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第42話 不起訴処分の三つの要件

 午後3時30分。


 闇雲つばさが、山根 昭の入院する病室を訪れてから、すでに1時間ほどが経過していた。

 昭から差し出された菓子折りの物色を一通り終えた、つばさは、義兄のはやてと昭の話を横に聞きながら、空っぽだった胃袋を甘いお菓子で満たす事に専念していた。

 だが、


「……香織が“毒物混入事件”の犯人として、正式に起訴となったら、次は裁判って事になるんだろうな」

「まあ、そうだろうな」


 昭と迅のその会話が、この少年の“つい首をつっこみたくなる”性分をまた刺激してしまったのだ。


「あのさ……僕、ちょっと調べてみたんだけど、刑事事件を取り調べる検察官が、その事件を裁判にまでは持ち出さない“不起訴処分”にする場合っていうのがあるみたいだね」


 義弟の言葉に、迅は眉をひそめ、


「……また、余計なことを言いだしやがった。つばさ、お前が言いたいのは、こういう事だろ? 検察官が犯罪の容疑者を不起訴処分にするには、次の三つの要件がある。一つは、犯罪を立証する証拠が不十分な場合の“嫌疑不十分”もう一つは、年齢や境遇、犯罪の軽重、情状などを考慮した場合の“起訴猶予”そして、残りは、犯人に精神上の問題があって、その責任能力が問えない場合の“心神喪失”……で、」

と、その時、


「それだよ、それ! 迅兄さんなら、香織さんを不起訴処分にする手助けができるんじゃないの」


「つばさ……お前な」


 えらく不機嫌な表情をした義兄に、その義弟は一瞬、たじろぐ。


「 “袋小路にも抜け道はあるんだ。迅兄さんはそれを知ってる”か? 藤野 香織が、警察に出頭する前にお前が彼女に打ったメール。あれは、その事を言ってたんだな。繰り返すようだが、何でわざわざ、自分が挙げた犯人の手助けを俺がしなきゃなんないんだよ。言っておくが、藤野の場合は“不起訴処分”を得るのはまず無理だし、それに、彼女には国会議員とかのお偉い親父さんが、ついてるんだろ。外野がわざわざ口を挟まなくても、その親父さんが、超優秀な弁護士を雇って、彼女に有利な方向にこの場を持ってゆくだろうよ」


 すると、山根 昭が腑に落ちない様子で、二人の会話に割り込んできた。


「僕には、よく分からないんだけど……それって彼女の裁判に関わる事なのか。なら、僕にも関係がある話なんだ。だから、もっと、きちんと説明してくれよ」


 気が乗らないのか、迅はふて腐れ気味に昭のベッドの隅に腰を下ろした。しばらく沈黙し、それから、元同級生の方向に目をやってから、やっと重い口を開いた。


「分別強迫症」


「……?」


「特にそういう病名があるってわけじゃないんだが、不安や欲望に押しつぶされそうな人間の幾人かは、時にある一つの行動に異常なほどの拘りを見せる事がある。昭、お前も知っての通り、藤野 香織のゴミの分別ぶりの細かさは、あまりにも常軌を逸していた。あれは精神学的に言わせれば、立派な病気だよ。あの“毒物混入事件”が起きた時に、俺の頭には、ふとその事が思い浮かんできたんだ。彼女はいつも、怯えていたんじゃないかな。“山根 昭に明日にでも追い抜かされて、それきり、自分はおいてゆかれる”って。その不安と、尊敬していたリバールの弟子の座をお前に奪われた事が引き金になって、彼女はあんな馬鹿げた事件を起こしてしまったんじゃないんだろうか」


「でも……それが、香織の裁判と何の関係が……」

 と言った瞬間に、昭ははっと表情を変えて、


「 “心神喪失”か……」


 その言葉を口から漏らした。すると、発言の順番を待ちかねていたように、つばさが、


「そうなんだよ。検察官が、“毒物混入事件”の取調べをする際に、“心神喪失”の要件が当てはまるかもしれないって…… “優秀なT大の精神科医志望の医学生”の迅兄さんが、国会議員推薦の“超優秀な弁護士”にその話を口添えしたとしたら?」


「そうか! 例え、起訴された場合にでも、“心神喪失”の件で押してゆけば、香織を無罪にする事ができるかもしれない。迅! 僕からもお願いするよ。頼む、香織の弁護士に会って、その事を伝えてくれよ」


 いつになく強い口調の元同級生に、

「昭、それって、被害者になったお前が言うべき台詞か? そこまで言うなら、いっそ、お前が証言台に立って藤野 香織の弁護をしてみたらどうなんだ」


 怪訝な顔をした元同級生を冷ややかに眺めながら、迅は言葉を続ける。


「言っておくが、“心神喪失”っていうのは、精神の障害によって、責任能力が完全になくなっている状態を言うんだ。藤野香織の場合は、責任能力が完全になくなっているわけではないから、それは部分的に責任能力がなくなっている“心神耗弱”と判断される。“心神耗弱”では、罪の減刑はされても、不起訴や無罪を得るのは難しい。それに、あの時、彼女を自首するように仕向けた俺が、今度は彼女の弁護の手助けをするなんて、胡散臭がられるだけだろ。わざわざ骨を折ってまで、藤野の弁護士に会いに行く気持ちなんて、俺にはさらさらないから」


「段取りは僕がつけるから! 被害者の僕が話があるって持ち掛けていったら、彼女の弁護士だって、邪険に扱うわけにはゆかないさ。……それに、例え、減刑だけに留まっても、これは香織側にとって悪い話じゃないんだ。だから、迅、力を貸してくれよ。僕の一生のお願いだ」


 むっつりと黙り込んでしまった義兄を、物凄く意地の悪い瞳で見据えながら、


「迅兄さん、一生のお願いだって」


 つばさは、昭の言葉を繰り返した。


 その時、病室の扉が開いて、若い看護婦が中に入ってきた。


「山根さん、検温の時間ですよ。あ、桐沢さん、まだ、いらしたんですね」

 はにかみ笑顔で、もの凄く親愛に満ちた目を迅に向けた看護婦に、


 おい、こいつもかよ……。


 つばさは、むっと不満げに口を尖らした。姉のくるみといい、坂下 由貴といい、この看護婦といい、こんな冷血漢で愛想がなくて風来坊なスナフキンのどこがいいんだろ。


 何か一言、悪態でもついてやろうと、口を開きかけた時、


「あら、そっちの子って、もしかしたら桐沢さんの弟さん? 何となくお顔が似てるわね。小学生かしら? 今日はお兄さんと一緒に来たの」


 つばさは、またかよと、うんざりと眉をしかめた。


 小学生呼ばわりには、もう慣れたとしても、視線を自分の方へ移してきた若い看護婦の瞳が、“カワイイ”って、気色の悪い言葉を連発してる。

 T大の女子大生たちといい、この看護婦といい、この手の女子が、彼は実は苦手でたまらない。それだから、義兄の腕を強引に引っ張った。


「迅兄さん、僕たち、もうそろそろ帰らない? 話はだいたい終わったし、昭さんだって疲れただろうから」

 すると、

「そうだな、昭、今日はこれで帰るよ」


 義弟の気持ちに同調したのか、迅はやけにすんなりと、つばさの言葉に従った。部屋の扉を開いた帰り際、


「迅、まだ、東京にはいるんだろ。香織の件は、また電話するよ。だから、よろしく頼む」


 昭の呼びかけには振り返らず、ほんの少し右手を上げてみせただけで、迅は扉の外へ出て行った。

 その後に続いた、つばさは、


「迅兄さんは、競争率が高いから止めといた方がいいよ」


 と、きょとんと目を瞬かせた看護婦に、物凄く “邪心のなさそうな”笑顔を向けてから、大急ぎで義兄の後を追いかけていった。


* *


 受付時間が終わった午後の救急病院のロビーは、薬待ちと見舞いの客がちらほらといるだけで、やけにだだっ広く、会計以外の窓口の照明が消されているせいか、うら寂しいような雰囲気を醸しだしていた。

 検査士が押す使用済みの器具を乗せたワゴンの車輪の音が、がらがらと鳴り響いている。

 ロビーの椅子に座り、坂下 由貴は、漠然とした不安と密かな望みを胸に抱きながら、入院病棟を行き来する人の姿を見ていた。


“今、会わないと、迅兄さんに会うチャンスなんて、もうないよ”


 入院病棟に続く廊下の向こうに、それらしき人影が現れる毎に、どきりと胸が音をたてる。だが、つばさの言葉にのせられて家を飛び出してきたものの、迅と会ったとしても、どう声をかけていいかがわからない。

 とりあえずは、自分にかけられた“毒物混入犯”の嫌疑を晴らしてくれたお礼を言わなければ、ならなかったし、犯人として出頭していった藤野 香織や集中治療室を出た山根 昭の様子も知りたかった。

 けれども、自分が本当に伝えたいのは、そんな事ではないはずなのだ。色々と考えすぎると、このまま椅子から立ち上がって家に帰ってしまいたくなる。

 その気持ちを心に押さえ込みながら、由貴は迅を待ち続けた。


* *


 一方、闇雲つばさは、自分をまるで無視して、二階の入院病棟から一階への階段を足早に降りていってしまう義兄の後を追いかけていた。


「迅兄さん、ちょっと待ってよ!」


 ロビーの手前で小走りにやっと追いつき、その腕に手を伸ばした時、

「もう、お前の用は終わったんだろ。なら、着いてくるな」

「ここでの用事は終わったけど、まだね、迅兄さんには、ちょっと他の話があるんだ」

「どうせ、ろくでもない話に決まってる」


 えらく、義兄は機嫌が悪い。

 半ば図星をつかれた、その雰囲気をつばさは無駄と知りつつ、お愛想笑顔で切り抜けようとする。


「なら、その話は場所を変えてっていうのはどう? 明日の午前に家に来てくんない? その時間なら、くるみも、うまい具合に学校でいないし僕も大学の授業がないんだ」


 その思わせぶりな台詞が、迅を立ち止まらせた。


「それって、くるみに聞かれちゃ困る話があるって事か」

「えーと、別に僕は構わないんだけど、迅兄さんがどうかなあって思って……。でも、僕って、おしゃべりだから、もし、兄さんが明日来てくれなかったら、きっと、そこらここらの人たちに、その話をしまくっちゃうと思うんだよなあ」


「つばさ、お前……」


 突き刺すような、その視線が怖すぎる。

 つばさは、大慌てで目線を迅から外すと、一階のロビーをきょろきょろと見渡した。そして、おっと小さく声をあげてから、その奥を指差した。


「迅兄さん、お客さんが来てるみたい。今日は、色々な人に会わなきゃならなくて、忙しいよね~。だから、僕との話はやっぱり明日にしようよ……じゃ、こっちの用事は全部終わったから、僕はこれでっ!」


「おいっ、待てよっ!」


 やけに急いでその場を去ろうとする義弟。それを止めようと、ロビーの方向に目をやった時、


「坂下……」


 迅は視界に入ってきた客の姿に、突然黙り込み、その場に立ち尽くしてしまった。


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