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第3話 バイオリンソナタ

「万引き依存症ってやつか。要因は親の過度の期待、そして引き金が携帯電話。よくあるパターンの変形ってとこか」

「ちょっと、人の事を医学雑誌の症例みたいに言うのはやめてよ」

 てっきり万引きの事を責められて、おきまりの説教と上っ面の同情で場を収められるかと思いきや、ただ淡々と彼女が悪癖に至った経緯を聞くだけの迅に、由貴は少し拍子がぬけてしまった。それでも、変になだめられたり力づけられたりするよりは、ずっと気分は楽だった。

「……で、これから私にどうしろって言うの」

 きつい調子で、そう言った由貴だったが、ウェイトレスに2杯目の珈琲をオーダーしてから窓の外に目をやり、むっつりと黙り込んでしまったはやての態度に少し高飛車な言い方をし過ぎたかと後悔する。


 きっと、怒らせてしまったんだわ。この人は私の万引きを止めてくれた上に、話まで聞いてくれているのに。


 だが、迅の口から出た台詞は意外なものだった。

「それは直さなきゃな」

「……」

 一瞬、言葉を失った由貴に、迅は相変わらず多くの感情を表には出さないで言った。

「俺は精神科医志望でね、坂下……だっけ? あんたの例にもけっこう興味がある。依存症にも色々とあって、アルコール、薬物、買い物……ホストクラブ依存なんていうのもある。それらは、立派な病気なんだ。病気には当然、治療が必要だろ。それを直す医者も。そこで、リカバリーアドバイザーって言葉が出てくるんだ」

「リカバリーアドバイザー? それって、精神科医によるカウンセラーみたいなもの? そういうものがあるのは、私も知ってるけど……でも、そんなのを受けるのは……」

「嫌なの?」

「……」

「そう。なら、この話はもう終わりにしよう」

 信じられないくらい、あっさりと会話を打ち切ると、オーダーした珈琲が来るのを待とうともしないでテーブルの伝票を取り、席を立ち上がろうとする迅を、

「待って! 嫌だなんて、私は言ってないじゃない」

 由貴は慌てて手で制する。それでも、心は揺れていた。万引き依存症でカウンセラーなんかに通っているのを両親、特にプライドの高い父に知られたりしたら……。けれども、ぶっきらぼうながらも差し伸べられた救いの手を振り切ってしまえば、自分は更に出口の見えない迷路で迷い続ける事になる。

「あなたが……あなたが、私のリカバリーアドバイザーになってくれればいい」

 唐突に由貴が口に出した提案に、今度は迅が驚いた様子でこう言った。

「いくら、精神科医が志望だといっても、俺は基礎医学を学び出したところで、専門的な治療セラピーなんて、まだ無理だ」

「だって、あなたは私の症例に興味があるって言ってたじゃない。なら、私がサンプルになってあげる。将来、精神科医になりたいなら、あなたにとっても、それは、いい勉強になるんじゃないの」


 何ともいえない二人の間の奇妙な沈黙。それを先に破ったのは、迅の方だった。

「なら、最初にやるべき事は、携帯ガラケーのアラームを解除する事だ」

 その言葉に、由貴は、ほっとしたような表情で迅の顔を見た。大学内で精神的に孤立していた彼女は、他の人と一線を引いているような迅の雰囲気に奇妙な親近感を感じていた。この人にならついてゆけると自分のバッグから携帯電話を取り出し、メニューボタンに目をやる。だが、幾度となく押した“アラーム”の機能を解除しようと、その位置に指をやった時、伸びてきた迅の手がその携帯を奪い取り、アラームに設定してある時刻を見て腑に落ちないようにこう言ったのだ。

「……今時、ガラケーか。それに、ひどく古い型の携帯だし、おまけに中途半端な時間にセットしてあるんだな」

「ふふ、もう、10年は使ってる。ほとんどメールも通話もしないし、それに、何だか新しいのに変えるのが不安で……時間はね、その携帯の時刻で、アルバイトが交代する午後2時30分の10分前にぴったり合わせてあるのよ」

「なるほど……この携帯ガラケーこだわりすぎるのも、よくないのかも」

 考え込むように口を噤んだ迅は、上目使いに由貴を見やり、少し皮肉っぽい調子を含めて彼女に問うた。

「実際、坂下自身の本心はどうなんだ? 俺のリカバリーアドバイザーの真似事に従って、その悪癖をお前は本当に直せると……いや、直したいと思っているのか。アドバイザーになってくれと言った事が、正式な精神科医の診断を逃れたいための戯言ざれごとなんだったら、こんな話はここで止めてしまった方がお互いのためだぞ」

「戯言だなんて、そんな考えは毛頭もないわ! 私は心の底から万引きなんて、止めたいと思ってる。でも、自分一人の力では、とても無理。桐沢さん、あなたが協力してくれるなら、私は形振りかまわず、あなたのアドバイスに従うわ」

 頬を紅潮させて告げた由貴とは、対照的に平然とした態度で迅は言った。

「坂下は、午後2時20分に鳴る携帯電話のアラーム音に触発されて、購買部に足を運びたくなる……ならば、明日からは」

「明日からはどうするの」


 携帯電話のアラームを解除する。または、携帯電話自体を持つのを止める。


 そう言われると、由貴は予想し、そう行動しようと心に決めた。ところが、迅の提案は青天の霹靂へきれきと言っても言いすぎでない物だったのだ。


「明日からは、俺がその携帯に電話する。午後2時20分に毎日、坂下がその悪癖をしたくなくなる、その日まで」


* *


 坂下由貴が購買部から走り去った後、つばさとくるみは、山根昭に促されて、藤野香織とともに昭の研究室へ連行されてゆく途中だった。


 先週に行われたT大音楽科コンクールは、芸術学部音楽科の優秀者たちが、各専門の楽器の腕を競う、T大でも屈指のイベントだった。優勝すれば、大学院に進む者はより優れた教授の教室に入れるだけでなく、海外留学への道も大きく開ける。そのコンクールの各部門の優勝者たちのお披露目ひろめ」コンサートが次の土曜日に行われる予定なのだが、そのバイオリン部門の優勝者、山根昭がその時、披露するオリジナル曲に自信がないと言いだしたのだ。


「いい事を思いついた。つばさ君、これから僕の演奏を聞いてくれないか。君がいいって言ってくれたら、僕も演奏会コンサートでの自信がつくというものだから」

「え……これから?」

「あっ、先週のコンクールって、つばさがピアノ部門で優勝したやつよね。バイオリンは昭さんに負けちゃったけど」

 くるみの邪心のない言葉に、昭は苦い笑いを浮かべた。なぜなら、バイオリン部門では、昭はかろうじて1位を取ることができたが、つばさは2位。その上、ピアノ部門で彼は優勝を果たしている。

「優勝なんてするもんじゃなよね。演奏会の練習なんて面倒臭くてたまんない」

 すると、昭の後ろにいた香織が、

「つばさ君、それは贅沢ぜいたくってもんよ。バイオリン部門3位の私からみたら羨ましくってたまらない話なんだから」

 同意を求めるように香織が華やかな笑顔を向ると、昭は無言で頷いた。


 だが、熱心に語る彼らとは裏腹に、つばさは、全然乗り気になっていない。今日は、くるみを誘って大学の近くで評判になっているスィーツの店にでも行こうと思っていたのに……。ところが、その目論見もくろみは、

「つばさも今日は、暇なんでしょ。行く行く! 超ラッキー、昭さんのバイオリンが聞けるなんて」

 姉のくるみの一言にみごとに打ち砕かれてしまうのだ。


“面倒臭ぇ……昭さんのバイオリンなんて、僕はいつも聞いてるし”


 つばさは、心の中でそう思った。……が、やはり、倒錯の世界の住民は、くるみの笑顔には逆らえない。

 

* *

 昭の研究室は、観葉植物の鉢などがそこらここらに置かれてあって、大学の研究室にしてはやけに落ち着いた空間だった。ノートや五線譜が山と積みあがった事務机に、パソコンやゲーム機が、無造作に置かれているつばさの研究室とは随分違う。見るからに高級そうなバイオリンを手にして、音あわせを始めた昭の姿に、くるみは、緊張した面持ちでソファに腰掛けた。

「そんなに堅苦しくしないで。お茶を入れるわ、ちょっと待ってて」

 香織は、そんなくるみを気遣ってか研究室の戸棚から手馴れた様子で紅茶の茶葉を取り出しティーポットにお湯を注ぐ。

 いつもこの場所で、彼女が昭にアフタヌーン・ティー用のお茶を入れているのは間違いないなと、つばさは意味深な笑いをうかべてしまった。ところが、くるみの方は、しっくりとした香織の女主人ぶりに、あこがれの眼差しを惜しみなく送る。

「こうして見てると昭さんと香織さんって、婚約者同士みたいにお似合いだよね。昭さんは御曹司だし、香織さんは上品で綺麗で根っからのお嬢様。バイオリンを持ってる姿なんて本当に絵になってるし。つばさはいいな、まわりが素敵な人たちばかりで。うちの中学の男子なんて、もうぱっとしない奴ばかり」

 くるくるとよく動くその瞳に“くるみには僕がいるからいいじゃないか”と思わず口に出しそうになり、つばさはその言葉をぐっと飲み込んだ。さすがに、声にだしてしまう程の勇気は持ち合わせてはいないのだ。

 すると、昭が、

「つばさ君だって、学部の女の子たちにはかなり評判になってるよ。どうだい? ここは年上ばかりだけど、年上の彼女なんていうのもいいんじゃない?」

「べ、別に悪かないけど……」

 つばさは、図星をつかれて少したじろぐ。すると、紅茶のカップをくるみに手渡しながら、香織が会話に入ってきた。

「……で、くるみちゃんの方はどうなの。彼氏っていないの?」

「う~ん。候補にしたい人はいるんだけど……」

「あれ? くるみちゃんみたいに可愛い子が、もしかして片思い?」

 香織の言葉に、つばさは頬を膨らまし、昭は少し皮肉っぽい笑みをこぼした。つばさが言う。


「スナフキン症候群なんだ」

「え?」

「スナフキン」


 怪訝な顔の香織に、つばさは膨れ面をさらに膨らませて言った。

「トーベ・ヤンソンの童話“ムーミン”に出てくる風来坊の名だよ。山に篭って、ふっと帰ってきたかと思ったら、やりたい事だけやって、2言、3言、かっこよさげな言葉を残して、また山へ去ってゆく。くるみみたいな夢見る女子中学生には、それがえらくかっこ良く思えるんだって。僕が名づけたんだ。それが、“スナフキン症候群”」

 そして、さらに、追い討ちをかけるように、言葉を続ける。

「確かに秘密の香りがぷんぷんしてて、余計な事をしゃべらない分、あいつは、かっこよさげに見えるけど、くるみとは腹ちがいとはいえ兄妹だろ。何でよりによってあんなのがいいのさ」

「兄妹だって、関係ないもん。“はやて”兄さんは、素敵。今や、外国では、同性同士でも結婚できる時代なのよ。つばさはもう、古いのよ」

 おかしいような、困ったような笑いを浮かべる香織を気にも留めず、くるみはけろりと爆弾発言をしてくれる。


 ここにも、倒錯の世界の住民がいる。


 つばさは、自分の事は棚にあげて、苦い表情でくるみに目をやった。


「まあ、まあ、迅の話は、そのくらいにして、そろそろ、僕のバイオリンを聴いてくれよ」

 昭の声音に皮肉めいた口調を感じて、つばさは視線を彼に移した。するとその時、見慣れた昭の研究室にふと違和感を感じたのだ。つばさは自分の記憶力にかけては、相当な自信があった。何かが足りない……。そうだ、昭が立っている位置の後ろにあった小型金庫が……。

「盗られたのって、そこにあった金庫なんだね」

 唐突なつばさの台詞に驚き、昭は弾きかけていたバイオリンの弓の手を止めた。むっと表情を曇らせながら、

「盗難っていったって、金庫の入っていたのは携帯電話スマホだけだったんだ。だから、警察にも通報はしなかったのに、どこからか、盗られた事が漏れてしまって……本当に心外だよ。だから、この件はもう話したくないんだ。わかっておくれよ」

 昭は、吐き捨てるようにそう言うと、バイオリンの弓を握り締め、何かを振り切るように強くそれを弦にこすりつけた。


 ヴァイオリンソナタ


 それは、通常、バイオリンとピアノの二重奏による楽曲を指す。昭はピアノとの合奏を嫌い、あえてピアノのない無伴奏のヴァイオリンソナタを作曲したようだが、昭のバイオリンから流れてきた伸びやかな旋律に、つばさは、やっぱり上手いなと心の中で舌をまいた。

 ゆったりとした曲調だが、不規則に変化する和音進行を完璧にこなすには、正確な音程を把握し、それを音にする技術がいる。バイオリンでは、さすがにつばさも昭に勝てる自信はなかった。

 だが、第1楽章を少し聞いたところで、

 

 昭さんにしては、随分、荒い演奏をするんだな。

 

 つばさは、いつになく、苛立った様子の昭の演奏に眉をしかめた。表面上では相変わらずのポーカーフェイスを決めてはいるが、彼が奏でるバイオリンの旋律は、妙に抑揚が強すぎて、演奏者のいびつにゆがんだ心のひだが音符と音符の隙間に微妙に折りこまれているような印象を受けた。


 くるみは、どんな感じなんだろう?

 

 ふと気になって、つばさは姉の方へ目を向け、くすりと笑った。彼女は、放心したようなうっとりした眼で昭の演奏に聞きほれている。

 音符がどうのとか、技術がどうのなんて、細かい事なんて気にしない。本当に普通の素直な反応。くるみはいつもそう。そして、それが、つばさをほっとさせていてくれるのだ。

 第2楽章に入ると、昭も曲の波に乗ってきたようで、つばさが気にした荒々しさも消え、いい感じにまとまってきた。そして、30分ほどの短いヴァイオリンソナタは軽快な超絶技巧を駆使した第3楽章で終了した。


「すごいっ。こんな演奏を真近で見れるなんて、私って、本当についてるわっ」

くるみが、ソファから飛ぶように立ち上がり、割れんばかりの拍手を送る。香織は、当然といった穏やかな顔つきで手を打っている。

「コンクールの優勝者の演奏会で発表するオリジナルの楽曲に、満足できないなんて言ってたけど、これなら、誰にも負けない演奏になるんじゃないの」

 辛口な批評で他の学生から恐れられている、つばさにしてみても、良いものは良いと素直に認める時だってあるのだ。……が、

「ただ、1つ言わせてもらうと……」

 お決まりの台詞が彼の口から流れ出したのを見計らうように、香織がくるみに言った。

「ここからは、昭さんとつばさ君の音楽談義になりそうだから、私たちは、ちょっと席を外しましょ。私の研究室におみやげにもらったケーキがあるの。取りにゆくから、くるみちゃんも一緒に来る?」

 いたずらっぽい笑みを浮かべて、香織は囁く。


“だって、ここにいたら、私までつばさ君の毒舌のターゲットにされそうだわ。それに、くるみちゃんだって、退屈でしょ”


 そそくさと、研究室を出て行った香織とくるみを気にかける事もなく、つばさは少し緊張した面持ちの昭をまっすぐ見据えながら言葉を続けた。


「演奏の技術は僕が口をはさむ隙もないけど、楽曲の構成がちと複雑すぎて、くどいような気がするんだ。削ってもいい余計な音符がありすぎる。もっと、もっと簡潔にできるよ。確か、今度の演奏会には海外で活躍する有名なバイオリニストも来るんだってね。彼にアピールしたくて、派手な演奏をしようとしてるんなら、それは間違ってる。昭さんは、超絶技巧なんかやらなくても、ゆっくりしたバラード調の方がずっと、らしさが出ると思うんだ」

 昭は、13歳の少年を目の前に反論もできず、厳格な先生の言うがままに従う生徒のように口を噤んでいる。

 図星だったのだ。今度の演奏会には、香織が以前、留学していたウィーンから彼女の師匠が来る予定になっていた。彼は、昭が子供の頃から憧れていたバイオリニストだ。おまけに音楽科の学生たちの間では、今回の演奏会で彼は再び、優秀な学生を一人、彼の弟子として選ぶ気なのだという噂がまことしやかに囁かれていた。

 なんとか平静をとりくつろい、昭は無理に笑顔を浮かべると、つばさに言った。

「い、いつもながら、鋭い指摘だね。なら、つばさ君、君なら、どう演奏する? 僕のバイオリンを貸すよ。それに、僕の楽譜を見せるから、少し、君流の弾き方を見せてみてくれないか」

「うん、いいよ。でも、」

 つばさは、昭が手渡そうとした楽譜に視線を移しもしないで、今しがた昭が弾いていたバイオリンに手を伸ばし、


「楽譜なんていらないし」


* *


「昭さん、つばさ君、音楽談義もいいけれど、ちょっと休憩……」

 くるみと談笑しながら、研究室にもどってきた香織は、扉を開けたとたんに耳に流れてきたバイオリンの音色に、はっと目を見開いた。

 少しのよどみもない伸びやかな音。難しい技巧を駆使しているわけでもないのに、そのメロディーは自然に心に染みてくる。

「つばさ君が弾いてるのね」

 改めて確かめる必要もないと香織は思った。大学中探してみても、こんな演奏ができるのは、13歳の天才少年、闇雲つばさ以外にはありえなかったから。

 くるみたちが手にした、ケーキの箱が目に飛び込んできた時、つばさは、満面の笑みを浮かべて、バイオリンの弓を動かす手を止めた。さっさと用事を済ませてしまいたげに昭に言う。

「冒頭の部分を少しだけアレンジして弾いてみたけど、昭さんのが悪いってわけじゃないんだ。あくまでも、これは僕流の弾き方だから、そこんとこ、わかっておいてね」

 にこりと笑ったつばさに、昭は唖然とした顔つきで目をやった。

「冒頭の部分って……1楽章の終わりまで弾き終わってたじゃないか。この曲をつばさ君に聞かせたのは、今日が初めてだろ? 君、楽譜も見ないで一楽章を全部、覚えてしまったわけじゃないだろうな」


「うん。覚えてるよ」


 予想はしていたものの、その答えを昭は聞きたくなかった。毎度のように彼に対する嫉妬しっとの思いを胸に押し込めるのに彼は、えらく苦労している。けれども、同時につばさの力量に、いつも感動させられ、その演奏を聞くのが昭は好きでたまらなかった。どうしようもなく、こみ上げてくる好奇心が抑えきれない。


 この質問をしてしまえば更に僕は苦しくなる。わかっているけど、僕はそうせずにはいられない。


 そして、昭は心の中の禁断の問いを結局はつばさに向けてしまうのだ。

「1楽章だけ……? つばさ君が覚えてしまったのは」

「ううん」

 つばさの言葉に、研究室に入り、昭とのやり取りを固唾を呑むように聞いていた香織はごくりと唾を飲み込んだ。

「じゃ、どこまで?」

「全部」

「えっ」

 驚く昭に涼しげな目を向けて、つばさは言った。

「だって、短いバイオリンソナタだもの、覚えられるよ」

「一度、聞いただけで? 最初から終わりまで?」

「そう、1楽章から3楽章まで、僕は一音たりとも、逃さず弾く自信がある」


 ほら、こんな風にね


 いたずらっぽい眼差しで、バイオリンを奏で出したつばさに、くるみは誇らしげに目を向けた。


 究極なまでに、よどみのないその音色。居合わせた者たちの複雑な心境をすべて洗い流してしまうかのような


“そう、これが私の弟。IQ160以上の天才児ギフテッド


 つばさが奏でるバイオリンの音色に耳をかたむけながら、くるみは少し得意げに昭と香織を見やり、邪心のない笑顔でにこりと笑った。


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