第47話 天照大神
”くるみが一人になっちゃうんだ”
つばさの言葉に迅が表情を変えた。
その一瞬に、ゆるんだ咽喉もとの手を払いのけ、つばさは義兄を押しのけて、後ろに回り込んだ。
ばさばさと本棚の上から、色々な種類の本が落ちてくる。
「あ~あ、これで、また、お父さんに叱られる。迅兄さん、ひどいよ。あの人の説教が長いのは、よく知ってるくせに」
無言で放心したように、迅は床に散らばった本を眺めている。
そんな義兄の様子を“大丈夫……かな”と、つばさは、どきどきしながら覗ってみた。
先ほどからの“ぎらぎらした感じ”は、もうなかったけれども、実のところは、よく分らない。……が、“とりあえず、言いたい事は言っておこう”と腹をくくり、
「確かにさ……僕にだって、時々、自分の周りにある物がつまらなく思える事があるんだけど、それでも自分が一番だとか、理解者がいないなんて思う考えは自惚れだ。バイオリンだって、そう。どんなに上手く弾いても“音楽の神様”に届く人間なんて誰もいやしない。けれども、他の人よりずっと、それに近づきやすい位置にいられるのが、ギフテッドなのだとしたら、それは、幸せな事じゃないの。その才能が神様から贈られたギフトだっていうなら、僕は有難く受け取っとくよ」
すると、ようやく、顔をあげた迅が、
「幸せで良かったじゃないか。残念ながら、俺はお前ほど図太くはなれないし、こんな場所で問答するのももう御免だ。だから、お前は好きに神の領域を目指すがいいさ」
ぷいとそっぽを向いて、部屋を出てゆこうとする背中を追って、つばさが言う。
「……で、エベレストに死ににゆくわけ」
「何度言ったらわかるんだ。そんな気持ちは毛頭ないよ」
「同じだよ。別にそうなっても構わないって迅兄さんは思ってない? そんなんじゃ、登頂どころか帰ってくる事なんて絶対にできやしないよ」
「俺がどうなったって、別にお前の知った事じゃないだろ!」
「迅兄さんが帰ってこないと、僕もくるみも困るんだ」
「何で? 関係ないだろ」
「……だって、この家が大嫌いなのに、まだ、僕たちは子供で、僕たちだけじゃ何もできなくて……」
一瞬、迅は眉をひそめる。
「俺はお前たちの保護者じゃない」
「そんな気持ちはないけれど、やっぱり、いてくれないと駄目なんだ」
「……馬鹿馬鹿しい。こんな話なら、ここに来るんじゃなかった。もう、俺は行く!」
「ちゃんと、ここへ帰ってこれる?」
「二度と帰ってくるものか!」
「迅兄さん!」
出てゆこうとする迅の名を、つばさは、もう一度、呼んでみた。……が、それに振り向く事もなく、迅は背中ごしに言った。
「藤野の件は、レポートにでもして昭に送っておくよ。それ以上は、もう、俺に何もさせないでくれ。彼女を“自首に追い込んだ”禊”とやらはそれで済ませられるんだろ。後は、“天才少年”のお前なら上手くやれるさ。俺の過去を調べ上げた手腕をせいぜい発揮するんだな」
激しく閉じられた扉の音とともに、部屋を出て行ってしまった迅。
父の部屋に散乱した本を、かき集めながら、つばさは、小さくため息をついた。
「あ~あ、これは、早く片付けないと、本当にお父さんにこっぴどく叱られる」
集めた本を一冊づつ、山にしながら、ぽつりと呟く。
駄目だ。あの人はもう、僕の手には負えないよ……
そう思うと何だかひどく哀しい気分になってきた。じわりと瞼が熱くなり、べそをかきながら目をこすっていると、
「つばさっ、今、迅兄さんがすごい勢いで家から出ていったけど、一体、どうしちゃったのっ!」
血相変えて父の部屋に飛び込んできたのは、姉のくるみだった。
「くるみ? 今日は、学校へ行ってるんじゃ……」
本棚の下で、崩れ落ちた本の隙間に入り込んでしまっている弟の姿に、くるみは、きょとんと目を瞬かせ、
「今日はテストだから、早く帰るって言ってたでしょ。つばさ……あんた、何やってんの。下の部屋にいないと思ったら、お父さんの部屋なんかで、こんなに本を散らかして……それより、迅兄さんのことっ!」
その時、窓ガラスをぱらぱらと鳴らしていた雨の音が、突然、強く響きだした。そして、北風を伴い吹き付けてくる横殴りの雨に、穏やかだった外の景色が、寒々とした色に変わりだした。
「雨……」
雨の音が邪魔だと言った義兄の言葉が、つばさの胸に苦々しく混みあがってくる。事の顛末を知らない、くるみは弟の視線の先を不審げに目で追ってから、ぽつりと呟いた。
「迅兄さん、傘を持ってなかったわ」
心配そうな姉の横顔。
ところが、それを見るうちに、不意につばさの脳裏に浮かんだ、一つの言葉。
“天照大神”
その瞬間、この少年は、全く心には不本意な台詞を口に出してしまうのだ。
「くるみっ、迅兄さんの後を追いかけたら! 走ればまだ追いつける」
「えっ……」
天地がひっくり返っても言いそうにない、弟の言葉に驚き、彼の顔をまじまじと見つめてみる。
「つばさ、どうしちゃったの」
弟は、それきり口を噤んでしまった。けれども、くるみはさらりと笑って、答えを返した。
「うん。行ってくるねっ!」
脱兎の勢いで、くるみが階段を駆け下りてゆく。その足音が遠ざかって行くのと、窓の外から聞こえる雨音を聞きながら、つばさは、
「ちぇっ、今回は特別なんだからな」
と、つまらなそうに呟いた。そして、散らばった本を片付けながら、さらに言葉を上塗りにした。
「本当に本当に、これは特別なんだからな」




