第23話 迅の検証~催眠術
“毒物が混入されていたのは、寿司ではなく、お茶の方だった”
そう仮定するならば、昭は写真の中で持っている湯飲みを“誰”から渡されたんだろうか。この場合、昭に一番、湯飲みを渡しやすかったのは、参加者の中の“誰”だ?」
迅の問いに良介が言う。
「それが、迅が警察発表が間違ってるって思った理由か……そういわれてみれば、そんな気もするが……でも、あの時に、誰が昭に湯飲みを一番渡しやすかったかって聞かれても、俺にはちょっと……」
自分の隣で、何か言いたげに口をもぞもぞさせている義弟に、迅は人の悪い笑みを浮かべて言った。
「つばさ、この昭の写真をもう一度よく見て俺の質問に答えろよ。彼の後ろに写っている、向かって右側のカウンターの上には何が置いてある?」
毒物混入事件を終わらせるのは、あんたの役目だろ! 何で僕をモニターにするんだよ。
と思ってはみても、つばさは、くるみの可愛い携帯電話をどこかの副将軍の印籠みたいに目の前にかざされては、それに目をやらないわけにはゆかない。
写真の昭さんは、カウンターを背にしている。これは、“こっちを向いて”って、くるみに後ろから掛けられた声に答えて、彼が振り返ったからだな。
「写真の向かって右側っていうと……由貴さんが座っていた側って事か。えーと、カウンターの上に湯のみが二つかな」
写真の右隅に、白いカーディガンの袖の部分だけが写っている人物は、多分、坂下由貴なのだろう。
「その二つの湯飲みは、誰が使った物だと思う?」
迅の問いに、つばさは少し間をあけてから、こう答えた。
「順当な考え方をするなら、一つは昭さんで、もう一つは由貴さんが使った物だよね」
「なら、写真の昭が持っている湯飲みの事は、どう考えたらいんだろう? 回転寿司屋で一人で幾つも湯飲みを使う人なんて滅多にいないだろ。普通の状態であれば、昭は自分が今まで使っていたカウンターにある湯飲みからお茶を飲むはずなんだ。けれども、この時の昭はワサビが効きすぎて一刻も早く、お茶を飲みたかった。そんな時に、“はい、昭さん”って都合よく、横からお茶を渡されたとしたら……」
「そりゃ、喜んで受け取って、中のお茶を飲むだろうね」
つばさの答えに、迅は満足げに頷いてから、カウンター席でそっぽを向いてしまっている女子大生に視線を向けた。
「……って、うちの義弟が言ってるんだけど、それに関して何かご意見は? あの時、ちょうど、― 昭の左側 ― そして、くるみの依頼で後ろを振り向いた昭の右手に一番近い位置にいて、しかも“お茶が専売特許”の藤野香織さん」
ところが、
「みんな、この人の暗示にかかっちゃ駄目よ!」
と、藤野香織が突然、声を荒げて言った。軽蔑を露にしたような表情は、怒っているというよりは、支離滅裂な説を繰り出す医学生を哀れんでいるかのようにも見てとれる。
「専門用語をところどころに織り交ぜながら、言葉巧みに皆を騙そうとするところは、さすがは、心理学に精通したT大生って、言いたいところだけど、迅さんが言ってる事って、確かな証拠になる物が一つもないじゃない。私が“分別強迫症”だって言ってるのも、あなたの勝手な判断だし、おまけに、その写真を使って、頭脳明晰な探偵ぶって、いかにも私が、昭さんに猛毒入りのお茶を飲ませてから、その湯飲みを自宅に持ち帰ったって言いたげだけど、迅さんが、私のマンションで見つけたっていう、アジ化ナトリウム付の湯飲みだって、後であなたが用意した物だって言われてしまえば、それで終わりなんじゃない? おまけに、義弟のつばさ君まで上手く口車に乗せて、私を犯人に仕立て上げようたって、そうはいかないわよ。」
香織の言葉に、つばさは胸の鼓動を高めながら、義兄の顔を覗った。だが、迅は顔色一つ変える様子もない。
「別に俺は、警察官でも検事でも何でもないから、犯人を逮捕しようとか、裁判で勝てる証拠を見つけ出そうとか、そんな気持ちはさらさらないんだ。俺の第一の目的は、事件の真相を暴き、昭をあんな目に合わせた犯人をつきとめて、罪を認めさせる事なんだよ」
だから……と、前置きしてから、迅は香織をきつく睨めつけた。そして言った。
「もう少し、俺の話につき合ってみたら?」
無言でカウンターに座りなおした藤野 香織は、苦々しく唇を噛みしめている。
“棄権”できるものなら早々に宣言をして、この場を立ち去ってしまいたいと、つばさは、ややお座成りな態度になってきた。
「ねえ、迅兄さん、じゃ、今度は僕の質問に答えてよ。兄さんは、さっき言ったよね。毒物混入事件に使われた後の湯飲みを回転寿司屋の床から香織さんが回収したのを見てたのは、“僕”で、そして、何も見ていなかったのも“僕“だって」
ふぅと一息ついてから、つばさは出来うる限りの胡散臭い目をして、義兄を睨めつけた。
「それって、一体、どういう事?」
「気は乗らないけど、それは、やっぱり避けては通れない話題……か」
いつになく歯切れ悪い調子でそう言ってから、まあ、大丈夫かと、迅は一人で納得したように頷き、カウンターで憮然と黙り込んでいる、女子大生に向かって声をあげた。
「藤野、せっかく、ここまで足を運んでくれたんだから、ちょっと答えて欲しい質問があるんだけど」
「質問? 私に?」
「そう。うまい具合に、事件当日も、あんたは今座っているその席に腰掛けていた。そして、昭は俺のこの席に。そこで、話を“昭が右手に持った湯飲み”に戻したいんだけど、昭は“お茶”を飲んだ後に回転寿司屋の床に倒れこんだ。……その時、昭が手にもっていた湯飲みはどうなったと思う?」
「どうなったって……? 言ってる意味が全然、わからないわ」
ぷいとそっぽを向いてしまった香織に、
「わからないって? ならば……」
と、迅は、自分が座っている手前のカウンターに置かれたままの湯飲みに手を伸ばした。先ほど、寿司職人の良介が、店のティーパックを使って皆に入れてくれた、あのお茶が入った湯飲みだ。ぐいと一気にその中身を飲み干す。
「えっ、迅兄さん、それって、飲んでいいの?」
つばさは、義兄の行動にぎょっと目を見開いてしまった。
だって、飲むなんて、もっての他だ。そのお茶には手は出すなって、迅兄さんは言ってたじゃないか! きっと、あのお茶には香織さんが何か細工をしている。そうさせる為に兄さんは、わざと僕に山の話をし続けて、彼女に背を向けてたと、僕は思っていたのに。
「いいんだよ。“俺が飲むお茶”は」
意味深な笑みを、つばさに向けると、迅は、空になった湯飲みを手に持ったまま、言葉を続けた。
「口で説明するより、実際にやってみる方がわかりやすいだろ。あの時の昭も、今の俺のように右手に湯飲みを持っていた。……で、彼は、その中のお茶を飲み、そして、食べた物を吐いて前に倒れこんだ。すると、手にした湯飲みは……」
ここで、迅は座っていた椅子から前に倒れこむフリをしてから、手に持った湯飲みをぽろりと床に落としてみせた。
「プラスチック製の湯飲みは割れる事もなく、床に落ちて転がってゆく。その方向は写真に写っている昭の体の向きから判断して、回転寿司屋の出口の方かな。まさか、倒れる寸前に、後ろに湯飲みを投げ上げるなんて事はしないだろうし、猛毒に中毒して床に倒れた人間がいつまでも、湯飲みを手に握っているはずもない。ましてや、それをカウンターに置いてから倒れるなんて、有り得ない事だから」
この場に集まった面々の視線は、迅の手を離れて回転寿司屋の床に転がる“湯飲み”に釘付けにされてしまった。
良介が言う。
「なるほど、確かに、湯飲みに関しては迅の言っている事は理にかなっているかもしれないけど、それでも、その湯飲みを香織さんが回収したって証拠にはならないよな。そこの天才少年も同じ様な事を言ってたけど、名指しで香織さんを犯人だと決め付けつけるような今の迅の態度は、やっぱり、良くねぇんじゃないのか。そこまで人を疑うなら、それなりの根拠ってもんを説明してもらわないとな」
「根拠か?」
「そう」
すると、迅はこう答えた。
「それは……俺が義弟のつばさにかけた“催眠術”だよ」
「催眠術ぅ!」
「つばさは、IQ160以上の天才児といわれる、いわゆる“ギフテッド”ってやつだ。こいつの記憶中枢が並じゃないことは、皆もとっくに知っているだろ。事件の始まりから終わりまで、この回転寿司屋には昭がコンサートで演奏した“バイオリンソナタ”が流れていた。それを義弟は、ずっと聞き続けてたんだ。だから、おれは、その事を彼の深層心理に入り込む媒体にして、つばさに催眠術をかけ、その記憶の中を覗かせてもらったってわけだ」
その台詞が終わらないうちに、
「何を言い出すかと思ったら、催眠術なの? そんな事で私を疑ってただなんて、信じられないわ。可笑しい。迅さん、あなた、人を診るより、自分が一度、診察してもらった方がいいんじゃないの」
藤野 香織のあざけったような笑い声が響いてきた。
良介も、元同級生という手前、あからさまにはしないまでも、かなり訝しげな目をして迅の方を見やった。ただ、迅から催眠術をかけたと告げられた、当のつばさだけは笑う気になれず、どきどきと高鳴る胸の鼓動を抑えるのに、えらく苦労をしていたのだ。
バイオリンソナタ。頭に響く迅兄さんの声。回転寿司屋の床……。
どうしてだろう? いくら、それらを思い出そうとしても、薄いベールをかけられたように記憶が曖昧で、何かが僕を邪魔してる。
ぼんやりと自分に視線を向けてきた義弟。
迅は少し肩をすくめ、それから、再び言葉を続けた。
「みんながどう感じようとも、俺は“催眠”の信憑性はかなり高いと思っているんだ。例えば、精神治療の一環として、患者に催眠をかけ幼児期にまで記憶を逆行して障害の原因を取り除きながら、カウンセリングを進めてゆく方法があるんだが、この催眠によって呼び戻された幼児期の記憶は、普段では本人が全く忘れてしまっていた物だった事が多々あるんだ。それでも、その記憶は存在する。人間の心に深く沈みこみながらね。
少し変わった例では、過去に16の人格に分裂した多重人格患者に催眠をかけ、それぞれの人格を個々に呼び出して、最終的に一つの人格への統合に成功したなんて話もあるくらいだ。これだって、主人格である本人は、普通の状態では、他の15人の人格の事を尋ねられても何も意識ができなかったんだ。潜在した意識や記憶を催眠術の力を借りて外側へ呼び起こす。それらが、まがい物であるとは、俺は思わない。ましてや、つばさのように類まれな能力の持ち主の記憶ならば、その精密度を疑う事は俺にはできない」
「兄ぃさん、迅兄さん」
蚊の鳴くような情けない声しか出せない自分が歯がゆいけれど、つばさは渾身の力をこめて、自分の内面を支配しだしたスナフキンの実の名を呼んだ。
僕に催眠術をかけたって?
そんな風に言われると、確かに僕は、僕の中身を誰かにいじられたような気がしてならない。だけど、こんな奴に自分の心を好きに覗かれてたまるもんか。
「精神医学の薀蓄はもう聞き飽きたから、いい加減に答えを聞かせてよ。何故、香織さんが事件に使われたアジ化ナトリウム付きの湯飲みを回収するところを、“見ていて”“見ていなかった”のが“僕”なのかを」




