第34話 つばさの目論見
身なりに気を使うでもなく、義兄は相変わらず重装備なリュックを背にしょっている。どう考えても、ちょっとハイキングに行ってくるといった出で立ちではないにもかかわらず、それが、かえって良さげに見えてしまう。
くるみをはじめ、多くの女の子たちは、その風来坊っぽさに魅かれてしまうようなのだが……、
「迅兄さん? 何でまた、こんなに早い時間に?」
すると、不審げな弟にくるみが、
「私が学校へ行く前に、昨日、“私”が “迅兄さん”に貸してた携帯電話を返そうと思って、来てくれたんだって!」
ヤバい……さっき、佐久間先生に、くるみが迅兄さんを物凄く怖がってるって話をしたばかりなのに、くるみの瞳は、完全に♥マークに輝いちゃってる。
くそぉと、一瞬、つばさは頬を膨らませかけたが、今はそんな事をしている場合じゃなかった。
すると迅が、
「つばさ、お前、何やってんだ、パジャマ姿で? 今日は大学は休講か」
その後、くるみが、
「昨日、薄着で遊んでたもんだから、今朝になって39度も熱が出ちゃったのよ」
「39度? ……知恵熱か」
迅はからかうような笑みを浮かべて言った。
赤ん坊じゃあるまいし、つばさは、毎日、大学を自主休講みたいな義兄に、知恵熱だなんて、冷やかされたくはなかった。けれども、迅は、義弟の横で自分の事をじっと見つめている老人に目を移した瞬間、突然、表情を硬くし、
「佐久間先生……?」
「迅君、久しぶりじゃなあ。会うのは小学生以来か。あんまり、大きくなったんで、見違えてしまったよ」
それっきり、迅はむっつりと黙りこんでしまった。
気詰まりな沈黙。それに耐えかねて、無理矢理に笑顔を作る佐久間の態度が、余計にこの場の空気を硬くした。
「ま、まあ、元気そうでなによりじゃ。わ、私は、これで失礼するから……」
少し慌てたように、老医師は青年の横をすり抜け、玄関の扉に向かおうとする。だが、ふと、迅の方にもう一度目を向けると、その左腕を軽く掴み、
「あまり無理をするなよ。つばさ君が心配しとるぞ」
外に出て行きしなに、そんな言葉を残したのだ。
* *
佐久間が玄関を出て行った後、きつい眼差しで目を向けてきた迅の態度に、つばさは、ひやりと冷たい汗をかいた。怒っているんだろうか。まずいぞ、機嫌が悪くなった義兄はすごく手ごわい。けれども、こんな事くらいで怖気づいていては、義兄の秘密を暴こうなんて目論見が上手くゆくわけがないのだ。
すると、
「つばさ、お前、また何か余計な真似をしようとしてるんだろ」
「えっと、そんな事はないよ。ぜ~んぜん」
大慌てで、否定してみたものの、やはり敵は図星をついてきた。何ともいえない緊張感が少年を包みこむ。
だが、
「なぁんだ。佐久間先生って迅兄さんを知ってたの。小学生以来って、それでよく、お互いがわかったわねぇ!」
あっけらかんと二人の間に入ってきた、くるみの元気な声に助けられ、つばさは、
「本当だねぇ! 小学生の迅兄さんなんて、想像ができないけど」
「あら、きっと、すごく可愛かったんじゃないの」
迅兄さんが可愛ぃ?
天地がひっくり返っても、そんな事あるもんかいと思う。だが、変に義兄を刺激するより、ここは逃げるが勝ちだった。
「あ……僕、何だか、また熱が出てきたみたい。気分が悪くなってきた。だから、もう部屋に戻って寝る事にするねー」
そそくさと退場を決め込もうとする。だが、ふと、何かを思い立ったように、つばさは義兄に向かって、
「迅兄さん、そういえば、昭さんって……」
「昭?」
「迅兄さんは、お医者さんの許可をもらって、入院中の昭さんに会ってきたんだったね。なら、もう、いいのかな? 僕が会いにいっても」
迅は一寸、言葉を止める。
「……確か、今日、集中治療室から一般病棟へ移るといってたから、面会時間内ならいいんじゃないのか。後で時間を調べて教えてやるよ。まあ、熱があるんなら、今日は止めとくんだな」
「迅兄さんは、今日はお見舞いに行かないの?」
「……行かないよ。今日は他に用があるから」
ふぅん……と、気のない呟きを口にする。それから、つばさは、少し皮肉をこめて、こう言った。
「そういや、くるみが見てたニュースに、香織さんの記事が載ってたよ。なぁんか、気が滅入っちゃって、それで、僕は熱が出たのかなぁ。……じゃ、これから部屋に戻るから。さっき、薬を飲んだせいか、ものすごく眠くなってきたし、それと……」
ちらりと義兄を一瞥する。
「何かあったら、携帯に電話してもいいんだったね。その言葉、迅兄さんは忘れてないよね」
そんな風に念を押してから、自分に背を向けた義弟の思わせぶりな物言いと態度が、やけに気になる。じゃあねと、姉の手を無理矢理に引っ張って、奥の部屋の方向へ歩いていった、つばさとくるみの後姿を見送りながら、迅は腑におちない表情をした。
つばさの奴、どうも様子がいつもと違う……もしかして、あいつ、佐久間先生から、何か余計な事を聞きだしてるんじゃないだろうな。
まさかな。と、思いつつも、義弟の人を見透かしたようないたずらっぽい笑みが脳裏から消えず、迅は胸に湧き上がってくるおぼろげな不安をぬぐいさることができなかった。
一方、部屋に入ったとたんに戸棚に立てかけてあったバイオリンと弓に手を伸ばし、ベッドに腰掛けたまま、それを弾き始めた弟の姿に、くるみは何度も目を瞬かせた。
モーツアルトのバイオリンソナタ21番、第2楽章
ここのところ、つばさが頻繁にバイオリンで奏でている、その美しく繊細な旋律はもう、覚えてしまっていた。
バイオリンの練習? にしても、熱を出して大学を休んでるっていうのに、何で今?
こんな時のつばさの横顔は、13歳の少年とは思えないほど、丹精で大人びて見える。いつもの呆れるくらいに、何に対しても無頓着な姿とは、うってかわって真剣な眼差し。
そして、時折、何かを深く考え込むように、目を閉じる。
くるみは、開きかけた部屋の扉の手を止め、小さく息をついた。そして、自分も含め、世間一般の人々とは、まるで違った領域に入り込んでしまった若年の天才バイオリニストに、知らず知らずのうちに憧憬の瞳を向けてしまうのだ。
今はとても、声なんかかけれやしない。余計な邪魔をするのは、やめよ。
どうやら、熱の事は心配する必要はなさそうだ。そっと扉を閉めながら、弟にやっと聞こえる程の声で言った。
「私、学校へ行ってくるねー。ちゃんと、おとなしくしてるんだよ」
時刻は、午前8時10分。
さすがに早く学校へ行かないと、一時間目に間に合わなくなる。くるみは、廊下の壁掛け時計で時間を確認した後、大急ぎで自分の部屋へ駆け込み、通学バックを手にとった。
だが、玄関へ急ぐ廊下の途中で、ふとその足を止め後ろを振り返った。
つばさが奏でるバイオリンの透きとおった音色が、耳に心地よく響く小川のせせらぎみたいに、自分の後を追いかけてくる。
バイオリンを弾いている時のつばさは、本当に素敵なのになあ。あれで、パジャマ姿でなかったら、迅兄さんと、いいとこ張れてるのに。
くるみは、短い吐息をもらしてから、何かを思い起こしたようにくすと笑い、そして、義兄の秘密を暴こうとする弟の目論見などには、気づきもしないで、軽い足取りで家の玄関を出て行った。




