ってゆく。
強く降っては、また、弱まる雨を見あげて、くるみは眉をひそめた。
そういえば、朝のニュースで季節はずれの台風が来ているなんて天気予報がでてたっけ。
右手でさした傘が風に押され、左手に持った予備の傘が邪魔になって、なかなか義兄に追いつけない。
靴の中に雨水が入ってくるのも、おかまいなしに駆け続け、ようやく、その背中が見えてきた時、
「待ってよ、待って!」
くるみは、もてる限りの大声をあげた。
「迅兄さんっ!」
背中ごしに響いてきた声に呼び止められた迅は、訝しげに後ろを振り向いた。ラベンダー色の傘の下で、自分の方をまっすぐに見据えた少女が息をはずませている。
「くるみ……?」
「迅兄さんっ、歩くの速すぎっ!」
「お前、何しにきたんだ」
「何って、11月の終わりなのよ! そんなに濡れたままじゃ、風邪をひくでしょ。だから、もう一度、家に戻って着替えたら」
ところが、自分の元に駆け寄り、背伸びしながら差し掛けてきた、くるみの傘を
「別にいいよ。少しくらい濡れても、慣れてるから」
迅は迷惑げに押し戻し、そのまま足早に行ってしまおうとする。
「迅兄さん!」
追いかけて傘を差しかけても、義兄は、それを煩わしそうにかわすだけのだ。そんなやり取りに困ってしまった、くるみは、
「なら、この傘、差してって」
左手にもった予備の傘を強引に、迅の手に渡そうとした。
……が、
「しつこいな! いらないっていってるだろ。俺は、急いでるんだ、放っといてくれ!」
うざったそうに声を荒げた様子に、くるみは、義兄の態度は絶対におかしいと思った。
いつもの迅兄さんなら、多少ぶっきら棒でも、こんな乱暴な話し方をするはずがないのに……
そういえば、さっきのつばさの様子だって……。
ふと、父の部屋で、しょんぼりと本に埋もれてた姿を思い出す。
苦い表情で自分に目を向けた弟と義兄の表情が頭の中で混ざり合った。そして、くるみは、
「ねぇ、つばさと何かあったの?」
「……別に」
そう答えたものの、何もなかったと言うのも、かえって白々しいような気がして、迅は、むっつりと黙り込んでしまった。
気まずい沈黙をはやし立てるかのように、くるみの傘にあたる雨の音が、やけに大きく響いて聞こえて仕方ない。
「あのね、何があったかは知らないけど、あんな口をきいてても、つばさだって、本当は迅兄さんのことが好きなのよ。だから……」
遠慮がちに、また、傘を自分に差しかけようとする義妹の声が勘にさわる。
「五月蝿いな! 放っといてくれって言ってるだろ!」
たまりかねて義妹を振りほどこうとした瞬間、
「あっ……!」
迅の腕の弾みを食って、くるみの傘が大きく空に飛ばされた。降ってくる雨粒を弾きながら、灰色の空にくるくる回るラベンダーの色が、遠ざかりながら落ちてゆく。
くるみは、驚いたように迅の方に目をやった。義妹の視線と自分の視線が交錯した時、急にひどく大人げない事をしたような気分になり、
何も知らない、くるみに当たって、どうなるっていうんだ……。
迅は、急いで地面に落ちた傘を拾いに行った。
その通りすぎざまに、ちらりと義妹の方に目を向けてみると、雨に濡れたまま、ぼんやりとその場に立ち尽くしているではないか。
「そんな所で濡れてないで、手に持ってる方の傘をさっさと差せよ!」
ところが、
「そんなの、いらない!」
迅が拾い上げて、差し掛けようとしたラベンダーの傘は、今度は義妹の方に拒まれてしまったのだ。
「馬鹿を言うなよ。俺じゃなくて、お前の方が風邪をひくぞ」
「お互い様よ。迅兄さんが、私から傘を受け取ってくれないなら、私だって、そんな物は差さないんだから!」
口を膨らせて、睨みつけてくる少女に呆れたような目を向ける。
「くるみに傘を借りたって、俺にはいつ返せるか、わからないんだ」
「返すのなんて、いつだって、いいわよ」
「俺は嫌だな。借りた物は必ず返す主義だから」
「なら、きちんと後で返しに来てよ!」
「それができないから、傘なんていらないって言ってるんだろ!」
堂々巡りの舌戦を続けているうちに、雨足はさらに強まってきた。
これ以上、雨の下に晒されていると、二人とも無駄にずぶ濡れになってしまう。
地面を打つ雨粒が、大きく跳ね上がり靴の中にまで冷たい感触が流れ込んできた時、
“どだい、口では、この娘に勝つ見込みはないのか”
迅は短く息を吐いた。そして、“面倒臭い”とばかりに、くるみの右手を強引に自分の方へ引っ張った。
「あっ」
顔を赤らめた少女に、無理矢理ラベンダー色の傘を握らせ、それと交換に彼女が手に持っていた、予備の傘を奪い取る。
「これを借りてゆけばいいんだろ。借りるよ。借りるから、お前もその傘を差して、さっさと家に帰れ! そして、もう俺の後についてくるな!」
……が、
「駄目」
義妹は、行こうとする迅の上着の裾を握って離そうとしない。
「くるみ……いい加減にしてくれ。その手を離せ」
「嫌、離さない」
「くるみっ!」
「だって、この手を離してしまったら、迅兄さんは、いつ、こちらへ戻って来るかわからないじゃない!」
それに……と、くるみは、大きな瞳で義兄を見据え、
「迅兄さんは、メールしたって返事もくれないし、電話にだって、ちっとも出てくれないんだもん」
「……」
どこかで誰かに自分が言った、同じような台詞。
迅の胸に、突然心もたないような気持ちが湧きあがってきた。
あれは……
“俺は坂下にもう電話はしないし、メールもしない。例え、坂下がかけてきても電話にも出ないし、メールに返信もしない”
昨日、坂下 由貴と駅の入り口で別れた時に言った自分のそっけない台詞を思い出し、くるみに、それを責められているような気がして、迅は、一瞬、言葉を失ってしまった。
“迅兄さんが帰ってこないと、僕もくるみも困るんだ”
“僕がいなくなっちゃうと、くるみが一人になってしまうから”
父の部屋で言い争った時のつばさの声が、脳裏に焼きついて離れない。雨と一緒に吹き付けてくる冷たく湿った風が、そんな迅の気持ちを更に心地悪くした。
もう、仕方がないか。
やがて、迅は意を決したように膝を少しかがめ、義妹の目をまっすぐに見据えた。
茶色の瞳が、少し怯えたように視線を返してくる。
「くるみからの電話には、必ず出るから」
「え?」
「くるみの電話には、必ず出る。だから、もう、俺を行かせてくれ」
義兄の思いも寄らぬ台詞に、一瞬、頭の中が真っ白になる。
「え? え……ええっ、今、何って言ったの」
くるみは、思わず握り締めていた迅の服の裾の手を離してしまった。
その一瞬の隙をついて、迅は背を向けると、そそくさと足早に駅への道を歩いていってしまった。
弟の散々の酷評にも負けず、たとえ、ちっとも相手にしてくれなくても憧れて続けてきた義兄の後ろ姿をぼんやりと見送る。
ぽうっと頭に血がのぼり、天にも昇ってしまいそうな気分になる。
だが、迅が遠ざかる寸前に、はっと気づいて、くるみは、
「迅兄さん、その傘、差して行って! それにさっきの言葉、絶対に絶対に忘れないでね。”約束よ!”」
もてる限りの声をあげて、そう言った。
迅の背中が、その声にぴくりと揺れた。
一瞬の戸惑ったかのような間合い。
……が、無言で重装備なリュックを背負いなおすと、おもむろに手にした傘を差し、迅は、そのまま振り向きもせずに雨の中を歩いていった。
そんな義兄の後姿が視界から消えてしまうまで、くるみはそれを見つめ続けていた。




