第1話 ギフテッド
犯人は、なぜ罪を犯したのか。
犯行の結末に選択肢はない。その犯人が変わるはずもない。ただ、結末に至る過程は複雑に絡み合っている。加害者と被害者、そして傍観者の思惑。それが、さまざまに交錯して……。
* * *
事の始まりは、11月の始めに、東京都の郊外にキャンパスを設けるT大学内に起こった小型金庫の盗難事件だった。
T大学は都内でも有数の総合大学で、レベルの高さもさることながら、その芸術学部から、多数の有名人を生み出している事でも世間にその名を知られていた。
“学内で盗難事件が起こりました。被害者は、迅兄さんもよーく知ってる人。さて、誰でしょう”
T大の音楽科研究室の一室で、くるみは、キーボードぺたぺたとたたきながら、そばにいる弟のつばさに悪戯っぽい目を向けた。
「クイズ形式にして、どうすんだよ。あの人がそんなメールに答えるとでも思ってんの」
闇雲くるみ、14歳、T大学と同じ敷地にある付属中学の2年生。そして、弟の名は、闇雲つばさ、13歳。こちらは、れっきとしたT大学、芸術学部の学生だ。
簡単に言ってしまえば、姉のくるみは並の中学生。そして、弟のつばさは、その桁はずれの音楽的才能のために、超とび級で中学・高校を飛び越えて、特待生として大学に迎え入れられた天才児なのだった。
「毎度毎度、兄さんにメール出すのもいいけれど、何で僕の研究室のパソコンを使うの。家に帰れば、くるみだって自分のがあるんだろ」
渋い顔のつばさに、くるみは事も無げに言った。
「だって、ここのパソコンの方が家のよりスペックが上なんだもん」
大きな茶色がかった瞳でにこりと笑う。血色のいい頬に軽くかかって、肩でウェーブした髪が何かいい。つばさは、つい、その知能指数とは反比例した幼い笑顔をくるみに返してしまうのだった。
駄目だ……可愛い。あの目で見つめられると、もう何も言えない。
……んな事言ったって、実の姉だろ。これは倒錯の世界だよ、倒錯の世界! それでも、可愛いもんは可愛いんだよなぁ。
つばさは、その倒錯の世界の住民ゆえに、毎日のくるみによる研究室の侵入を阻止できないでいるのだ。
その時、研究室のドアが開き、一人の女子学生が入ってきた。髪を1つにまとめあげ、白衣をまとったその姿は、知的な女子大生という言葉がしっくりと当てはまっていた。
「くるみちゃん、来てたの。そうかあ、迅さんにまたメールを打ってたんでしょ」
この女子大生の名前は、坂下由貴、20歳。薬学部の3回生で、医学部に在籍する、くるみとつばさの兄、迅とは顔なじみらしい。その繋がりで、由貴までが、この研究室に出入りをするようになった。
僕は兄さんの友達とまで、仲良くする気はないんだけどなと、つばさは、少しむくれて、くるみの手元を覗き込んでいる女子大生に目をやった。
「……で、今日の話題は、あれでしょ? 例の盗難事件」
「そうなの。昭さんの研究室の金庫が盗られたなんてね、昭さんと迅兄さんは大の仲良しだもん。これは、知らせるっきゃないでしょ」
くるみの言葉に由貴は、かすかに眉をひそめる。
大の仲良し? まあ、以前はね……
その気持ちを知ってか知らでか、つばさが二人の会話に割り込んできた。
「盗られたって言ったって、金庫の中に入っていたのは、昭さんの携帯電話一台だろ。そんな事、わざわざ、兄さんに知らせなくたっていいじゃないか。あの人、もうすぐ冬だっていうのに、今、登板中だろ。“魔の谷川岳”とかにさ」
「そうなのよ。医学部に1年在籍したきり学校を休んで、山に篭って……もう、2年目」
由貴は、ため息をつく。
「このままじゃ、単位とれないままに大学から追い出されちゃうわよ」
「別にいいんじゃないの。医学部たって、精神医学を希望してんだろ。難しい手術するわけじゃないし、でも、あんなに浮世離れしてて、精神科医なんかになれるのかな。迷える子羊をさらに迷わす医者になったりして」
つばさと由貴の会話に、くるみは、“ついてけない”と口をとがらせたが、その時、
「あっ?」
突然、鳴り響いたアラーム音に、由貴がはっと自分の携帯電話に目を落したのだ。
時刻は午後2時20分。
「わ、私、ちょっと用を思い出したわ。また、今度、また今度ね」
慌てた様子で、由貴は、つばさの研究室から出て行ってしまった。
「また、今度って、くるみは由貴さんと何か約束でもしてたの」
怪訝そうに尋ねる、つばさに、くるみは“ううん”と首を横に振った。
「でも、由貴さんって、今時、まだ、ガラケーのアラームなんて使ってるんだね。それに、あんなに慌てて、ちょっと変だったね……」
まだ、耳について離れない携帯のアラーム音。くるみは、少し不安な気分で、由貴が出て行った研究室の扉に目をやった。
* * *
魔の谷川岳
といっても、谷川岳は、群馬県と新潟県にまたがる三国山脈にあるれっきとした日本百名山の一つである。ただ、複雑な地形と変わりやすい天候のため、この場所での遭難死が世界の他の山と比べても、飛びぬけて多いのは事実なのだ。
その場所の山小屋に、桐沢迅がいた。21歳。T大医学部の2回生、年齢の割りに学年が低いのは、坂下由貴が言った通り、T大で1年ほど基礎医学を学んだ後は、休学してそのまま山に篭ってしまったからだ。
くるみと、つばさの兄ではあるが、母親が違う。迅の母はT大の理事長でもある父と早いうちに離婚し、今は別の夫がいる。くるみと、つばさの母は迅の父の後妻であるが、その人は数年前に病気で亡くなった。
結局、“母親”という拠り所をなくした子供たちを、彼らの父は、手っ取り早く、自分の息のかかったT大とその付属中学に取りまとめたというわけだ。
山小屋のロッカーにザイルを仕舞いながら、迅はふぅと、ため息を吐いた。
2年間も山に篭っていたものだから、丹精だと女の子にもてはやされた肌は日に焼け、長身で細身だといわれた腕や足はすっかり筋肉質になってしまっている。それでも、くるみなどは、その精悍な感じもいいと、やたらとまとわりついてくる。
望んでもいないのにそうなってしまうのだから、もてない知人は羨ましがるが、それも彼にとっては迷惑な話だった。
「迅、また、妹さんからメールが来てるぜ。しっかし、飽きもせず、よくもこう頻繁に、打ってこれるな。それもこれも、お前が携帯のアドレスを教えてやらないからだ。なぁ、たまには返信してやれよ。可哀想じゃないか」
山小屋のパソコンを置いてある机から、仲間の男から掛けられた声に迅は、
「妹ってたって、腹違いなんだけどな……また、代わりに打っておいてくれよ。内容は適当でいいからさ」
「また、そんな冷たい事を……あれっ、お前の大学で盗難事件があったんだって。音楽科の研究室から金庫がか? 金、目当てのこそ泥かな。被害者はお兄さんもよーく知ってる人だってよ」
「あの大学にそんな奴いたっけな」
くるみからのメールを読み上げる仲間の声にも、迅は興味を示さない。すると、添付してあったファイルを開きながら、男が嬉しそうに言った。
「おっ、写真が添付してある。へえ、この二人組がお前の義妹弟、女の子の方がくるみちゃんか。かっわいい! 男の子は小さいけど、なかなかのイケ面だ。くるみちゃんは中学生だったな。男の子は小学5年生ってところか」
「弟は、幼く見えるけど13歳だ。あいつは、T大の大学生だよ」
「……えっ」
きょとんと目を見開いた仲間の顔を見て、迅は初めて少し笑みを浮かべ、仲間の男のそばの椅子に腰を下ろした。彼の顔を覗き込むように言う。
「ギフテッド(gifted)ってやつだよ。ギフトは“贈り物”すなわち、神から与えられた才能をもった子供。弟のつばさは、IQ160以上の3万人に一人いるか、いないかのギフテッドだ。特に音楽面において、類いまれな才能を持っている」
「へえっ、すごいな。親父さんはT大の理事長だっけ? もう、鼻高々なんじゃないのか」
ところが、迅は微妙に顔をしかめた。
「そうでもないな。あの年で大学生なんて、世間は奇異な目でみるだけだよ。多少の嫉妬を交えてね。弟はそんな奴らを見下せる性格だが、ギフテッドの中には、自分が他と違う事を嫌って、わざと能力のないフリをしたり、精神的にうつになってしまう子供も多くいるんだ」
ふぅん。さすが精神科医志望の奴は言う事が違うなと、感心しながら、迅の仲間の男は再び、パソコンのメールに目を向けた。
「……えっと、今度はいつ帰ってくるんですか。帰ってきたら一緒にご飯、食べに行きましょうって、由貴さんが……って、由貴さんって誰だよ。まさか、迅の彼女?」
その台詞に、
「ただの知り合いだよ。学部の教室が近かっただけの」
迅は、ぶっきらぼうにそう答えた。
* *
T大学の構内
つばさの研究室を飛び出し携帯電話のアラームを切ると、由貴は落ち着かない様子で階段を下りていった。広い構内の中央エンタランスを抜けると、購買部に向かう。ここは、文房具や軽食、T大のオリジナルグッズ等を販売している場所だ。
販売担当の学生アルバイトが、交代のために持ち場を離れるのを見届けると、由貴は少し緊張した面持ちで、文具売り場の中へ入っていった。
フラッシュの眩しい光が、由貴の手前できらめいたのは、その時だった。
「懲りない人ねえ」
華やいだソプラノの声。どきりとした表情で振り向いた由貴の後ろで、
「ね、言ってた通りでしょ。また、証拠写真が撮れちゃったわ。はっきり、くっきり」
T大 芸術学部音楽学科、4回生の藤野香織22歳 は、戸惑ったような表情の同級生、山根昭に、得意げに微笑み、手にした携帯電話をちらちらと由貴の方へ掲げてみせた。
「一体、何のつもり? いくらあなたが、昭さんの友達だって、私にも我慢の限界ってものがあるわよ」
「そんな事言っていいのかな。それより、気付いた? このスマホ、前のと違ってるでしょ。昭さんが貸してくれたの。だって、私のは昭さんが研究室の金庫に入れてしまって……」
「えっ?」
由貴に、香織はきつい眼差しを向けると、語調を強めてこう言った。
「盗まれちゃったから」
「香織、もう止めろよ。聞いちゃいられない」
気まずい雰囲気にたまりかねて、声をあげたのは昭だった。いかにも育ちが良い御曹司めいた顔立ちに銀縁の眼鏡がよく似合っている。くるみの言葉を借りれば、“知的でクール”な昭さんと言ったところか。
実際に、山根昭は、T大の学生の中でもトップクラスの資産家の家に生まれついていた。そして、山根昭、藤野香織、13歳の特待生 ― 闇雲つばさの3人が、音楽学科の期待を一身に背負う、T大芸術学部のホープなのだった。
昭の言葉に香織は一瞬、口ごもり、由貴は、ほっとした面持ちで二人の様子に目を向けた。それが勘に触ったのか、香織が声を荒らげた。
「何よ、まるで私の方が悪いことでもしてるみたいに。毎日、毎日、午後2時20分に携帯を鳴らして、購買部で”万引き”を繰り返してるのは、この人じゃない!」