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第16話 迅の秘密

 坂下医院の近くの児童公園。

 11月も終わりになれば、早朝の空気には冷やりとした寒気が篭っている。園内の木々のほとんどは落葉し、秋の景色は、冬の気配へとさまを変えようとしていた。


 公園のベンチに座り、自分の横で、くしゅんと一つ、くしゃみをした少年の姿に由貴は言う。


「あんな場所にずっと居座ってて、風邪をひいたんじゃないの」

「そう思うなら、もっと早く出てきてくれれば良かったのに」


 一瞬、沈黙してから由貴は小さく笑みを返した。


「意外だったな。つばさ君が一人で、私に会いに来るなんて」


 考えてみれば、つばさと由貴が差しで話をするなんて、これが初めてかもしれなかった。仲良くしていたといっても、二人の間には、いつも姉のくるみか、義兄のはやてがいたのだから。


「もしかしたら……迅さんに頼まれた? 私の様子を見て来いって」


「うーん、頼まれたわけじゃないけど、仕方がなかったんだ。だって、迅兄さんが、“俺はもう由貴さんに、会わないほうがいいんじゃないか”って落ち込んじゃってるから」


 由貴は複雑な表情を浮かべた。万引依存症の件で、迷惑をかけてしまった自分を嫌うならまだしも、何故、迅が落ち込む必要があるのだろうか。言うべき言葉を見つからず戸惑っていると、


「ねえ、由貴さん、もう隠しっこなしで、全部話してしまわない? 昭さんの毒物混入事件を機に、僕らはすでに色々な事を知ってしまってる。でもね、それは、すごく一方的な情報で、肝心の中心人物……“由貴さん”からは何も聞けずにいたんだから」


 のど元に詰まった気持ちを一気に吐き出すように、つばさが言う。


「ごめんね。話したくない事が沢山あるのは、分かっているんだけど、僕はやっぱり、真実を聞かずにはいられない。僕らが知ってる『購買部での万引きの件』や、『由貴さんと迅兄さんの約束の事』や『良介さんに渡した“白い粉”の件』は憶測だらけで、何が正しくて何か間違っているかが、さっぱり、分からない。だから、きちんと由貴さんの口から、はっきりとした事実を伝えて欲しいんだ。そうでないと、知らないうちに、由貴さん……あなたが、“昭さんへの毒物混入事件の犯人”に仕立て上げられてしまうよ」


「つばさ君……」


 自分が知らない場所で、今まで隠していた事が明るみにされているのかと、由貴は胸が苦しくなった。だが、年下とは思えない、つばさの理路整然とした言いっぷりと、自分を怪しむような含みが一切ない言葉に驚いたように瞳を見開いた。


「つばさ君は、疑ってないの? 私が昭さんへ毒を盛った犯人だと?」


「ぜ~ん、ぜん。だから、さっさと告白タイムを終えてしまおうよ。寒いし、何だか、お腹もすいてきた。それにさ、僕も由貴さんに教えてあげたい事があるんだし」

「私に教えたい事?」

「実録! 小型金庫の“密室盗難事件”。犯人の正体は? そして、その動機は? 今、明かされる“スナフキンの真実”ってやつ」

「何……それ?」


 腑に落ちない様子の由貴に、つばさは、嬉しくて堪らないといった顔をしてみせた。


「それを聞いたら、由貴さんにだって、迅兄さんが落ち込む理由が、よーく、分かると思うよ」



* *


 闇雲家の応接室で、くるみは、やきもきした気分で、柱時計に目をやった。時刻は午前9時30分。弟のつばさは、由貴さんに会うと早朝に出て行ったきり、まだ帰ってこない。


「あ~あ、学校は、騒ぎになってて行けないし……お父さんはまた、外出だし……」

 しかも、昨夜、家の前で別れたきり、義兄の迅は姿を消してしまった。


 やっぱり、つばさに電話してみよう。


 そう決めて、自分の携帯電話を手にとった、その時


「……?」


 突然、手の中から流れ出した着メロに、くるみは、どきりと胸を鳴らし、携帯電話に表示された送信者の名を見てから、その電話に応答した。


「もしもしっ、香織さん?」


 昨夜の迅とつばさの不躾ぶしつけな態度を香織に謝らねばと、思っていた矢先の事だったのだ。それでも、いざとなると、言葉が見つからない。すると、それを見越したように、電話の向こうから香織の声が響いてきた。


「くるみちゃん、今、一人? つばさ君と迅さんは、そこにいるの?」

「ううん。つばさは、外出で、迅兄さんとは、昨日のうちに別れたわ」

「そう、良かった」


 安堵したような香織の声音に、ちょっと違和感を覚える。なぜなら、つばさと迅の不在が“良かった”だなんて、くるみは、今まで考えた事もなかったのだから。


「今日は、警察で事情聴取があるんでしょ。つばさ君は、そちらに行ってるの? くるみちゃんは、これから?」

「ううん。10時からの予定だったのに、つばさったら、由貴さんに会いに出かけてたきり、帰ってこないの」


「由貴さんに?」


 急に途絶えてしまった電話口からの声。だが、

「くるみちゃん、私、この事をあなたに話していいのかどうか、すごく迷っていたの。でも、こんな大きな事件になってしまった以上、話さないわけにはいかないと思って……だから、嫌だなんて言わないで、ちゃんと聞いてね」


 何だか意味深な台詞せりふ


「それって、迅兄さんの事? もしかして、昨日、香織さんが言ってた、毒物混入事件の日に迅兄さんと良介さんがこっそり会ってたっていう、あの話?」

「ええ、それもあるけど」

「それもって……他にも何かがあるの」


 その先の話は、本当に聞きたくないと、くるみは思った。だって、それが迅にとって、いい話でない事は確かなのだから。


「バイオリン科の学生で、見た人がいるの。あの事件のあった前の日に、大学の近くの喫茶店で、昭さんが迅さんからひどい暴力を受けてたって。座っていた椅子から殴り飛ばされた昭さんを別の客がかばわなかったら、どうなっていたかわからなかったって」


「まさか……そんなの嘘よ!」


「嘘じゃないわよ。その時に、迅さんは昭さんに向かって大声をあげてたらしいわよ。“坂下由貴に関わるな!”って」


「……」


「それに、くるみちゃんは、知らなかっただろうけど、良介さんが由貴さんに好意を持っていたのは、彼の日々の態度からしても見え見えの事実だった。あの事件のあった日に、迅さんが良介さんに会っていたのも、昭さんの場合と同じような事だったんじゃないかな」


「同じ事?」


「 “坂下由貴に手を出すな”って事よ。万引依存症の相談を受けているうちに、彼には由貴さんを独占してるって、おかしな気持ちが芽生えていたんじゃないかしら。だから、回転寿司屋の買収の件で、昭さんに恨みを持ってる良介さんを上手く騙して、昭さんの食べる寿司にアジ化ナトリウムを入れさせた。昭さんが薬品中毒になって、その上、良介さんが犯人として逮捕されれば、それは迅さんにとって、邪魔な人間を同時に排除できる一石二鳥の事だもの」


 勝ち誇ったような香織の声音が、くるみの耳に痛いほど響き渡ってくる。


「ありえないわ! 迅兄さんは、そんなひどい事ができる人じゃないもん。いくら香織さんの言う事だって、私は信じないわよ!」


「なら、昨晩、私のマンションに来たあの人の態度は何? 着いたとたんに、まるで私が犯人みたいに振舞って……常軌じょうきを逸してるとしか思えなかったわ。自分のやった事を隠すために、周りの人たち全部に罪をきせようとしているみたいに。くるみちゃんだって、彼の態度をおかしいと思わなかったわけじゃないでしょ」


 確かに、昨日の迅の香織に対する言動は、あまりにも好戦的で、普段、くるみが知っている義兄とは、全くかけ離れたものだった。それに、由貴の万引の現場を撮影した携帯電話スマホが入った金庫を盗みに、昭の研究室に忍び込んだ事だって、少し、やりすぎのような気がしていた。


「精神科医になりたがってる迅さんだけど、由貴さんよりももっと、精神的に一番不安定なのは、当の本人なんじゃないかしら。あの人はきっと、そんな自分を顧みて、精神科医を志望しているような気がしてならないわ」


「な、何を理由にそんな事を言うのっ」


「私……調べてみたの」

「え?」

「だって、昭さんや良介さんに聞いてみても、“桐沢きりさわ はやて”の過去について誰も知ってる人がいないんだもの。だから、父のコネを使って、あの人の事を調べてみたら……彼が小学校高学年から中学校の間にいた場所がわかったのよ」


「小学校高学年から中学校の間に、迅兄さんがいた場所ですって?」


 そういえば、くるみ自身もその事は知らない。


「行動や精神に問題のある青少年を更正させる為の医療少年院。全国に4つある、それらの施設とは、また別に、長野県の中部、穂高岳のふもとに、より専門的な児童自立支援施設があるそうなのよ。あの人 ― 桐沢 迅 ―は、9歳から13歳の計5年間をその場所で過ごしている。ただ、どういう経緯で彼がそこに行ったのか、何故、5年間もそこにいて、どんな処遇を受けていたかまでは、ガードがとても固くて、調べきれなかったんだけど……でも、迅さんのお母さんと、くるみちゃんとつばさ君のお父さんでもあるT大の理事長が離婚したのも、そういう事が原因だった……という事らしいのよ。わかるでしょ? あの人は普通じゃないわ。だから、くるみちゃんも騙されちゃ駄目」


 香織から告げられた迅の過去が、あまりにも想像からかけ離れていたものだから、くるみは二の句が継げなくなってしまっていた。


 それでも……、


 香織さんの言うように、迅兄さんは普通の人とは少し違っているけれど……それは、私にもわかるんだけど……児童自立支援施設……そこにいたからといって、迅兄さんが、昭さんへの毒物混入事件の犯人だと決めつけてもいいものだろうか。


「香織さん、迅兄さんは、やっぱり……」


 そんな人じゃない。と、くるみが口に出そうとした時、

 闇雲家の応接間にある電話が鳴った。


「電話が鳴ってるみたいね。私はもう切るけど、今、話した事をしっかり心に留めておいてね。くるみちゃんも、この後に警察に行かなきゃならないんでしょ」


 返事を待つまでもなく、切れてしまった香織からの電話。言い足りない事は山ほどあったが、弟のつばさか、警察からかの連絡かもしれない。とりあえずは、鳴っている電話を取るのが先だ。


「もしもしっ、闇雲ですが」


 ところが、受話器の先から聞こえてきたのは、くるみがこの時、一番“聞きたくなくて”それなのに一番“聞きたい”声の主からだったのだ。


「迅兄さん……」


「くるみ、つばさは、坂下の所からもう戻ってきた?」

「ううん、まだだけど。迅兄さん……何かあったの。声が何だか変」


 妙に高揚した義兄の声。


「昭の意識が戻ったぞ!」

「えっ?」

「今、病院からなんだ。まだ面会はできないけれど、はっきりと自分の名前を言ったって」


 昭さんの意識が戻った。それを迅兄さんが、嫌だと思うなら、こんなに声を高めて、報告なんかしてくるんだろうか。迅を信じる気持ちはあったが、それなのに、心の底にわだかまる不安をぬぐい切れない自分がはがゆかった。


「良かった。本当に……。こっちはね、警察の事情聴取は10時からだったのに、もうその時間を過ぎちゃった。怒られるかもしれないから、これから電話してみるね。つばさは、いつ帰ってくるかわかんないし」


「くるみ? どうかしたの」

 いつもと違う低いテンションの義妹に、迅は腑に落ちない声を出した。


「ううん、何でもない。昭さんの事は、何かわかったら、また連絡して。じゃ……もう切るね」


 応接室の受話器を置いた後、くるみは、待ちきれないように柱時計に目をやった。


 時間は午前10時5分


 つばさ……早く帰って来てよ。そして、私の話を聞いて。


 この時のくるみは、まだ気付いてはいなかった。T大で起こった小型金庫の盗難から始まった一連の事件。その結末を告げる最終章が、すでに始まっているという事を。



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