第44話 暴露の前哨戦
11月24日、土曜日。つばさと迅が、山根 昭を救急病院に見舞った翌日の闇雲家。
つばさの部屋。
「じゃ、私は学校へ行ってくるから。つばさも午後から授業でしょ? ちゃんと、遅れないように家を出るのよ。二度寝なんかはもっての他なんだからね」
はいはいと、空で返事をしながら、大あくびをしている弟を、闇雲くるみは、大丈夫かなと疑いの眼で見据えた。
小うるさいと思われても、そのくらいに言っておくのが朝が苦手なつばさにはちょうどいい。だが、通学バックを肩にかけ玄関に向かおうとした時、
「そういえば、迅兄さんってまだ、東京にいるのかしら」
不意に問いかけてきた姉に、つばさはちょっと困ったような顔をした。
「さあ……」
「さあって、昨日、あんたが大見得きってた“迅兄さんがどこにいても、僕には居場所がわかるんだから”って台詞はなんだったのよ」
「えっと、あれは……今は無効……かなっ」
「無効って、どういうこと? わけがわかんない! もう、私は学校へ行くからっ」
ぷんと口を膨らませて部屋を出て行った、くるみに、つばさは苦い笑いを浮かべた。
甘かった。こんなに早く気づかれるなんて……スナフキンの奴、僕が仕掛けていたGPSのサーチを拒否設定にしやがった。もう少しの間なら、あの人の居場所を探れると思ってたのに。
にしても、今日の午前に家に来てと言ったものの、迅は本当にやってくるんだろうか。
そう思うと何だか胸がどきどきしてきた。来たら、僕は、あの人がひた隠していた秘密を暴露しなきゃなんない。と言っても、僕には何の義理も責任もないのだけれど、このまま、迅兄さんが風来坊なスナフキンでいるっていうのには、やっぱり我慢がならない。
そうこうしているうちに、壁掛け時計から、午前8時を告げるメロディーが流れ出した。
「さてと……二度寝は駄目だと、くるみが叱るし、迅兄さんが来るまでどうしてようかな」
手持ち無沙汰に、壁に立てかけてあったバイオリンに手を伸ばす。
「えっと、こんな感じだったっけ?」
昭さんのバイオリンソナタ
つばさが、毒物混入事件が起こる前に、たった一度だけ聴いた山根 昭のオリジナル曲。
かなり、おぼろげかもしれないと、思っていた記憶。けれども、バイオリンの弓を動かした瞬間に、この天才少年は、無意識のうちに習得してしまった正確な楽譜を脳裏の奥から引っ張りだしてきてしまうのだ。
伸びやかな旋律の第1楽章。ゆったりとした曲調の第2楽章。そして、超絶技巧を駆使して作られた第3楽章。
昭さんらしくもなく着飾った曲調の、この第3楽章が、僕は気に入らない。
頭の中でいらない音符を削り取る。そう、そう、こんな感じと、オリジナルより、より柔らかな旋律を作り出してゆく。義兄の訪問の事など、すっかり忘れて、つばさは、そんな作業に没頭してしまうのだった。
* *
「まったく、呼び鈴を押しても出てこない上に、鍵さえかけていない」
闇雲家の玄関の扉を開いて、桐沢 迅は、セキュリティの酷さに呆れてしまった。そこそこ目立つ邸宅なのに、無用心この上なく、泥棒が狙うには好都合の家ではないか。
眉をしかめながら、玄関に入ったとたん、聴こえてきた流れるような旋律。
バイオリン……つばさが弾いているんだな。
一瞬、どこか違う場所に迷いこんでしまったような感覚を覚える。
クラッシックにまるで薀蓄のない、迅でさえも聞き入ってしまう澱みのない音色。
上手いというだけではなく、人の心を魅了する何かがある。努力だけでは、ぜったいに追いつけないと、山根 昭がその才能に嫉妬した理由が今更ながらにわかるような気がする。
ギフテッド……か。
廊下の向こうから響いてくる音色に導かれるように、玄関を上がり、その方向へ歩き出す。そして、つばさの部屋の前にたどり着くと、迅は扉のノブに手をかけた。
扉を開いた義兄に気づきもしないで、つばさは、バイオリンソナタの編曲に没頭していた。強くノックされた扉の音に、
「迅兄さん? いつの間に来てたの。全然、気づかなかったよ」
「玄関の呼び鈴も鳴らしたし、扉も何度もノックした。お前、無用心すぎるぞ。もし、俺が泥棒だったとしても、ちっとも気づかなかったんじゃないのか」
そんな事はないでしょと、心外そうな目を向けてきた、つばさに、
「……で、話って何なんだ。今日これから、俺は東京を離れるんだ。だから、てっとり早く、済ませてもらいたいんだが」
「えーと、それは難しいかも」
つばさは、義兄が肩にしょってきた、一般人が持つにはでかすぎるリュックにちらりと目をやり、
「その荷物、とりあえず、下に下ろしたら? ここじゃ、ちょっと話づらいんだ。だから、二階のお父さんの部屋に来てくれない? 迅兄さんに見てもらいたい物もそこに置いてある事だし」
思わせぶりな台詞に、迅は眉をひそめた。
* *
闇雲家の二階にある父の部屋は、両親が離婚する前の小学生時代の迅にとって、ちょっとした禁断の場所でもあった。10年来も訪れなかった場所に入ったとたん、迅は、時が逆戻ってしまったようなおかしな感覚を覚えた。
書斎も兼ねた父の部屋は、四方八方の壁が書物で覆われていて、好奇心旺盛な小学生の頃の迅は、ここに入り込んで専門書などを引っ張り出し、父に酷く叱られたものだった。
今でも、この部屋に入るのは、少し気がひける。
涼しい顔で、父の机の引き出しなどを開けている義弟を横目で見やりながら、迅は、
「勝手にこの部屋の物をいじったりしたら、あの人に叱れるんじゃないのか」
「あ、やっぱり、迅兄さんもそうだったの。だから、お父さんがいる時には、僕は、この部屋には絶対に入らないよ。といっても、あの人、ほとんど家にいないけどね」
「……家に帰ってこないのか」
「あんまりね。どっかに別宅作ってるって噂だよ。若い彼女がいるみたいで」
迅は、さばさばと言ってのける義弟に、少し顔をしかめる。
まあ、俺の母親と離婚した後の再婚相手 ― 後のつばさたちの母 ― を病気で亡くした父は独身なんだから、別に誰と付き合おうと文句はいえないが……まだ、未成年のつばさやくるみを放ったらかしてっていうのは、どうもな……。
すると、つばさは、突然、話題を変えてきた。
「ところで、昭さんから電話はあったの」
「電話?」
「ほら、香織さんの件で」
「昭からも電話はないし、あの件は、なかったものだと俺は思ってるんだけど」
「はあっ? なら、迅兄さんは香織さんを見捨てる気なの。一度、東京を離れたら、迅兄さんはなかなか、こちらへは帰ってこないし、エベレストでも超難関の南西壁を登って行った日にゃ、永久にさようならって可能性がかなり高いじゃん」
「おい、“永久にさようなら”ってなぁ」
「だって、そうなったら、すっごく後味が悪いと思わない? どうせなら、あれだけ辛辣に香織さんを自首に追い込んだ“禊”ってもんをやっておいた方が、迅兄さんだってすっきりと余生を山に捧げれるってもんじゃないの」
「つばさ、お前な……そんなに俺に死んで欲しいわけ?」
「えっと……僕は別に」
白々と答える義弟に、肩をすくめ、迅は、多少語気を強めて言った。
「にしても、どうして、お前はそこまで、藤野 香織を擁護したがるんだ。それって、藤野になついて彼女に憧れてた、くるみに気を使ってるからなんだろ」
一瞬、口ごもってしまった義弟に、案の定かと、迅は少し優勢な笑みを浮かべた。
「それもあるけど、リバールが……」
「リバール? ……ああ、ウィーンから来たとかいう、お偉い音楽の先生の事か」
「そう。そのリバールが、今回の毒物混入事件で昭さんを弟子にできなかった替わりに、僕をって」
迅は、なるほどなと合点がいってしまった。
元々、藤野 香織が手に入れていたリバールの弟子の座を、山根 昭に奪われそうになり、それが、彼女が今回の毒物混入事件を起こしてしまった動機となった。ところが、山根 昭は、事件の後遺症でバイオリンを弾くには、相当な時間がかかりそうだ。
わざわざ、日本まで優秀な弟子を探しに来たリバールにとっては、このまま無駄足で帰国するのももったいない。そんな状況の時に、IQ160以上の天才児、闇雲つばさが、目に止まらぬわけがないではないか。
「もともと、リバールの弟子の座を巡って起きた毒物混入事件のおこぼれみたいな形で、自分が弟子に選ばれるのは、藤野 香織に対して何だか後ろめたい。だから、お前は彼女をかばおうとしてるんだな」
つばさの答えを待たずに、迅は、さらに問う。
「リバールと一緒に、ウィーンに行く気か」
だが、つばさは、
「行かないよ」
「何で? 藤野や昭に気を使うのも分るが、これは将来的に国際的なバイオリニストになるチャンスじゃないか。お前だって、いつまでも、T大にいる気なんてないんだろ」
「いつまでもだなんて、そんな気持ちは毛頭ないよ。だから、せめて、あと4年」
「4年? また、くるみか」
苦々しい目つきで、自分を見やる義兄。
「そう。くるみが高校を卒業したら、僕は彼女と一緒へ海外へ行く。ああ見えても、くるみは勉強はできる方だし、語学だって得意なんだ。迅兄さんなら分かると思うけど、こんな家にくるみを一人おいて、僕は海外になんて絶対に行けない。それに、昭さんのバイオリンソナタを聞くって約束もあるしね」
「……にしても、4年は長すぎる。リバールだって、そんなには待ってくれないぞ」
「リバールなんて、全然、当てにしてないし。4年後っていっても、僕はまだ、17歳だ。海外のコンクールでさくっと優勝しちまえば、留学の口なんて、いくらでも向こうから飛び込んでくるんだから」
大胆不敵な発言に、迅は、短くため息をついた。
「本当に言いたい放題だな。これだから、天才少年ってやつは扱いに困るんだ」
ところが、つばさは、
「あんたにそんな台詞、言われたくないんだけど」
「……」
突然、態度を硬くした義弟に不審げな視線を送る。そんな迅の目前で、つばさは、父の机の隅に置かれていた旧式のパソコンの電源を入れた。
「これ、何だかわかる」
机に置いておいたCDROMを迅に掲げて見せてから、パソコンにそれを入れる。本体がCDROMを読み込む音を確認してから、つばさは言った。
「実は、最初はパスワードに邪魔されて、僕はこのCDROMの中身を見る事ができなかった。でも、色々と兄さんの事を調べているうちに、そのパスワードが何だか分ってしまったんだよ」
「俺の事を調べたって? どうして、そんな事を……」
義兄の言葉を、もうちょっと待ってと遮ってから、つばさは、キーボードにパスワードの文字を打ち込んだ。そして、パソコンの画面にファイル名が現れると、マウスをクリックし、大きく深呼吸してから、表示された文章を声にして読み上げだした。
「闇雲 迅(9)君に関する少年調査書。闇雲 迅……父が理事長を務めるT大付属小学校、3年生。友人関係は孤立する傾向あり。公安委員会への不正アクセス行為で補導後は、登校を拒否……」
凍りつくような沈黙。その直後に、
「止めろ!」
迅が叫んだ。
「つばさ、お前、そのCDROMをどこで手に入れた? それに、何で、そんな余計な真似をするんだ!」
「だって、“毒物混入事件”での推理劇の中で、香織さんに過去に触れられた時の、迅兄さんの態度は明らかにおかしかった。普段は、冷静沈着を絵に描いたような兄さんが、あんなに取り乱すなんて、あの場に居合わせた人間なら誰しもその理由を知りたくなるに決まってるじゃないか」
いかにも、それらしい理由をつけてはみたが、結局は、好奇心と義兄への対抗心が一番だったのだ。けれども、そんな事には触れずに、つばさは、
「……で、熱を出した時に、主治医の佐久間先生に、それとなく、兄さんの事を聞いてみて、お父さんの部屋を色々と探しているうちに、僕はこのCDROMを見つけてしまったんだよ」
「あの医者……、ろくな奴じゃない」
「あっと、誤解しないで。根堀り葉堀り聞きたがったのは、僕の方なんだ。佐久間先生は、患者の秘密は守らなきゃって、頑張ってたんだけどねー、でも、迅兄さんが5年間も長野の“児童自立支援施設”から出られなかったのは、どうしてだったかっていう理由っていうのが……」
澱みのない調子で、しゃべり続ける義弟を、迅は斜めに睨めつけ、
「お前……どのくらいまで、知ってる?」
つばさは、その答えを飄々と言ってのける。
「ほぼ全部」
しばらくの沈黙。
「ならば、聞かせてもらおうじゃないか。お前が調べ上げた、俺の過去ってやつを」
何か怖いぞ。つばさは一瞬、口を閉ざし、義兄の顔を伺ってみた。表面上は冷静を装ってはいるが、ぴりぴりした雰囲気が体中にみなぎっている。でも、もう後になんて引けるもんか。
つばさは、義兄を真っ直ぐに見据え、真実を話し出した。




