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第9話 悲劇の発端 


 ― 坂下 由貴 ―


 良介は時々、迅や昭が店に連れてくる見るからに清楚なこの女子学生に少なからず好意を持っていた。 いかにもお嬢様風な藤野 香織は華やかすぎて、とても近づけたものではなかったが、由貴はどことなしにはかなげで自分のふところの中に、そっとしまっておきたいような……そんな印象がする女の子だった。


「……でも、由貴さんがここに一人で来るなんて初めてじゃないの。それってさあ、今朝の俺の申し出を受けてくれるって事?」


“俺とつき合ってくれよ”


 それは、この日の午前にT大近くの喫茶店で、彼が彼女に出した条件。しかも、その交換条件は、“良介”が昭の研究室から盗んだ“由貴”の万引現場の映像が入っている“携帯電話”を彼女に渡す事。


 携帯電話を盗んだのは、実は俺じゃない。真犯人は“桐沢 迅”だ。


 あいつは、よほど由貴さんにれているのか、俺が立ち聞きした山根 昭と藤野 香織の話を伝えたその後に、即、盗みを働きやがった。

 そして、山根 昭……どうやら、奴にとっても由貴さんは特別な存在らしい。だって、あいつは、万引きの映像を大学に提出しようとした藤野 香織の計画を止めさせるために、携帯電話を小型金庫に隠したのだから。そう思うと、良介は余計に由貴が気になって仕方なくなってしまった。


 迅が由貴さんに、小型金庫を盗んだ犯人は“自分”だ。なんて、言うはずがない。ここは一つ、嘘でも何でもついてだな……坂下 由貴を俺の彼女にして、あの二人の鼻をあかしてやろうじゃないか。


 表面上は仲の良い、元同級生を取りつくろってはいたが、良介は迅に対しては、どうしようもない劣等感を、昭に対しては憤りに近い感情を胸に抱いていた。

 T大に入りたくても入れなかった自分に対して、T大に入学しておきながら、大学にも行かず山に篭って好き勝手をしている桐沢 迅。そして、山根 昭の父の会社こそが、良介の実家の寿司屋を買収に近い形で傘下に収めた回転寿司屋のチェーン店を取り仕切っている食品会社の大元だったのだ。



「ねえ、由貴さん、黙ってないで何か話してくれよ」

 あまりに無口な由貴の態度に業をにやしたのか、良介は少し語調を強めてそう言った。すると、

「私ね……」

 やっと口を開き、小さく、そう言った由貴の声を聞きとろうと、良介は全神経を耳に集中する。

「……良介さんの彼女になってあげてもいい」


「え?」


 ほとんど予想していなかった由貴の台詞。良介は一瞬、ぽかんと彼女の顔に目をやった。

「良介さんの彼女になってもいいって言ってるのよ。だから私のお願いを聞いてくれる?」

「お願いって、携帯電話を返すって話じゃなくて?」

 こくんと首を縦に振った由貴の表情が、やけに真剣でおまけに何だか痛々しい。


 そう、この顔、この顔に俺は妙にきつけられてしまうんだ。怪我した子犬が助けを求めてるみたいに……どうしようもなく、哀しげで……


「俺は由貴さんのためだったら、何でもやるぜ!」

 カウンターから自分の方向へ身を乗り出し、声高にそう言った良介を上目づかいに見る。それでもあくまでも無表情に由貴は、バックの中から取り出したガラスの小瓶をかたんとテーブルの上に置いた。

「これ、何?」

 良介は訝しげにそれに目をやる。口紅くらいの大きさのガラスの小瓶、その中には白い粉状の物が入っている。

「甲殻類の殻を粉砕機にかけて粒状にした物よ。簡単に言うと、カニの甲羅を粉にした物」


 カニの甲羅? 確か、由貴さんはT大の薬学部だったな。これは何かの実験か。でも、それと俺とどういう関係があるっていうんだ。


 良介のそんな考えを読みとったかのように、由貴は少し眉をしかめて、こう言った。

「その粉を、明日の打ち上げパーティで、昭さんに出す寿司ネタの下に紛れ込ませて欲しいの」

「何だって」

「昭さんって甲殻類アレルギーなんですってね。それも、海老、カニ類は少しでも口にするだけで、全身湿疹が出てしまうほどの」

 それは、昭が店に来る度に、甲殻類を避けて寿司を握っていた良介にとっては、知りすぎていると言っていいほどの情報だった。にしても、昭が食べる寿司にカニの甲羅の粉末を入れろだなんて……そんな事をしたら、アレルギー体質の昭は……。

「……由貴さん」

 目の前に座っている清楚ななりの女子大生をじっと見つめて、良介は言った。

「あんた、昭に何か恨みでもあんの」

 そんな問いに、坂下 由貴は、何とも複雑な表情でこう答えた。

「そうよ、私はあの人が大嫌いなの」

 由貴は、そう言った後に、きりと唇をかみ締めて黙りこくった。


 由貴の脳裏には、1時間ほど前にT大の研究室で交わした、藤野香織との会話が湧き上がってきていた。

「私ね、由貴さんにお願いがあるの」

「お願い? 香織さんが私に?」

「だって、あなた、さっき購買部で私に言ったじゃない。何でも言う事を聞くって」

 それは、桐沢 迅に見捨てられたと思いすごした由貴が、大学の購買部で大量の商品を万引きをしてしまった時の事、藤野香織が気転を効かして万引きの事実をアルバイトに知られないようにしてくれたのだ。ところが、香織は再び携帯のカメラに由貴の万引きの現場を収めていた。

「この携帯の画像は、誰にも見せないわ。ただし、これを削除するのには、1つだけ、条件がある。明日のお昼に、いつもの回転寿司屋で、昭さん主催のコンサートの打ち上げ会があるのは聞いてるわよね」

 その事は昭から誘いがあって知っている。でも……と、由貴は腑におちない顔をした。

「由貴さんは、その時に昭さんの隣に座って、どうにかして、彼にカニでも海老でも、甲殻類の物を食べさせて欲しいの。でも、普通に出しては駄目よ。昭さんは凄く気を使っているから、すぐにそれって気づいてしまうから」


 香織が意図している事がさっぱりわからない。甲殻類? ……気を使ってる? だが、次の瞬間、由貴は信じられないといった風に香織の方に目をやった。


「まさか……昭さんって甲殻類アレルギーなんじゃ……。その人に、海老やカニを食べさせろって? 香織さん、あなた、本気で言ってるの?」


 ひどく気まずい空気が、二人の女子大生の間に流れていった。だが、香織は、敢てそれを無視して言葉を続けた。

「こんな事、本当はしたくなかった……。でも、明日の夜に、昭さんはリバール先生……私の師匠にバイオリンを聞いてもらうんだって。昭さんの演奏を聞いてしまったら、先生は間違いなく、次の弟子には昭さんを選ぶ。私、昭さんの事が好き。凄く好き! でも、これだけは、彼には譲れないの。明後日には先生はウィーンに帰国するわ。だから、2、3日の間だけでいいの。昭さんがアレルギーで熱でも出してくれれば……」


 もう、何も言葉が出なかった。この人は歪んでる……歪みすぎている。すると、由貴は、腹立たしいと同時におかしいような気分になってきた。


 精神科医になりたいという興味のために、万引依存症にかかわってきた桐沢 迅。

 その迅に見せつけてやりたいがために、私を彼女にしようとした岬 良介。勝手な想像だけで、私を小型金庫の盗難犯だと疑った山根 昭。そして、自分の名声のために昭を落としいれようとしている藤野 香織。


 みんなエゴのかたまりみたい。


 由貴の思考には、多くの思い違いや誤解があった。それぞれの心には、それぞれの複雑に絡み合った事情や感情があったのだ。出口の見つからない複雑な迷路。そして、由貴自身も、知らず知らずのうちに、その迷路の中で自分が行く道を見失ってしまっていた。


「分かった。やるわ。実は私も、いつも一段高い所から、人を見下ろしているような昭さんの態度には、ちょっとムカついていたの。たまには、あの人も痛い目を見ればいいのよ」

「そう言ってもらえると有り難いわ。……でも、あなたが、昭さんをそんな風に見てたなんて、ちょっと意外だったな。まあ、いいけど……で、どんな方法でやってくれるのかしら? あまり怪しい真似をしては駄目よ」

「カニの甲羅を薬学部が持っている粉砕機で細かく砕いて粉状にする。それを良介さんに頼んで昭さんが、食べれる甲殻類以外の寿司ネタの裏側にでも紛れ込ませてもらうわ。あまり大量に摂取して大事になるのも困るし、ほんの少しでもアレルゲンがあれば、昭さんは反応してしまうんでしょ」

「良介さん? それは、困るわ! あの人って昭さんの高校時代の同級生でしょ。もし、この事が昭さんに知れてしまったら、大変な事になるじゃないの」

 焦って声を荒げた香織に、由貴は冷ややかな視線を向ける。

「あの人は私の言う事なら、今なら、聞いてくれると思う。それに、良介さん……あの人も昭さんの鼻を明かしてやりたいと思っているうちの一人よ。だから、大丈夫。必ず、うまくゆく」

 あまりにも協力的すぎる由貴の態度と、妙に積極的な発言に香織は少し驚いてしまった。それでも、どうしても、尊敬する音楽家の弟子の座を昭に奪われる事だけは嫌だった。

「必ず、成功させて。一生のお願いよ」

 懇願するように、自分に向けられた香織の眼差しを真っ向から受けて、由貴は、少し意地の悪い笑みを浮かべて言った。

「でも、甲殻アレルギーの昭さんに、甲殻類の物を食べさすなんて、そんな人に聞かれたらまずいような計画を、なぜ私なんかに頼んだの」

 一瞬、言葉に詰まりはしたが、ふうっと一つ息を吐いてから、香織は、


「……だって、私は昭さんが、本当に好きなんだもの。その私が、彼にひどい事をするわけにはゆかないでしょ」


 咽喉の奥からすっぱい味が込みあがってきた。ひどく吐き気がしてならない。香織の顔を見ているだけでも、苦々しい気がして、由貴は視線を彼女から外すと、助けを求めるように外に目をやった。


 木枯らしが木々を吹き抜けていった。そして、枯木にかろうじて、しがみついていた最後の一葉が、遠くへ飛ばされていった。


* * *

 日曜日の午後

 T大近くの寂れかけた回転寿司屋は、いつになく賑わっていた。


「では、コンサートの成功を祝して、かんぱ~い!」

 100%アップルジュースの入ったグラスを空に差し上げ、高々とそう言い放った、姉に、ジンジャエールのグラスを手にした弟は、渋い顔をして、ぼそっとつぶやいた。

「くるみ、その台詞……何かダサイ」

「だって、これが祝杯の音頭の定番じゃない! どこがいけないってのよ」


 そんな事を言ったって、いつも可愛いくるみの口から、“結婚式の司会教本”みたいな “~を祝して、かんぱ~い!”なんて、オヤジ臭いフレーズが飛び出すのには、絶対に我慢がならない。


 口に出しては言えないし、もちろん強制する気もないけれど、くるみには、そういう 『 “つばさ”が大好きな”くるみ”』としてのセオリーを崩すような行動は、ぜひとも慎んで欲しかった。


 いつもながらの姉弟のじゃれ合いだけど、放っておいたら何時までも打ち上げ会が始められない。主催者である山根 昭は、仕方なしに二人の間に仲裁に入った。

「まあ、まあ。そんな細かい事まで気にしてたら、せっかく、良介が用意してくれてる寿司がまずくなってしまうよ。今日は、僕のおごりなんで、二人とも好きな物を食べていいからね」


 さすが、昭さんは太っ腹だと、つばさは、こぼれる笑みを押さえきれない。その笑顔のまま、カウンターの向こうにいる良介に向かって


「なら、僕は、“ウニ”と“中トロ”それと“アワビ”!」


 調子に乗せると、この見た目だけは、邪心なさげな少年は、店のメニューの高い順から片っ端に注文しかねない。

「つばさっ、いい加減にしなさいよ。あんたね、遠慮って言葉を知らないの」

 弟を阻止すべく立ち上がったくるみの横で、由貴は弱りきった表情をしている。

「ほら、二人が喧嘩ばかりしてるから、由貴さんが困ってる」

 そんな彼女を見かねてか、昭は同情に満ちた視線を由貴に送った。


 回転寿司屋の楕円形のカウンターの席順は、奥から、つばさ、くるみ、由貴、昭、香織の順番で席が作られていた。香織の席が出口に一番近く、昭が招待した、もう一人の客 ― 桐沢 迅 ― の姿はそこにはなかった。


「やっぱり、迅兄さんは来なかったのね。香織さんが大学で、兄さんが良介さんと話してるのを見たっていったんで、私はちょっぴり期待してたのに」

「あれぇ、くるみちゃんは相変わらずの迅びいきか? やめとけ、やめとけ。あいつって、あちらこちらにいっぱい、彼女を作ってるって噂だぜ。山に篭ってるなんて本人は言ってるけど、それも、どうなんだか」

 カウンターの中で寿司を握りがてら、良介がふてくされたように言う。昭は、そんな元同級生を上目使いにちらりと見る。

 自分に対するのと同じく、最近の迅に向けられる良介の態度には、よそよそしさを感じていた。志望していたT大に進めなかった後悔と、昭の父の会社が強引に行った良介の実家への買収への不満。薄々、その事にも気がついていた昭にとって、ここの回転寿司屋を頻繁に打ち上げ等に使う事は、多少、気がひける思いがした。ところが、

「り・ょ・う・す・けさん、そんな事言って、迅兄さんの株を下げようたって無駄よ。でも、良介さんだって私の友達の間じゃ、けっこう人気があるの知ってた? ほら、私が、この前、何人か店に連れてきた女の子たち……あの子たちが、良介さんのこと、格好いいって騒いでたわよ」

「え?」

 思いがけない女子中学生の言葉に顔を赤くした寿司職人を見て、くるみは、はじけるみたいに笑った。それとともに、少し硬くなりかけていた回転寿司屋の店内は、がらりと明るく空気を変えた。



「そういえば、昨日、コンサートで演奏した曲を放送部の人たちがCDに焼いてくれたの。つばさ君たちの分もコピーも持ってきたから、後で渡すね。良介さん、ちょっと、そこにある店のパソコンを使わせてくれない? そこで、再生ができるから」

 やっと和んだ場の雰囲気に合わせるかのように、香織は立ち上がり、バッグから取り出したCDをレジ横にあるパソコンディスクの中に入れた。ほどなく、スピーカーから、流れてきたバイオリンソナタに赤のセーターを上品に着こなした女子大生は、恍惚として聞きほれる。

「やっぱり、昭さんのバイオリンは最高ね。1回生の時から、すごい人だと思っていたけど、それにも増して、年々、上手くなってゆく……」

 知らず知らずのうちに、香織の口元からは、そんな言葉が漏れ出していた。

「いや……僕なんかより、つばさ君の方がもっと凄い。それに香織だってバイオリン部門3位っていったって、実力的には1位とそう変わりはしないよ」

 照れたように、昭は笑った。

 ところが、

「そう、そう。香織さんは他で出れば、絶対1番! 今回は運が悪かったんだよ。何たって、“僕”と“昭”さんがいるバイオリン部門に出ちゃったんだから」

 二人の間に割って入った、つばさのかなり“自我自賛”な台詞。だが、この天才少年は無遠慮にも、彼女の心をさらに逆立てるような事を言ってしまうのだ。


「そういえば、今朝、昭さんはリバールに演奏を聞いてもらったんでしょ? 弟子の件はどうなったの?」


 昭と香織の間だけの胸が詰まるような空気。

「……ああ、その事か」

「決まったんでしょ?」

「……うん」


 昭は、香織の顔を真っ直ぐに見る事ができなかった。彼女に昭は、リバール先生に演奏を聞いてもらうのは、打ち上げ会の後だと嘘をついていたからだ。

 今回、香織は彼の弟子候補に名前が挙がらなかったのだ。それなのに、自分が選ばれるなんて……打ち上げ会の席では、まだ、結論は出ていないと言っておこう。その方が、気まずい思いをせずに香織たちと食事ができる。昭はそう思ったのだ。 だが、

「おめでとう! ちょっと悔しいけど、選ばれたのが、昭さんなら、私も納得がゆくわ。がんばってね、来年はウィーンに行くんでしょ」

 満面の笑顔で握手を求めてきた藤野 香織に、山根 昭は、戸惑いながらも、ほっと胸をなでおろした。それでなくても、最近の昭は、迅と良介、二人の元同級生との間にできてしまった心の溝を埋めきれなくて、苦い思いを繰り返している。こんな事で友人と気まずくなるのは、もう終わりにしたかった。

「ありがとう、がんばるよ。実は、君にそう言ってもらえるのが、僕は一番、嬉しいんだ」

 快く自分を祝福してくれた香織の右手を、感謝の気持ちをいっぱいに込めて、握り返す。

 けれども、色々な気持ちが一挙に胸に湧き上がってきたのか、香織はまぶたにこみあげてくるものを抑える事が難しくなってしまった。

「ごめん、ちょっと、お手洗い。大丈夫だから、気にしないでね、昭さんが喜んでくれたのを見て、何だか、胸がいっぱいになっちゃった」

 そして、香織は、せわしなく店の奥へ行ってしまった。



 つばさは、相変わらずの無神経ぶりで、CDから流れてくる昭の演奏に耳を傾けている。

 由貴は、その時、緊張した面持ちで良介の方を見た。すると、良介は身につけた前掛けのポケットに手をやった。手に感じる冷たいガラス瓶の感触。それをそっと取り出した寿司職人は、何ともいえない苦々しい視線を由貴に送りかえした。


 香織の複雑な気持ちを考えると、やはり昭は胸が痛んだ。だが、ぷるんと首を一つ横に振ると、その思いを吹っ切るように、話題を変えた。


「それはそうと、くるみちゃんたちは、まだ、迅と会ってないの。僕は、喫茶店で色々と話をしたけど」

 昭の言葉に、由貴がぴくりと肩を震わせた。

「ええっ! じゃ、会ってないのは私だけ!」と、くるみがあげた悲壮な声に、


「なら、あの件は、まだ聞いてない……んだ」


 ぽつりともらした昭の言葉に、つばさは、ちょっと、ふて腐れた様子でこう言った。

「僕、知ってるよ。前にあの人が携帯電話で誰かと話してたのを聞いた事があって……それって、迅兄さんが、エベレストとかの高い山に行っちまうって話でしょ」

「エベレストぉ! あいつって、どこまで高く登れば気がすむんだ!」

 この時、一番の大声をあげて驚いた良介に、へぇと、昭は意外な顔をする。冷ややかな態度を取ってはいても、彼は彼なりに迅の事を心配しているのか。

「僕はできるなら、そんな場所には行って欲しくないんだけどね……危険らしいんだよ。あいつが登ろうとしているエベレストの冬季の南西ルートは超難関。ほぼ垂直の巨大なアイスフォールがあって、日本でも成功した人は6人で、その中の2人は下山時に亡くなってるらしい」


 えええっ! と、失神しそうに体をのけぞらせた、くるみの背中を懸命に支えながら、つばさは、再び由貴の方に目をやった。案の定、顔色を青くして、呆然と昭と良介のやり取りに聞き入っている。


 やっぱりね……。


 あいつって、本当に罪作りな奴。くるみには僕がいるからいいけど、由貴さんはどうするんだよ。


 つばさからしてみても、彼女が迅を頼りにしているのは一目瞭然の事実だった。


 山であいつがどうなろうと、僕の知った事じゃないけれど、色んな人の気持ちを宙ぶらりんにしたまま、行こうっていうのは全面的に気にくわない。

 それにしても、義兄の話題なんて、つばさには、おもしろくも何ともなかった。せっかくの美味しい寿司が、あんな風来坊の事で不味くなってしまうのも困るじゃないか。



 ほどなく、香織がお手洗いからもどってきた。すっかり気を取り直したのか、今は、笑顔で昭の横に座る。だから、つばさは話題を変える事にした。

「そういえばさあ、昭さんの盗まれた小型金庫って、どうなったの?」

 ところが、それが、回りの空気をますます、気まずい方向に変えてしまうのだ。

「ああ……あれね、いつの間にか、元の場所に戻ってたんだ。金庫も中に入ってた携帯電話も」

 その昭の一言で、


 良介が、びくりと身をちぢ込ませた。

 由貴は、驚いた様子で、良介の方へ目を向けた。

 くるみとつばさは、きょとんと意外な顔をしている。


「君にもずい分と迷惑をかけたね、携帯電話は後で返すから」

 ささやくようにそう言われた香織は、腑におちない表情で昭の顔を見返した。

「きっと、盗った犯人が悪いと思って、返しにきたんだと思う。僕もこれ以上は追及する気もないし……だから、この話はもう、おしまい!」


 昭の無理に作ったような明るい笑顔に、誰も彼もが、どう答えていいかが分からない。

 その時、突然、


 プルルルル……


 壁に掛けてあった由貴のバッグの中から、携帯電話のアラーム音が響いてきた。


 時間は、午後2時18分。


 由貴を先頭に、その場に居合わせた全員が、どきりと音の方向に目を向けた。


 それは無情に振動する電子音。


 すべての均衡が崩れてしまう時刻を告げるための。


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