第2話 由貴と迅
それは、先週の事。
「薬学部の坂下由貴が、万引きの常習犯だって?」
自分に割り当てられた第一研究室で、昭は、香織に見せられた携帯電話の写真に驚き、バイオリンの弦を持つ手を止めた。
「これが何よりの証拠! 前から、あの人の携帯が2時20分に決まって鳴るのに気付いてから、ずっと様子を覗ってたの。そして、私なりに考えてみたわ。購買部のアルバイトは午後2時30分に早番と遅番の交代をする。引継ぎをしている少しの間、売り場は人の目がなくなるの。坂下由貴はその隙をついて商品を盗るのよ。私は、ついにその現場をスマホに収めたってわけ」
香織が持つ携帯電話には、由貴が購買部の陳列棚から文房具を盗ってポケットにしまう様子が克明に映しだされていた。
「でも、何でそこまでして……坂下さんの実家って、そこそこ流行ってる開業医じゃなかったっけ」
「理由なんか知らないわよ。犯罪心理だったら、昭さんの……ほら、あの山に篭ってる変わり者の友達にでも聞いてみたら」
友達? 桐沢迅の事を言ってるのか。
確かに、迅は、昭の高校時代の同級生で、その頃はけっこう仲が良かった。T大の芸術学部に入るために、一日に何時間もバイオリンを引き続ける日々に嫌気がさしていた昭にとって、平気で学校をさぼって好き勝手に過ごしている迅との会話は、一種の清涼剤みたいで楽しかった。
だが、2人が同時にT大に合格してから、その関係は少しずつ歪んでいった。いくら理事長の息子とはいえ、ろくな努力もなしに偏差値の高いT大医学部に入り、ぶっきらぼうなわりには人望が厚い、桐沢迅の事が昭は疎ましかった。そして、普段、女の子なんて眼中にない迅が、親しげに話している ― 坂下由貴 ― は、別の意味でも彼にとって気にかかって仕方ない存在だった。
ぼんやりと考え込んでいる昭に、香織は少し苛立った様子でこう言った。
「私、これを大学に提出しようと思ってるの。だって、坂下さんの万引きは1度や2度じゃないのよ。黙って見てたら彼女のためにもならないわ」
「でも、そんな事をしたら、彼女は大学に居辛くなる」
「それは、自業自得というものよ」
冷たい香織の声音には、どう考えても“由貴のため”なんて感情は感じとれなかった。昭が気にかけている“坂下由貴”は、彼の恋人候補に名をあげている彼女にとって、邪魔者以外の何者でもなかったのだから。
「とにかく、このスマホはしばらく僕が預かっとく。大学に報告する云々は、坂下さんに詳しい理由を聞いてみてからでもいいと思うんだ」
それまでは、ここに入れとくと、昭は香織の携帯を研究室の小型金庫の中に放り込み、がちゃりと鍵をかけてしまった。
「それ、私の携帯よ! 金庫なんかに入れたら、私が困るわ」
「こうでもしないと、君はこれを大学に提出してしまうだろ。1週間でいいから、時間をくれよ。僕はプライベートと大学用に2台、携帯を持っているから、それまでは大学用の携帯を貸してやるよ」
「でもっ!」
するとその時
「昭、弁当ってここぉ?」
そんな声と共に、一人の男が昭の研修室に入ってきたのだ。
岬良介22歳。
T大の近くの回転すし屋で職人をしている。短く刈り込んだ髪とつりあがった目が、けっこう厳しい印象の顔つきなのだが、彼も迅と昭の高校の同級生で、実家のすし屋が不振のため大学進学をあきらざるを得なかった経歴をもっている。
「あっ、そうそう。ここでいいんだよ。今日は、練習で遅くなりそうだから、僕が出前を頼んだんだ」
良介の登場に、昭はほっと胸をなでおろした。とにかく、香織との話をさっさと終わらせてしまいたかった。
「練習があるんだ、先生を待たせちゃ悪いだろ。だから、さっきの話はここまでだ」
弁当の包みを受け取り、香織をせかして研究室の外に出ると、昭は扉の鍵を閉め、良介と共に廊下を歩き出した。その時、さりげなく後ろを振り返った良介は、悔しそうな香織の表情にくすりと頬をほころばせた。けれども、すぐに向き直り、昭に、
「そういえば、今日、迅が帰ってきてるんだ。夜に俺んちの寿司屋に来るそうだから、お前も来ないか。あいつ、週末からは、また谷川岳だっていうじゃないか。せっかく大学に入ってんのに、もったいない話だな」
少し非難めいた口調の良介を皮肉るように昭が言った。
「僕は、これでも迅と違って真面目な大学生だからね。悪いけど、店には行けない。演奏会も近いし、まだ、やらなきゃいけない事が山ほどあるんだ」
「なんだ、えらく冷たいじゃん。元同級生の仲だっていうのに」
「そんな事ないよ。本当に忙しんだ。せいぜい、迅には、よろしく伝えておくれよ」
お愛想ばかりの笑顔を浮かべて、良介と香織にその日の別れを告げた後、昭は小さく吐息をもらした。
できれば、迅とはなるべく話はしたくない。勝手気ままなやり方を平気で押し通せる彼を見ていると、毎日を練習漬けにしていないと不安でたまらない自分が、だんだん惨めに思えてくる……。
バイオリンの指導教員が待つ教室へたどり着くまでの長い廊下。迅の事を考えながら、その上を歩いてゆく昭にとって、その長さはいつもの何倍にも長く、そして陰鬱に思えて仕方なかった。
* *
そして、話はT大の購買部に戻る。
「毎日、毎日、午後2時20分に携帯を鳴らして購買部で万引きを繰り返してるのは、この人じゃない!」
香織に“万引きの常習犯”と名指しされた由貴は、ただ俯いて体を小さく震わせていた。香織がその現場を携帯のカメラでとらえている事は、昭から聞いて知っていた。でも、その映像は、決して“同じ事”を繰り返さないという約束で消してくれるって言ってたのに
……それが、盗まれた小型金庫に入っていた携帯電話だったなんて。
香織さんたちは、金庫を盗んだのも私だと疑っているに決まってる。それは違うわ! でも、それなら誰が……。
ところが、
「香織っ、いい加減にしろ!」
普段声を荒げる事のない昭の剣幕に、藤野香織もさすがに言いすぎたかと口を噤む。だが、元はといえば責められて当然なのは、香織ではなく由貴の方なのだ。昭は少し諌めるような口調で由貴に言った。
「僕との約束は覚えているよね……で、坂下さんは、ここで何をしようと思っていたの」
何ともいえない重い空気が由貴の心を締め付けた。
そう、止めようと思っていたのに……もう、止めようと。
その時、
「あれ? 由貴さん、こんな所に来てたんだ。あ、昭さんに香織さん、こんにちはっ!」
息の詰まる空気を一掃する元気な声が響いてきたのだ。
「くるみちゃんか」
廊下の向こうから駆けて来た明るい眼差しの少女。昭は、その屈託のない笑顔に心の底からほっと安堵の息をもらした。
「わ、私、急いでるから。今日はこれで帰るね。くるみちゃん、またね」
うつむいた顔を上げもせずに走りさっていった由貴の様子に、くるみは腑におちない顔をする。
「今日の由貴さんって変。ずっと急いでばかり……」
すると、由貴と入れ替わるように、くるみの視界の中に購買部に向かって歩いてくるつばさの姿が入ってきた。別に購買部に用もなかったが、とりあえず姉の行くところにはどこへでもついて行く心意気の弟は、昭の姿を見つけて意外な顔をした。
「昭さん、この時間にこんな所にいていいの? 今日は、コンクールのバイオリン部門の優勝者が演奏会の練習する日じゃなかったっけ」
「明日に変更されたんだよ。っていうか、僕が変更してもらったんだ。演奏会で発表するオリジナルの楽曲に、まだ満足できなくってさ」
つばさは、それに、ふぅんと気のない返事をした。
* *
香織に万引きの前歴を指摘され、大学の購買部から悲壮な思いで走り去った坂下由貴は、携帯電話を握り締め、祈るような気持ちで相手が電話に出るのを待った。
5回に1回出ればいいところのその相手の声が、
「何だよ。こんな中途半端な時間に」
電話の向こうから響いてきた時、由貴は心底ほっと胸をなでおろした。
時間は午後4時
「もしかして、今、山の中?」
「山小屋だよ」
携帯の向こうの声が訝しげに問う。
「……で、何の用」
その質問が終わるのを待ちきれないように、由貴が言った。
「迅さんに、どうしても聞いて欲しい話があるの。だから、帰ってきて、お願い!」
「話があるなら、今、聞くよ」
つっけんどんな態度をとってみたものの、由貴の様子は明らかに普段とは違っていた。由貴の電話の相手、“桐沢迅”は、少し声を落として言った。
「何かあったの?」
「みんなに……昭さんと、香織さんに……万引きの件を知られてしまった」
一瞬の沈黙の後、
「ちょっと、待って。場所を変える」
山小屋には、迅の他にも仲間たちがいるのだろう。途絶えた迅の声が、再び携帯から聞こえてくるまでの短い時間が、由貴にはとてつもなく長く感じられた。
「もしもし……坂下、お前、あんなに止めると言っていたのに、あの悪癖をまだ続けていたんだな」
「……」
「もう、すっかり直ったと俺は安心していたのに」
怒ったような迅の声に由貴は言うべき言葉が見つからない。仕方がない事だったのだ。迅が大学に来なくなってから、彼女は望みもしない方向へ堕ちて行く心の拠り所を失くしてしまっていたのだから。
「携帯に……香織さんの携帯に万引きの現場を写されてしまった……。くるみちゃんのメールで昭さんの研究室から小型金庫が盗まれたのは知ってるでしょ。あの中に入っていたのが、その携帯だったの。多分、香織さんたちは、金庫を盗んだのは私だと思ってる。でも、信じて! それだけは違う」
何かを考えてこんでいるのか、迅の返事はすぐには返ってこなかった。だが、
「……土曜日の午前なら、会えると思う」
相変わらず愛想がなかったが、由貴はその言葉にぱっと表情を明るくした。
「コンクールの優勝者の演奏会がある日ね? ちょうどその日は授業もないわ。何時にどこで? 私は、迅さんの都合に合わせるから」
「午前10時に、いつもの喫茶店で」
わかったわと、由貴が答える前に、もう携帯の通話は切れていた。ツーツーと規則的に響く機械音だけが耳に響いてくる。それでも、由貴の心は高鳴っていた。
迅に会える。
それを思うと、由貴は、午後2時20分になるのを待って、購買部で万引きを繰り返している自分が、どうしようもなく愚かに思えてきた。
あの時、迅さんに万引きの現場を見られてからずっと、彼は私の相談相手になってくれていたのに……
それは、由貴がT大の薬学部に合格して間もない頃だった。
“あんなに金をかけて予備校にも通わせて、家庭教師までつけてやったのに、結局は薬学部どまりか”
世間では、入学するだけでも羨望の的となるT大合格の通知にも、開業医である由貴の父の言葉は辛辣だった。男の子に恵まれなかった彼は、一人娘の由貴を自分の母校であるT大の医学部に入れ、跡継ぎにするためだけに愛情を注いできたような人物だった。
“T大医学部以外は屑と同じだ”
そんな父の言葉に母も賛同し、子供の頃からずっと、T大をめざして勉強してきた由貴だったが、実は医学よりも化学の方に興味があった。医者になるより、薬剤師かできれば化粧品会社等で新製品の開発の仕事をしたい。それだから、彼女にとっては薬学部に入った事は間違いではなかったのだ。だが、半強制的に受験させられたT大の医学部の不合格が決まってからは、家には由貴の居場所はなくなってしまった。
喜びたい気持ちを心の奥底に押し込めて、薬学部の隣のエリアにある医学部の学生を惨めな気持ちで眺めながら大学に通った。
そんな毎日が続いたある日、足りなくなった文房具を買いにやってきた大学の購買部で、由貴はふと、ある事に気付いてしまったのだ。
アルバイトの店員が、誰もいない……
購買部のレジ上にある壁掛け時計の時間は、午後2時30分
とっさに手前にあった陳列棚から、ボールペンを一つ手にとりポケットにしまった。心臓が咽喉から飛び出しそうに思うほど、どきどきと高鳴っていたが、由貴はそのまま、購買部から出て行った。
品行方正と言われた自分が“万引き”してるなんて、父と母が知ったら、どんな顔をするだろう? それを思うと小気味よさが心の底から込みあがってきた。
購買部のアルバイトは午後2時30分にいなくなる。
携帯電話を取り出し、アラームをその時間に間に合うように10分前に設定した時から由貴の万引きの習慣は始まった。
続けているうちに、“止めなければ”と、だんだん後ろめたさが増してきた。けれども、その気持ちに逆らいながら商品に手を伸ばす事が別の意味で彼女を刺激した。黒い魔法の呪文をかけられたように、携帯電話が鳴るごとに由貴は購買部へ足を運ばずにはいられなくなった。
ところが、そんな悪癖を続けていたある日、購買部でいつものように品物に手を伸ばした時、
「もう、止めろよ」
由貴は突然、自分の手を掴んだ男の声に、ぎょっと後ろを振り返った。
桐沢迅……
誰もが彼の名前を知っていた。長身で端正な顔立ちだけでも、人の目を引くには充分だったが、T大理事長の息子であるにも関わらず、一般入試で医学部を主席で合格したのは彼だったと、どこからか噂が聞こえてきていた。
「ちょっと話さないか。そこの喫茶店で」
それが、由貴と迅との出会いだった。