第41話 油断ならない奴
つばさが出ていった後に、病室にとり残された昭と迅は、少年の行動にきょとんと目を瞬かせるばかりだった。
「本っ当に、あいつの行動だけは、先が読めないな」
「でも……何だか、肝心な話がうやむやになってしまっている気がすんだけど」
迅は肩をすくめ、
「きっと、つばさがここに来た目的は、それだったんじゃないかな。俺が色々と口を出す前に、“転落事件”の事は、さっさと終わらせてしまおうって。あいつがその気なら、もう、それでもいいんじゃないのか。あの天才少年の望みは昭がバイオリンを弾きつづける事らしいから」
「それでもいいなんて……そんな事は、とても僕には言えないよ。もし、あの窓からの転落事件で、迅がつばさ君を助けてくれていなかったら、僕だって殺人未遂の容疑者として今頃は香織と同じ立場になっていた。……自分だけがやってしまった罪に何の咎めも受けずに、バイオリンを弾き続けていいわけがないじゃないか」
「藤野 香織か……」
一寸、口を噤んだ迅が、再び、声をあげようとしたその時、
「おまたせっ、えーと、何の話をしてたんだっけ?」
病室に戻ってきた、つばさは、怪訝な顔をした二人に目をやり、
「あれっ、何だか、話が他に進んじゃってた? そっか、了解!」
と、その場を軽く流そうとする。けれども、そうはいくかと、迅が、
「つばさ、本当にお前はそれでいいのか」
「え……と、それでって……」
「分かっているのに、しらばっくれるな! “転落事件”の犯人を知りながら、このままやり過ごすって事にだよ。お前は、それで、これからも普通にやってゆけるのか」
義兄の何時にも増して厳しい声音に、つばさはぐっと息を飲みこみ、やがて、ふてくされたように口を開いた。
「普通も何も……僕が知りたかったのは、僕を突き落とした“犯人”が、何故、あんな事をやったのかっていう理由だけだったんだ。それが分った今じゃ、もう、あの事件には何の興味も湧いてこないよ」
今度は昭が声を荒げた。
「自分を窓から突き落とした犯人に興味がないなんて……そんな事があるもんか! つばさ君、お願いだから君の正直な気持ちを聞かせてくれよ。そうしないと、僕の気持ちが治まらない!」
暫しの沈黙の間、つばさ、昭、迅のそれぞれが、三者三様の思いを胸に抱きながらも、それを口に出すのをためらっていた。そんな中で先陣をきったのは、やはり、一番、強腰な精神力を持った、年少者の ― つばさ ―だった。
「要するに、“犯人”は、僕が天才 ― ギフテッド ― って言われるくらいのちょっと他の人と違った能力がある事が目障りだったんでしょ……それが、あの“転落事件”の動機だったとしても、それは別段、僕にとっては驚くような理由でも何でもなかった。だって、僕の行く所には、いつも多かれ少なかれ、そんな人たちがいて、もう慣れっこになってしまっているんだから」
そして、ちらりと拗ねたような眼差しを昭に向け、
「そして、昭さんも僕が目障りだったんだね。でもさ、T大の中で、それと同じ思いを“昭さん”に持ってしまった人間がいるって事を、昭さんは、香織さんがやってしまった毒物混入事件が起こるまでは、考えてもみなかったでしょ」
「……」
「これでも僕は、T大の特待生になった時は、どんな凄い人たちがいるんだろうって、けっこうワクワクしていたんだよ。それなのに、何ぁんで、みんな、目先の事を気にするのかな。自分の周りに居る、目障りな人間を順番に消していったら、確かにT大の中では頂点に立てるかもしれないけど……それって、狭い中でバタバタしているだけの物凄く低レベルな戦いだ。そーいう馬鹿げたバトルに参戦してしまった上に、ちょっと指に麻痺が残ったくらいで、あっさりと退却しようとしている、昭さん……。 “この人は、ちょっと違う”って、思い込んでいた僕の気持ちをどうしてくれるの? 僕が許せないって言ったのは、窓から突き落とされたっていう事よりも、そういう昭さんの態度になんだ」
次につばさは、義兄の迅に目を向け、
「 “昭さんと僕がこれからも普通にやってゆけるか”だって? その質問は僕にするより昭さんにした方がいいんじゃないの。そんなのは、昭さん次第だよ。僕は自分の事を他人にどう思われようと気になんかしないし。天才児? ギフテッド? そう呼びたいなら、勝手にそう呼べばいいんだ。ただ、居なきゃいけない場所から逃げてゆくような“人”を見るのは大嫌いだ。それが、自分が認めた人間なら尚更だ」
挑戦的で、どことなく非難めいた含みのある義弟の台詞が、妙に心に引っかかる。迅が口を開こうとしたその時、
「……つばさ君、君の言葉に甘えてもいいのなら……リハビリを続けて……バイオリンが弾けるようになったとしたら、僕は、また、T大に戻ってもいいのかな……」
それを遮るように、昭が声をあげた。
遠慮がちに、それでも、その声音に精一杯に込められた彼の意思。だが、つばさはむっと口を尖らせ、
「同じ事を僕は何度も言わない」
その質問を一蹴した。
「なら……もし、僕がT大に戻ったら、君はまた、僕の弾くバイオリンソナタを聞いてくれるかい」
真っ直ぐに自分を見つめてくる青年に目を移す。その視線があまりに遣るせなくて、多少拗ねたように、つばさはこくんと頷いた。
すると、
「……ありがとう」
昭は、そう言ってから俯き、それきり言葉を失ってしまった。その態度が、つばさを慌てさせた。
いけねぇ、泣かせたのかっ!
女の子を泣かせるのはもってのほかだが、男の子? を泣かせるのは、もっとバツが悪かった。……で、とりあえず、
「あっと、僕、すごくお腹がすいてたんだ。もう、すいてすいて、死にそうなんだけどー。えーと、そこの机に美味しそうなお菓子折りがあるなー。お腹がすいたなあ」
と、情けない声で訴えてみた。
きょとんと顔をあげてから、昭は、何時ものことかと苦笑いの迅と顔を見合わせ、
「どうぞ、食べて。足りないなら、まだ他にもあるから」
「えっ、そうなの。この際だから全部いただきますっ」
がさがさと、幸せそうに菓子折りの包装紙をはがし始める。つばさが今朝から口にしたのは非常用食料の“南天のど飴”一つだけだった。こんな事って、普段では、絶対に有り得ない事なのだ。
「おっと、これは、玉華堂の“極みプリンと華マルセット”とろけるプリンと生チョコの触感がたまらないやつ~」
嬉々として“獲物”を手にとる様子に、呆れたような二人の年長者ををちらりと見て、
「そういえば、迅兄さん。さっき、僕がいない間に何か別の話が進んでなかった? “藤野 香織”がどうとかこうとか。その話、僕に遠慮なく続けて。こっちは、こっちで忙しいから」
部屋にいなかった割には、よく知ってるんだなと、胡散臭げな義兄の心を読み取ったかのように、
「ほら、僕って耳がいいから」
と、つばさは、その視線を軽くスルーし、プリンを口いっぱいにほお張った。そして、にこりと意味深とも思える笑みを義兄に送るのだ。そんな義弟の姿に、迅は訝しげに眉をひそめた。
馬鹿をやってると思えば、突然、ひどく的を射た事を言う。ユルいのか、鋭いのか……天然なのか、わざとやっているのか……
いくら義弟とはいえ、これは肝に銘じておいた方がいいのかもしれない。
“闇雲つばさ”
こいつって、本当に油断のならない奴。




