第37話 転落事件の犯人
桐沢 迅は、今まで積み上げてきた秘密の壁が、義弟によって、刻々と崩されつつある事に気づきもしないで、11月の木枯らしが吹く公園の歩道を一人で歩いていた。
その公園を抜けると、毒物混入事件の被害者となった、元同級生の山根 昭が入院している総合病院へ出る。
頬に吹き付けてくる風は冷たかったが、今は生活の大半を根城にしている山の中で受ける剃刀みたいな烈風に比べると、妙に生ぬるく感じられた。けれども、彼にとっては、中途半端に吹く公園の風よりも、身を切るような山の寒風に晒されている方が遠慮がない分、ずっといいように思えてならなかった。
迅は、総合病院の建物が視界に入ってきた時、一寸、足を止め、軽く息をついた。
つばさには、今日は昭の見舞いには行かないと言ったけど、昭は、藤野 香織が毒物混入事件の犯人として自首した経緯を一刻も早く知りたいと思っているだろうし、つばさは……あの向こう見ずな義弟はきっと、昭に会うと、即座にあの事に触れてしまうと思うから……。
あの事……昭が、彼の研究室の窓から、つばさを突き落とした犯人であるという事の真偽。
でも、つばさ自身が会っていきなり、それを彼に問いただすのは不味いんじゃないのか。
一昨日、昭を見舞った時に迅は、彼がどうしてもと切りだしてきた話を、 “毒物混入事件が終わってから”と、敢えて耳にするのを避けたのだ。それが、“義弟の窓からの転落”の件だと薄々気づきながらも。その時の元同級生の乞うような眼差しが、ずっと心に引っかかっていた。
つばさは、あの3階の窓から自分を突き落とした犯人の正体に、とっくに気づいている。
それを思うと、やはり昭に会うのは気が重かった。
このまま全部を放り出して、再び山に戻ってしまいたくなった。……が、毒物混入事件が起こる前に大学近くの喫茶店で、“坂下 由貴の万引依存症に関わるな”と昭を諌め、その時に彼が返してきた言葉が、迅の心を捕らえて離さなかった。
― 僕は思うよ。彼女を惑わすなと、言ってる迅こそ、一番、彼女を……いや、僕や、くるみちゃんや、つばさ君を惑わしている張本人だ。お前がいつまでも、風来坊を決め込んでいるから、みんながそれを心配して心が落ち着かない。由貴さんに関わっている場合じゃないのは、僕じゃなくて、お前の方だ ―
一連の事件がここまでこじれてしまった要因の一つは、自分自身の優柔不断さにもあったのだろうか。義弟のつばさに指摘された、あの言葉も……
― 由貴さんが、ちょっと良くなったら、いきなり山に篭って、それっきりなんて、ひどいにも程があるよな。義兄さんがリカバリーアドバイザーになって、万引依存症はよくなっても、由貴さんには別の依存症ができてしまったんだよ。
― “桐沢 迅 依存症”ってやつがね ―
そして、誰に頼まれたわけでもなく、ただ、友人を傷つけられたという理由で、意図的に藤野 香織を自首の方向へと扇動してしまった“毒物混入事件”。
それが、昭のために良かったか、悪かったのか……。
わからない。けれども、これまでの俺はいつも、自分のやった事が、後でどんな影響があるか深く考えもしないで動いてしまっているんだ。
そう、いつも俺は……。
後悔とも反省ともつかない苦い思いが胸に湧きあがってくる。けれども、今回だけは地に足をつけて、義弟が面会に来る前に、きちんと昭の話を聞く必要があると、迅は思った。
それが、自分の責任のような気がしてならなかったから。
やがて、迅は昭が入院する総合病院の入り口にたどり着き、自動的に開くガラス扉に導かれるように、その中へ入っていった。消毒薬の臭いがほのかに流れてくる廊下を通り、入院病棟へ続く階段を上ろうとした時、
「桐沢さん!」
後ろから突然、かけられた声に呼び止められ、訝しげに後ろを振り返った。
はにかんだような笑顔の若い看護婦。
「山根 昭さんのお見舞いにいらしたのね。集中治療室から一般病棟に移ったのよ。部屋はお分かりになります?」
そういえば、先日、昭に呼ばれて集中治療室へ見舞いに行った時に、この若い看護婦に会ったんだっけ。
自分に向けられる無意味に好意的なこんな瞳が苦手でたまらず、迅は、俯き加減に、「いいえ」と、一言、答えを返すだけだった。
「一般病棟の210号室よ。階段を上がって一番奥の部屋ですから」
「そうですか」
ところが、面倒な会話を嫌って早々と彼女の横をすり抜けようとした時、
「昭くんが喜ぶわ。だって、いつも桐沢さんの話ばかりしてるんですもの。この間も携帯に何回、電話してもなかなか繋がらなくて……でも、桐沢さんが後で連絡してくれて、面会ができて本当に良かった」
その明るい声音と、二日前に携帯電話に入っていたメッセージの声が、迅の頭の中で不意に一つに重なった。
「あ……俺の携帯にメッセージを入れてくれたのって?」
「ああ。あれ、私だったんです。集中治療室で携帯電話を使えない昭くんの代わりに、何回かあなたの携帯に電話したんですけど……なかなか出てくれなくて、仕方なくメッセージを残しておいたのよ」
その時の若い看護婦の拗ねたような台詞が、
“何度かけても、迅兄さんは、携帯電話に出てくれないんだもん”
義妹のくるみの物言いに、とてもよく似ているように思えて、迅は、一瞬、言葉を詰まらせてしまった。そして、相当に戸惑いながらも、
「……有難う。お世話をかけました」
そんな言葉を口に出したものの急に居心地が悪くなり、若い看護婦の顔を見る事もしないで、足早に元同級生いる病室へと階段を上がって行ってしまうのだった。
* *
山根昭が集中治療室から移動したという210号室は、“毒物混入事件の被害者”に気を配ってか、2階の入院病棟の一番角に位置する個室だった。
「集中治療室を出てからのお見舞いは、やっぱり迅が一番だったね」
病室の扉を開いた元同級生の訪問が、さも当たり前かのように、山根昭は穏やかな笑みを浮かべて彼を迎えてくれた。
「音楽学科の仲間たちは、僕に遠慮してるみたいで……でも、少しは動くようになったんだよ」
お茶に混入されていた猛毒のせいで、一時は意識不明の重体に陥った昭の左指には、“麻痺”というバイオリン奏者としては、致命的な後遺症が残った。
努力家の彼らしく、さっそくリハビリに精を出しはじめたのか、まったく動かなかった指先が、今日はかすかに上下する。
それでも、バイオリンの弦を押さえるには程遠い動きで、藤野 香織が毒物混入犯として自首した事を踏まえても、バイオリン学科の連中が、ここに来づらい気持ちは、迅にも推し量ることができたのだ。
「……で、具合はどう?」
複雑な表情の元同級生に、ベッドから半身を起こしながら昭は、
「そんな顔をしないでも随分、良くなったよ。それより、そこの椅子にでもかけたら? 聞きたい話がいっぱいあるんだ。本当に僕は迅がここに来てくれるのを首を長くして待っていたんだから。そうそう、いただき物のお菓子があるんだ」
と、昭がベッドサイドの机にある菓子折りに、手を伸ばしかけた時、
「藤野 香織の事だろ」
単刀直入に切り出してきた迅の台詞に、昭は、一寸、沈黙する。だが、すぐに明るい声音でこう言った。
「さすがは迅だね。ちゃんと、僕の気持ちを分かってくれてる」
微かにその口元がふるえている。
昭の気持ちを分かっている……? そうだな。確かに俺には分かるよ。
“山根 昭が、桐沢 迅をこれほど待っていた本当の理由が”
迅は、すすめられた椅子に座ろうともせず、病室のベッドサイドにある窓辺へ歩いていった。窓越しに見える外の景色を見てから短く息をつく。それから、何かを吹っ切るかように窓に背を向け、昭にその視線を移した。
「 “藤野 香織の件”は俺にしてみても、早く聞いてもらいたいのは、やまやまなんだが、あれは言わば終わった事件なんだ。被害者のお前からしてみれば、そんな簡単に終わってたまるか……か? でも、それは違うんだろ」
意味深な表情で自分に問いかけてくる元同級生の態度に、昭はごくんと一つ唾を飲み込んだ。そんな彼の様子に、迅は敢て知らぬふりをして言葉を続けた。
「昭が本当に俺に聞きたい……いや、話したいと思っているのは、まだ、“終わっていない事件”の方じゃないのか」
「終わっていない事件……」
「俺たちの間に起こってしまった複数の事件は、あまりにも浅はかで、“小型金庫の盗難事件”に関与してしまった俺は、こんな事を言える立場じゃないのかもしれないが……」
「あの事は、もう、いいんだって、僕は言ったじゃないか」
その昭の台詞を簡単に受け入れていいものかと、迅はまだ迷っていた。だが、もう後戻りはしたくなかった。
「 “毒物混入事件”の犯人が“藤野 香織”だと、俺が示唆した時にも、お前は同じような事を言ってたよな……下手をすれば、自分の命を奪い取ってしまったかもしれない犯人に、何で、お前はそんな寛大な態度を取り続ける事ができるんだよ!」
「迅……それって、話の方向が違ってしまっているよ。お前はさっき、僕が本当に話したい話は“毒物混入事件”の方じゃないって指摘したばかりだろ。本当に迅がそう思っているなら、香織の話をここで持ち出してくるのは、おかしいんじゃないのか」
「いや、話の方向性は間違っちゃいない。昭がそこまで“犯人たち”に対して、寛大になれる理由。その事を俺は言っているんだ。それは……未だに解決していない ― まだ、終わっていない ― “研究室の窓からの転落事件”で、お前には、他の者たちを責める事のできない負い目ができてしまったからなんじゃないのか」
「……」
次の言葉を出す事ができない様子の昭に、迅は一旦呼吸を整え、
「義弟のつばさをあの窓から突き落としたのは……」
半ば睨みつけるように元同級生を見据え、こう言った。
「昭、お前なんだな」




