第30話 香織へのメール
毒物混入事件の舞台となり、休業を余儀なくされてしまっている回転寿司屋の中で、
「午後2時32分。11回目」
淡々とした声で、その時間と数をカウントし続ける迅のそばで、つばさは大きくため息をついた。そして、先ほどまで香織が座っていたカウンター席に目をやり、回転寿司屋の壁掛け時計にその視線を移した。
それにしても、彼女に渡した由貴さんの携帯電話のプログラムに手を加えて、アラームのスヌーズ機能を電源を切るまで解除できないようにしただなんて。
防犯テープの嘘を巧みな話術で、香織さんに信じ込ませた事にしても……、今更ながらに、義兄の迅の行動には不可解な面が多すぎる。
GPS画面の中の“藤野 香織”を示す黄色い矢印は、まだ、空港に向けて高速道路を移動し続けている。それが、決して空港へは、たどりつけない袋小路なのだとしたら、この回転寿司屋の中のパソコンの画面から、彼女の動きが滞ってしまうのを眺めている自分たちは、すごく残酷な事をしているような気がしてならない。
時計の針は、午後2時33分を指そうとしている。
つばさは、苦々しい気持ちをぬぐいされないまま、心の中で声をあげた。
香織さん。逃げる事なんて、できやしない。
だから、迅兄さんに仕掛けられたトラップの中で、これ以上、苦しい思いをするくらいなら、もう、自分の罪を、認めてしまえ!
僕たちは、今以上に、香織さんを責める気なんて、これっぽっちもないのだから。
* *
事の終わりは、10・6インチのノートパソコンの画面が、すべてを物語っていた。
時間は、午後2時33分。
「GPSの表示が消えた」
迅のそっけない声が、静まり返った回転寿司屋の中に響いた瞬間、つばさと良介は、どきりと表情を変えて、パソコンに映し出されている画像を覗き込んだ。
確かに、先ほどまでGPSの地図上に点滅していた黄色い矢印は、何処にもなかった。
という事は……、
「香織さんが、由貴さんの携帯電話の電源を切ったって事?」
すっとんきょうな声をあげた、つばさと良介に、迅はさほど感動した様子もなく、答える。
「多分」
「多分って、これからどうするつもりなんだよ! 迅、お前は、香織さんが携帯電話の電源を切ったら、警察に犯人の姿が映った防犯テープを届けるって脅しをかけたけど、まさか、あの偽テープを警察に届けるわけにもいかないだろ」
ところが、迅は、良介の言葉など少しも耳に入らない様子で、上着のポケットから彼自身の携帯電話を取り出した。
“迅兄さんは、今日はいくつ携帯電話を持ってきたんだよ”と、義弟の口から今にも、非難轟々の台詞がこぼれしそうだ。それを、予想したのか、手早く携帯を操作し一通のメールを送信する。すると、即、つばさが腑に落ちない様子で質問を投げかけてきた。
「迅兄さん、それってメール? 一体、誰に?」
「藤野 香織」
何となくは分かっていたが、その名を改めて義兄から告げられた時、つばさの心臓はまた、とくとくと鼓動を高めてしまうのだ。
まさか、“ざまあ見ろ”って、打ったわけじゃないよなあ。
義兄が送ったメールの内容が気になって仕方がない。
つばさの脳裏に、溢れ出しそうに沸きあがっている疑惑。それは、今に始まったわけではないが、人より並外れて敏い義弟に、これ以上詮索されるのもどうなものかと、迅は、
「言いたい事は山ほどあると思うけど、もう少し待ってくれないか。そしたら……」
「そしたら、何なの」
鋭い視線を遠慮なく自分に向けてくる少年に、苦い笑いを浮かべて言う。
「藤野の方から俺へ電話をかけてくると思うから」
* * *
新空港へ向かうタクシーの中で、運転手は気まずい思いをしながら、バックミラーに映った、後部座席の女性客の姿に目をやった。鳴り止んだ携帯電話を握り締め、俯いたまま涙ぐんでしまっている女子大生。いくら、壊れた携帯のアラーム音が五月蝿かったからといって、少しぞんざいな言葉をかけすぎたかと、
「お、お客さん、あと20分くらいで新空港だからねー」
猫なで声で、そう言ってみたものの、客からの返事はない。
ちぇ、仕方ないか。
急に静まり返ってしまった車内は、どうしようもなく居心地が悪かった。けれども、これ以上、声をかけれる雰囲気ではないなと、運転手は諦めたように、アクセルを強く踏みしめた。
成田IC → 新空港まで あと9km
藤野 香織は、ぼんやりと、近づいてくる高速道路の案内板を眺めていた。
これから、どこで何をしたらいいんだろう。
そんな事も考える気力をなくしてしまい、漠然とした不安な思いに心を委ねていた。
上手くゆくと思っていた大学生活の中で、何かを掛け間違えてしまった。
昭との間に何時の間にか、入り込んできた坂下 由貴、さした努力もなしに頭角を現してくる闇雲 つばさ、そして、学内で唯一といっていいほど、自分に邪険な態度をとる桐沢 迅。
こんなはずじゃなかった。入学前に想像した自分の姿は、自信に満ち溢れていて、人望にも才能にも恵まれて……。それなのに、この世で一番尊敬するリバール先生の弟子の座までを昭さんに奪われて……。でも、でも……、
“僕たちは、バイオリン科のトップ3なんだから、それなりの演奏をしなきゃ意味がないじゃん”
昭さんの研究室で、つばさ君の歯に衣をきせぬ酷評に苦笑した事も、
つばさ君と昭さんのバイオリンの音色も、
ちっとも大学に来ない迅さんの噂話に花を咲かせながら、くるみちゃんや、みんなと一緒に飲んだお茶も……私は、全然、嫌いじゃなかった。
私、何で昭さんのお茶に毒なんて入れてしまったんだろう。
才能があるのに努力家で、真面目で、優しくて、本当に彼が大好きだった……のに。
そう思うと、じわりと涙が瞳に浮かびあがってきた。香織は、紗がかかったように、ぼやけてゆく思考の中で、自分が乗ったタクシーの傍を過ぎ去ってゆく、対向車の流れをぼんやりと見つめていた。
……がその時、
香織が手にした坂下由貴の携帯電話が、突然、音を奏で出したのだ。
香織本人だけでなく、運転手までが、そのメロディーに飛び上がりそうなほど驚いた。
“メール、1件”
切ったはずの電源が、何時入ったのかは知る由もないが、手にした携帯電話には、メール着信のメッセージが表示されている。
一体、誰から?
気はすすまなかった。そして、不安な気持ちを押しとどめる事もできなかった。けれども、行き詰まってしまった今の状況から逃れたい一心で、香織は、恐る恐る届いたメールを開いてみた。
“*1に電話をかけて。大丈夫、昭は藤野を恨んじゃいない”
一瞬、胸が締め付けられそうに痛くなる。
このメールの送信者は……
その名が脳裏に浮かんだ瞬間、藤野 香織は、携帯電話の短縮キー“*1”を押し、それに登録されていた電話番号をコールした。




