第43話 再会
迅と由貴。
戸惑ったような瞳を自分の方へ向けてくる女子大生に、迅は、彼女と同じような視線を返す。
そのまま、しばらくの間、二人はその状態から抜け出す事ができなかった。 お互いに歩み寄ってゆきたい気持ちはあるものの、その一歩を踏み出す切っ掛けをつかむ事ができないのだ。
ロビーの出入り口で、そんな“超”苛立つ二人の様子を眺めていた、つばさは、へえと意外そうな呟きを残すと、くるりと背を向け、その場所から出ていった。
「つばさ君に電話をもらって……居場所を教えてもらったの」
最初にその不自然な均衡を破ったのは、桐沢 迅ではなく、坂下 由貴の方だった。
「……とにかく、外へ出ようか」
迅がそう言った。
* *
11月も終わりになると、夕暮れ前の風はさすがに肌に冷たい。
山根 昭が入院している救急病院のロビーを出た迅と由貴は、木枯らしの吹く病院前の公園を駅に向けて歩いていた。
一言二言、挨拶程度の言葉を交わしたきり、また黙り込み、先を行ってしまう迅の後を由貴は追ったが、意を決して家を出てきたのに駅まで歩いただけで、結局そこで別れてしまうのかと気持ちは沈んでいった。
……が、公園の出口に近い東屋の前に差し掛かった時、
「そういえば、これ」
突然、後ろを振り返った迅が、上着のポケットから白い携帯電話を取り出したのだ。
“毒物混入事件”で別件逮捕の憂き目にあう直前に、迅に渡してくれと由貴がつばさに託した携帯電話。それを受け取ってから、
「ありがとう。迅さんには本当にお世話になってしまって、ずっとお礼を言わなきゃて思ってた」
「まさか、今日は、そのために来たのか。そんな必要なかったのに」
「そうしないと、義兄さんとはもう会えないよって、つばさ君が……」
また、あいつかと、迅は顔をしかめ、
「……で、大学の方は大丈夫なの?」
迅は、由貴が“毒物混入事件”の容疑者だと疑われた事や、T大で万引を繰り返してしまった事を気にかけていた。その責任の一端は、彼女の万引依存症のリカバリーアドバイザーを安易に引き受けたものの中途半端なままに、山に篭ってしまった自分にもあったのだ。
それだから、
「私ね、T大は辞めようって思ってるの」
その言葉に、珍しく声を荒らげて言った。
「それは……ほとんど大学に行っていない俺がどうのこうの言える立場じゃないけれど、薬剤師になりたいんじゃなかったのか。辞めて、坂下はどうする気なんだ」
「違う薬学部の……家を出れる地方の大学の編入試験を受けて、そちらに移ろうかと思ってるの。今回の事件で世間体も悪くなったし、両親も私に家にいられるよりその方がいいんだって。それに、T大の名前は私には負担でしかなかった。だから、家を出て、違う大学で、もう一度自分の生活を立て直すの。そこでちゃんと精神科のお医者さんにカウンセラーも受けたいと思ってる。色々な事があって、沢山の人に迷惑をかけて、私はいつも人に甘えてばかり……でも、いつまでも、そんなままでいるわけにはいかないでしょ」
今までの彼女からは想像もできない台詞に、迅は、
「一人暮らしなんてした事がないんだろ。本当にそれで大丈夫なのか。カウンセラーを受けるといったって、そこら辺りの町の精神科医なんて、ろくなもんじゃないんだぞ」
無言で見返してきた、由貴の瞳がおかしげに笑っている。それに気づいた迅は、
「何だよ」
「だって、迅さんは私と二つしか違わないのに、まるで、私の保護者みたいな口ぶりで……心配しなくても、何とかなるわよ。それに、さすがに今回はまずいと思ったのか、医者の父がきちんとした精神科医を紹介するって言ってるから」
その台詞からして、由貴と彼女の両親の関係は最悪なわけでもないようだ。変に気をまわす必要はなかったのかと、少し肩透かしを食らったような気分で、迅は再び駅に向かっての道を歩き出した。
それに遅れじと、早足で自分の隣についてくる女子大生に向かって言う。
「俺は今になって、後悔してるんだ。生半かな興味で、坂下のリカバリーアドバイザー気取りになって、かえって、みんなを混乱させてしまったって」
「そんな事ないわ。迅さんには、無理矢理、喫茶店で話を聞いてもらったり、毎日午後2時20分に携帯に電話をかけてもらったり、本当に面倒で嫌な思いをさせた。謝らなきゃならないのは、私の方よ」
「いや、俺は別に……」
そう言ってから、ふと、戸惑った様子で迅は隣に目を向けた。
午後2時20分に彼女に電話をかける事。喫茶店で話す事
それが迷惑だったとは、今でも思えない。当たり前のようにその時間に携帯に指が動いて、声をかけられるままに喫茶店に入っただけ……。
嫌……でもなかった。
何となく、その思いを口に出すのが憚られるような気がして、駅の出入り口まで来た時、迅は何時にもまして、ぶっきらぼうな声で言った。
「坂下は地下鉄で帰るんだろ。藤野と昭の事も色々と聞きたいんだろうけど、その事はつばさにでも聞いてくれよ。あいつの方が俺より、尾びれ背びれもくっつけて、色々と教えてくれるだろうから」
「迅さんは地下鉄には乗らないの」
「俺は歩いて帰るよ」
行ってしまおうとする迅を由貴がもう一度呼び止める。
「迅さん、新しい大学が決まったら電話してもいい?」
だが、それに対する答えは、
「俺は坂下にもう電話はしないし、メールもしない。例え、坂下がかけてきても電話にも出ないし、メールに返信もしない」
「……」
「つばさに言われたんだ。俺が余計な口を出しをしたばかりに、坂下には“桐沢 迅 依存症”ができてしまったんだと。実際、俺もそう思うよ。坂下が家を出て一人で頑張ろうとしているのなら、それはそれで良かったと思う。邪魔をするわけにはいかないし、俺もこれから忙しくなりそうなんだ。だから、もう、これ以上、お互いに関わりあうのは止めにしよう」
迅が忙しくなると言った言葉には、思い当たる節があった。由貴は、一瞬、口ごもったが、
「エベレストに行くの?」
「うん」
「たった一人で?」
「まさか。標高6400mのベースキャンプまではスタッフと一緒だよ。単独で行くのは、そこから、8848mの頂上までだ。その前には、チベット側からの入山許可もとる必要があるし、高度順応のトレーニングで、他の山にも登らなきゃならない。気候や資金面の事だって色々と考える事があって、エベレストに行くのは早くても来年の夏になると思う」
「……生きて帰って来れるの?」
由貴が、声を落として言った言葉を迅は、一笑に付した。
「みんな、何か勘違いしてる。危なければ登山は中止にするし、わざわざ、危険な場所に近づいたりもしない。ただ、高山病にやられたり、クレバスに落ち込んだり、雪崩に遭った日には、終わりだけど。登頂に成功する確率は5%ってところかな」
口ごもってしまった女子大生。
「例え、頂上に立つ事ができなくても無事に帰ってこれたら、大学には戻ってくるつもりだよ。でも、その頃には坂下は別の大学だ。もう会うこともないだろうけど……だけど、お互いにうまくやってゆけるといいよな」
じゃ、ここでと手を振って歩いて行ってしまった迅。遠ざかってゆく、その後姿を見つめながら、由貴は小さくため息をもらした。
もう、会うこともないだろう……か。
少し泣きたいような気分になる。
けれども、はっきりと、そう言われてしまった方が良かったようにも思えて、きゅっと唇をかみしめ、迅の行った方向に背を向けると由貴は駅の階段を足早に降りていった。




