第40話 許せぬ罪
再び、沈黙した昭の体が小刻みに震えている。それに合わすかように、木枯らしに吹かれた病院の窓ガラスが、かたかたと揺れ始めた。
冷めざめとした病室の空気を一掃してしまいたい気持ちを堪えながら、迅は、無言で昭からの答を待った。
「……やっぱり、迅には、全部、見抜かれてしまっていたんだね。そう……今、思うと、僕は結局は嫉妬していたんだよ。そして、自分を飛び越えて才能を伸ばしてゆく、つばさ君は僕の心の中で、いつしか耐え難い存在になってしまっていたんだ……」
だから……と、言った後に小さく息を吐き
「僕は、その存在を消してしまいたかったのさ」
やっとそう言い切ると昭は肩を落とし、俯いまま、また黙り込んでしまった。
その時、突然、開かれた病室の扉。
「そんなに簡単に消されちゃったら、僕が困るんだけど」
山根 昭はその方向に顔を上げると、ぎょっと大きく目を見開いた。
扉口に現れた少年。相当、急いでやってきたのか、激しく息をきらしている。
「つばさ君……」
「そんな目でみないでよ。意外だったな、昭さんにそんなサスペンスな趣味があったなんて」
相変わらずの飄々とした、つばさの言いっぷりに、昭は今にも泣き出しそうな表情をしてその姿を見つめるばかりだ。
たかだか2mほどしか離れていない、山根 昭と闇雲つばさを結ぶ空間の中で、溢れ出した戸惑いとぴりぴりとした緊張感が合いまみれながら密度を増してゆく。すると、たまりかねたのか、迅が二人の間に入ってきた。
「つばさ、お前、何でここに来た? 今日は、家にいるんじゃなかったのか」
「何でって? 来ちゃ悪い? そうでもしなきゃ、迅兄さんが“僕を突き落とした昭さん”の所で、なるべく波風を立てないようにって、色々と小細工をしてしまうでしょ」
昭は、その言葉にひどくうろたえ、
「つばさ君、許してくれ! 僕は……本当に馬鹿だった。今になってこんな事を言ったって、もう遅いかもしれないが……香織に入れられた毒物のせいで左指に麻痺が残った事は……きっと、神様が僕に下した天罰だったんだ。もう、バイオリンは無理だ。バイオリンは一生、弾かない……だから、頼む。僕を許してくれ」
何とも言えない微妙な空気が、救急病院の一室に広がってゆく。
許す? ……何だよ、それ。
稀代の天才少年、闇雲つばさは、つんと口を尖らすと、
「駄目だ。絶対に許さないよ」
「つばさっ!」
義兄の叱責もまるで無視して、昭をきつい目をして睨めつけた。昭は、なす術もなく俯いたまま震えている。それから、半分消え入りそうな声音でこう言った。
「そう……許してくれなんて……そんな都合のいい頼みをつばさ君に申し出ること自体が、もう間違っているんだね。T大の中で……持てはやされ、うぬぼれた末に、僕の人間としての良識は、何処かで歪んでしまってたんだよ。結局は僕も香織と同じ過ちを犯してしまったんだ……だから、つばさ君は、このまま、僕を殺人未遂事件の犯人として警察に訴えてくれても構わないし、望むなら僕自身が出頭しても構わない。どうか、君の気の済むようにしてくれ。僕は、それにただ従うよ……」
「は? 警察? 何で僕がそんな面倒くさい事をしなきゃなんないの?」
おそろしく不機嫌な声を出した少年に、昭と迅は腑に落ちない顔をする。
「だって、僕を絶対に許さないって言ったのは、つばさ君の方じゃ……」
「実際に僕は窓からは落ちたけど、中途半端な場所で、また研究室に戻ってきちゃってるんだ。……それに訴えたりしたら、証拠とか証人とか、あと動機が何やらかんやらとか……そんな物を気にしてる時間があるなら、僕はT大周辺の美味しいスィーツの店でも探しに行くよ」
それに、僕はスナフキンに助けられた時の事なんて、思い出したくもないんだから。
「それより、昭さん!」
珍しく声を荒げた、つばさに昭はびくんと体を縮こます。
「バイオリンを一生弾かないなんて、ふざけるのも程があるよ。最初、全然動かなかった指が、今は少しは動くんでしょ? なら、もっとリハビリに勢をだせばいいじゃないか。そーいう修行をさぼろうって思ってるなら、僕は絶対に、昭さんを許さないよ!」
「つばさ君……」
「あ、そうだな。そこまで許して欲しいっていうなら、チャイコフスキー国際バイオリンコンテストか、ロン・ティボー国際音楽コンクールか、モーツアルト国際バイオリンコンクールとかで、僕よりもいい成績が出せたら……いや、ショパン国際……えっと、これはピアノか……」
まくしたてるように話し続けるうちに、相当、無理をしているのか、自分で話している内容が分らなくなってしまっている。そんな義弟を見て、迅はくすりと笑ってしまった。
つばさは尚も話し続ける。
「だって、昭さんはT大で僕が唯一認めたバイオリニストなんだからね。そう簡単にバイオリンを辞めてもらっちゃ、僕だって困ってしまうんだから」
昭は戸惑い、
「でも……つばさ君の携帯には、僕から送られたメールが残っているんだろ? それが、“転落事件”の犯人を立証する立派な証拠になるんじゃ……」
「あんな物は……」
と、言ったとたんに、つばさは、はっと顔をあげ、
「いけない、忘れてたっ。ちょっと、続きは待っててね!」
と、大急ぎで病室の外へ出て行ってしまった。
* * *
東京都の郊外、坂下医院。
「お嬢様、お電話がかかっていますよ」
坂下由貴の実家が営んでいる坂下医院の賄いの女性は、返事のない扉に向かって、またかと諦め気味なため息をついた。
警察に山根 昭への“毒物混入事件”の犯人と疑われ、T大の購買部で常習になっていた万引きの件を槍玉にあげられて、別件逮捕の憂き目にあっていた坂下 由貴は、証拠不十分で釈放されて以来、自宅の部屋に閉じこもりきりになっていた。
その後、“毒物混入犯”の自首により、由貴自身の潔白が証明されたは有難く、真犯人を突き止める過程で、おそらく桐沢 迅が相当に力を尽くしてくれたのだろうと思うと、それだけでも胸が高鳴った。
……が、それと裏腹に、犯人として出頭していった“藤野 香織”に対しては、止め処なく湧き上がってくる後ろめたいような暗い気持ちを抑えられないでいた。
あの時なら、まだ、彼女を止めれたのに……。
香織さんが、アレルギーのある昭さんに甲殻類の入った寿司を食べさせてと、私に依頼してきた時に、彼女の切羽詰った気持ちにもっと気づいてあげれば、あんな事件は起こらなかったのかもしれない……。
毒物混入事件が起こる前の由貴は、万引きの現場を香織に再び見られてしまった事や、色々と面倒な出来事が重なりすぎて、自分以外の人の気持ちを考える余裕などは、持ち合わせていなかった。その事が今となっては悔やまれてならない。
大学を休学している間に、ゼミの講習も相当に遅れてしまった。部屋の机の上にあった大学のテキストを手持ち無沙汰に開いてみる。けれども、少しも頭に入ってこない。するとその時、
再び、賄いの女性の声が響いてきた。
「お嬢様、さっきの人が電話にどうしても出てくれって、しつこいんですけど」
「留守だって言っておいて」
「電話に出るまでは、切らないって……」
一寸、口を閉ざしてから、由貴は、
「もしかして、つばさ君?」
「はあ、“闇雲つばさ”って言えば分かる……」
その直後に開かれた扉に、危うく鼻面をぶつけそうになった賄いの女性の横をすり抜けて、由貴は二階の部屋から電話が置いてある一階への階段を駆け下りていった。
「もしもしっ、つばさ君!」
「由貴さん? まだ、迅兄さんから携帯電話を返してもらっていないみたいだから、自宅に電話したんだけど、そう何度も天岩戸に引きこもってちゃ駄目じゃん。時間がないんだ。手っ取り早く用件を言うよ。とにかく急いで、今から千駄木にある救急病院に来て」
「千駄木の病院って昭さんが入院してる? ……悪いけど、私、まだお見舞いに行く勇気は……」
その由貴の言葉が終わらないうちに、苛立ったような少年の声が電話口の向こうから響いてきた。
「昭さんじゃなくて、迅兄さん! 今、あの人、病院に来てるんだ。今日のチャンスを逃したら、当分、会う事なんてできないよ。また、山に帰ってしまうし、それに、エベレストなんかに行かれた日にゃ、雪崩にあって死んじまうかも」
「……」
「迅兄さんに会いたいんでしょ? 昭さんの病室に来れないなら、僕が兄さんを上手く病院のロビーに連れ出してあげるから、由貴さんはそこで待ってて!」
分かったねと、念を押すと、由貴の返事を待ちもしないでその電話は切れてしまった。
“今日のチャンスを逃したら、迅兄さんと、会う事なんてできないよ”
つばさの言葉が、胸の奥に染み込んでくる。由貴は、再び二階への階段を駆け上がると、バッグと上着をタンスから剥ぎ取るように手にとってから、
「お嬢様? どこへ?」
賄いの女性から掛けられた声に振り向きもせず、家の外へ出て行った。




