第33話 秘密の追求
つばさが、父の部屋で見つけた古いCDROM。
このCDは絶対に怪しい。わざわざ、パスワードを設定して、中の文章を保護しようとしている事、自体、もう秘密の香りが一杯じゃないか。
そんな考えが頭の中が一杯になると、もう、寒さなど気にならなくなってしまっていた。そうして、パスワードの入力に夢中になっているうちに、一晩がたってしまったというわけなのだ。
* *
「とにかく、今日は大学を休んで、おとなしく寝てなさいっ。しばらくしたら、佐久間先生が、診にきてくれるそうだから」
「佐久間先生が?」
佐久間先生というのは、闇雲家の隣に昔から住んでいる、いつ引退してもおかしくないみたいな老人の開業医で、つばさたちが赤ん坊だった頃から、すっと世話になってきた主治医でもあった。
「朝の診察の前に、寄ってくれるって。ほら、お父さんがまた地方へ出張しちゃったもんだから、心配してくれてんのよ。私もこれから学校に行かなきゃならないし」
どうせなら、大好きなくるみに一日中、看病してもらいたのに……よりによって、佐久間先生ぃ……面倒くせえ。もう、ちっちゃい子供じゃないんだから、いちいち、医者なんか家に呼ぶな……
そう言おうとした瞬間、つばさは、はっと目を見開き、のど元に出かけた言葉を大急ぎで、別の言葉にすり替えた。
「それは有難い! ぜひ、呼んで。佐久間先生っ、久しぶりだなあ」
「……つばさ、あんた、やっぱり相当悪いんじゃないの。 態度が変だよ」
さっきまで、仏頂面をして毛布にもぐり込んでいた弟の豹変ぶりを、胡散臭げに見据えた姉。闇雲家の玄関のベルが鳴ったのは、その時だった。
「ほら、先生が来たみたいだ。さっさと玄関へ行って、佐久間先生をここへお通ししてっ」
嬉々ととして、ベッドの上に身を起こした弟に、絶対、変! と疑惑の瞳を向けながらも、くるみは、玄関に向かって歩いていった。
* *
しわの中に小さな瞳が落ち窪んでしまっている眼鏡の老人。少し背を丸めた、その医師が、人の良さそうな笑みを浮かべながら自分の部屋に入ってきた時、随分年をとったなあと、つばさは、ちょっと感傷的な気分になってしまった。
そういえば、小学生の低学年の頃には、散々、お世話になっていた、佐久間とも、次第に会う機会も少なくなってしまっていた。
「久しぶりじゃね。お姉さんから、熱をだして寝てるって聞いたけど、どんな具合だい」
「くるみは、大げさなんだよ。もう、熱なんて全然、平気!」
不満げに頬をふくらませた少年を見て、医者は笑う。
「そんな事だろう思ってたけど……まあ、とりあえずはちょっと、口を開いて。ふぅん、喉が腫れてるってわけでもないな」
あーんと大口を開きながら、つばさは、ちらちらと医者の顔を伺い見ながら、義兄に関しての話の糸口を探す手立てを考えていた。なぜなら、佐久間は、昔からの闇雲家の主治医なのだ。
……って事は、当然、迅兄さんのお母さんが、僕らのお父さんと離婚する前は、兄さんも先生の世話になっているはずで、そうとくれば、あの人が児童自立支援施設に入った経緯なんかも、佐久間先生が知ってる可能性は大なはずで……。
すると、
「ところで、つばさ君、大学の方はどうじゃ“13歳で大学生”だなんて騒がれて、気苦労してるんじゃないんだろうね」
上手い具合に、医者の方から、そんな話題を出してきてくれた。
「全然、僕には問題なし。でも、問題なのは、“桐沢迅”。あの人、山にばっかし感染れて、全然、大学に来ないんだ」
「桐沢……? ああ、迅君か……。そう言えば、彼はT大の医学部にいるんだったな」
やっぱり、先生は、迅兄さんの事を知ってる。
少し歯切れの悪い口ぶりで、佐久間が、迅の名前を声にしたと感じるのは、自分の思い違いなのだろうか。
つばさは、言葉を止めてから、しばし考えた。どうすれば、上手く、迅兄さんの事を先生から聞きだす事ができるんだろう。けれども、ああでもない、こうでもないと、考えているうちに、何だか、面倒くさくなってしまって、
「佐久間先生、僕、先生に聞きたい事があるんだけど」
「聞きたい事?」
「うん、迅兄さんが入っていた、“特別児童自立支援施設”の事だよ」
超ど真ん中な直球の質問を、目の前の医者に投げかけてしまうのだ。
「ちょっとした事件が切っ掛けになって、僕たちは、その事を知ってしまったんだ。けれども、どうして、迅兄さんがそんな場所に5年間もいたのかが、わからなくて、今、物凄く戸惑ってしまってる」
佐久間は、沈黙してしまっている。すると、つばさは、ここぞとばかりに、言葉を続けた。
「特に、くるみなんか、迅兄さんが昔に誰かを殺ちゃったんじゃないかとか、そうじゃなくても物凄く極悪な所業をしたんじゃないかとか、あの人が近づいてくるだけでも、怖がっちゃって、もう大変でさぁ」
「そんな、それは絶対にない! 迅君が人を殺めただなんて、それだけは、絶対にないっ!」
大層、憤慨した様子で声を荒げた医者に、少年はしてやったりと心の中で微笑んだ。
「なら、迅兄さんは、何をしたの。児童自立支援施設になんて特別な場所に、あの人が、5年間もいた理由は何?」
長い沈黙の時間があった。つばさの質問に答えるには、相当な心の中の葛藤があったのか、佐久間は、ふぅと長い息をもらしてから、
「ちょっとした事件って、T大の学生が毒物を飲まされた、あの事件の事を言っているのかい? 今朝の新聞には、容疑者が自首してきたって載っていたが、まさか、施設に入っていたせいで、迅君にも容疑がかかったってわけじゃないんだろうね」
「実際には、そんな事にはならなかったのだけど、その毒物混入事件の被害者っていうのが、迅兄さんの元同級生で、二人が言い争っているのを見られたりしたものだから、危うく、兄さんも犯人として名前を挙げられてしまうところだったんだ」
老医師は深いため息をつき、自分の顔から目を離そうとしない、少年の方へその視線を向けた。
「私は医者じゃからね、例え、それが、つばさ君の義兄さんの事でも、少しでも患者として扱った者の秘密は守る義務があるんだ。だから、詳しい事は、私の口から話すことはできないよ。でも、一つだけ言っておきたいのは、確かに迅君のやってしまった事は、とんでもない事だったのだけど、彼が特別児童自立支援施設に5年間もいなきゃならなかった理由は、それが原因というよりは、主に彼自身の心の問題だったっていう事なんだ」
「心の問題?」
「義兄さんはね、5年間もかかって、やっと普通の社会に出てくる事ができたんだ。山に感染れて、大学に来ないっていうのは、ちょっと困りものだし、やはり、世間に溶け込むには、まだまだ時間がかかるようにも思うけれど、それでも、つばさ君やくるみちゃんとも、きちんと、つき合う事ができているのを聞くと、私は嬉しくなってしまうんじゃ」
「僕からしてみれば、あの義兄さんが、世間を怖がるような、そんな繊細な人間だなんて、全然、思えないんだけど」
すると、老医師は笑みを浮かべ、
「まあ、彼の行動は、ある意味では世間を超越しているとも言えるからなあ。そういう点では、義弟であっても、つばさ君は、迅君のいい相談相手になれると思うんだが」
「何で、年下の僕が迅兄さんの相談を受けなきゃなんないんだよ。僕は、あの人みたいに精神科医を目指しているわけじゃな……」
そこまで言ってから、つばさはふと、口を噤んだ。
なるほど、迅兄さんが精神科医を志望した動機。それって、今、佐久間先生が言ってた事が主な原因なのか。それを考えれば、兄さんが万引依存症に苦しんでいた由貴さんにやけにこだわった、その理由もわかってくる。兄さんが、心の問題とやらを抱えていたとするならば、言葉は悪いけど、“同病相哀れむ”って感じなんだろうな……
でも、こんなアバウトな回答じゃ、何もわかっていないのと同じじゃないか!
つばさは、老医師をきりと睨めつけ、声を荒げた。
「こんな曖昧な説明じゃ、僕には納得がいかないよ! 僕が聞きたいのは、迅兄さんがやってしまった“とんでもない事”が実際に何だったのかって事と、何でそれが、迅兄さんが、5年間も社会に出れない切っ掛けになったかって事なんだ!」
「だから、具体的な事は話せないと言ったじゃろう。それに、わしだって、それほど詳しく知っているわけじゃないんだ」
「でもっ」
何が何でも引くもんかの姿勢が、ありありと見える少年に苦笑いを浮かべ、佐久間は、
「それだけ、元気があれば、もう診察の必要はないな。薬を出しておくから、今日、一日くらいは、家でおとなしくしていなさい。それと……」
携えてきた診療用の鞄の口を閉じながら、老医師は言う。
「もう、これ以上、お義兄さんを詮索するのは止めなさいよ。誰にだって、多かれ少なかれ、人に知られたくない部分を持っているんじゃから。つばさ君、君だってそうだろう」
そそくさと部屋をでてゆこうとする、医師を少年が追う。ところが、佐久間は、それを阻止するかのように、外に出た後に、つばさの鼻先で扉をぴしゃりと閉めてしまった。
このトボケ老人め、上手く僕を丸めこんで、逃げるつもりだな。
閉じられた扉をばたんを開けて、つばさは、佐久間の後を追った。
部屋にやって来た時には、歩くのも、おっくうな感じだったのに、帰りの際はえらく足が速い。逃がしてたまるかと、その後を追い、つばさが玄関にたどりついた時、
「あら、つばさに佐久間先生? 今、ちょうど、迅兄さんが来てるのよ」
くるみに出迎えられ、玄関口に立った長身の青年の姿に、老人と少年は、どきりと身を縮こませた。




