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少年が変わる、ほんの些細な理由。

 偶然、興味が尽きない人に出会ってしまった。

 我ながらおかしな表現だけど、そう感じてしまったのだから仕方ない。


「新一年生の方はこちらへどうぞ! お急ぎ下さい!」


 偶然、大渋滞でバスが遅れて、同じバスに乗っていた一年生は、正門から体育館へと走らなくてはならなかった。偶然、バスの一番後ろの席に座っていたから出遅れてしまった。偶然、僕がバスを降りて走り始めると同時に、上級生たちが別のことを叫び始めた。


「入学式の開始時間は二十分繰り下げになりました! 十分間に合いますので走らないでください!」


 そして偶然、その言葉をしっかり聞き取って歩みを止めたのは僕より後ろから来る新入生だけだった。


「入学おめでとうござ……あ、あれ?」


 偶然はまだ続いた。

 上級生の男子が新一年生に渡すリボン付きのバッジが足りなくなってしまったらしい。


「え、えと、どうしよう」


 その人がうろたえている間に、他の生徒がどんどん通過していく。近くの人にもらおうにも、皆他の新一年生の対応で手一杯だった。


「……どうぞ」

「うわ! あ、は、はい」


 沢山の偶然が重なって、僕はその人を視界に捉えてしまった。

 自分の目線より十数センチ下から、女子がこちらを見ていた。こんなに近くにいたのに、全く気がつかなかった。


「た、助かるよ! 他の仕事があるんで、じゃあ!」


 僕を散々待たせた男子の上級生は、大喜びで入学式会場内へと走って行ってしまった。


「お名前は?」


 事務的な女の人の声だ。だけど、妙に印象的な女の人の声だった。

 その頭がとても近くに寄り、『新一年生』と書かれたリボンを付けてくれていた。

 固そうなショートヘアの下には、眠そうな表情が見えた。

 僕の顔を見てすらいない眼は、泣いた後のように腫れぼったくて、その眼の下には薄い隈があった。唇は肌の色とほぼ一緒で、体調が悪いのかと心配になってしまう程弱々しく見えた。ネクタイの色からすると二年生。僕よりずっと幼く見えるのに。


「……お名前は?」


 しまった。完全に見とれてしまっていた。


「あ、すみません、加東かとう加東廉二かとうれんじです!」

「『カ』から始まる人は入って二番目の列の一番前です。自分の名前がついている席に座ってください」


 感情のこもっていない声だった。なのに、それが酷く気になる。


『先輩のお名前は?』


 そう聞き返したかったのに、僕の口から出た言葉は「ありがとうございました」という言葉だけだった。

 そして僕の両足は勝手に入学式会場の体育館の中へと歩みを進めてしまう。

 美人とか、かわいいとか表現出来る人ではなかった。

 腫れぼったい眼以外に、何の特徴もない人だった。

 なのにその瞬間から、僕の頭の中はあの女子の先輩のことで一杯になってしまった。『先輩』なんていうがちっとした言葉は似合わない人だったけれど。

 お陰で僕にとっては新しい門出になるはずの入学式は、まるで時間を奪われたかのように過ぎ去ってしまった。

 僕は一体、どうしてしまったんだろう。





 家に帰ってからも、思考の渦に巻き込まれたままだった。

 ただ一分程の出会いとも言えぬ出来事だったのに、夜も更けてベッドに入ってもまだ妄想は尽きなかった。

 ブレザーがとても似合う人だったと思う。私服が想像つかないほど。

 身長はきっと、僕同様気にしていると思う。少し子供っぽさを感じる見た目もきっとコンプレックスだろう。

 目が腫れぼったかったのと、顔色が悪かったのは体調が悪かったのか。少し心配になってしまう。どうして体調の心配なんてしてるんだろう。知り合ってすらいない相手なのに。

 でも、考えることが全く止められなかった。

 膝丈のスカートを周りの女子と同じくらいに巻き上げたら、どんな感じだろう。黒い分厚そうなタイツを履いていなかったら……いや、あれはあれでいいかも。

 ブレザーを脱いで、指定セーターだけの姿はどんな見た目になるかな。胸はあまりなさそうだった。あの姿で胸があっても、逆にバランスがよくない気もする。

 とにかく他の子同様に、制服を緩く着こなした姿でにっこり笑ってくれたら、きっとかわいいだろうと思ったのに、頭の中で作り上げられた姿は、理想から大きくかけ離れていた。

 多分、興醒めってのはこういうことをいうんだ。あの人は格好は、少なくとも僕にとって完璧だった。

 再び、頭の中に元のブレザーを着た姿のあの人が戻ってくる。

 相変わらず、目は合わせてくれない。

 その頭に手を伸ばして髪に触れると、少し硬い感触がした。手をずらして、頬に触れたら、少し冷たくて柔らかい感触が返ってきた。だけど、親指を少しずらして薄い唇に触れても、なんの感触もなかった。


『あ……!』


 想像力の限界にぶち当たってようやく気付いた。

 今、最低な想像をしていた。

 制服を着たあの人は僕のベッドに腰かけて、上半身をそのままベッドに預けていた。

 


「ゲホ!」


 なんて妄想をしてしまったんだ。

 鼻からでは足りなくて、口から大きく息を吸って、吐き出した。鼻の奥がちりちりと痛みを発していた。

 かゆみを覚えた目を拭うと、袖が濡れていた。下半身が何もなっていなかったのが、唯一の救いだったと思えるくらいに、自分が相手にとっておぞましい妄想をしてしまっていた。

 本当に、どうしたんだ僕は。





 妄想に取り憑かれたまま眠りに就いてしまったのに、朝は妙にすっきりとした気分で起きることが出来た。でも、気温が高いのにコートを着そうになったり、玄関にバッグを忘れそうになったり、今までにないくらい浮き足立っていた。


 昨日に引き続き、新一年生の集合場所は体育館だった。

 妄想は止まるところを知らなかった。

 分かっていることはネクタイの色から、二年生であることだけ。

 つまり、あの人と知り合うには同じ部活などに参加するしない限り、ほぼ不可能に等しいということだった。

 僕のすべきことはただ一つ。早くあの人のことを考え続けてしまう病気に区切りをつけること。


 そう思っていたのに。

 今日の学内オリエンテーションはまるで僕に諦めるなと告げているようだった。


『あ……!』


 顔に強い風が当たったと錯覚するほど驚いた。

 体育館の舞台の前に、あの人が立っていた。小さい体と、憂鬱そうな表情は昨日見たままだった。幸運はそれだけで終わらなかった。


「……これより、部活及び委員会紹介を行います。本校では部活動または委員会の参加は、必須となっております……」


 眼球が奥に引っ込むような衝撃が走った。

 ずっと帰宅部で無趣味な僕が、高校に入って唐突に部活や委員会に参加する必然性が出来てしまった。あの人がどこに所属しているかを突き止めることができれば、少なくとも知り合いにはなれる。

 舞台上の部活、委員会紹介を目を皿のようにして見たが、あの人が登壇することは無かった。

 でも、希望は見えた。

 他の新一年生が恐々とする中、僕だけは意気揚々という表現がぴったり合う気分で、部活勧誘の群れが待つグラウンドへと繰り出した。





「……はぁ」


 その一時間後。たどり着いた場所は誰もいない体育館の裏だった。

 そこでやっと我に返った。

 手にチラシを持つあの人の姿は何度も視界に入った。でも、何度追いかけても、前に立ちはだかってはチラシを押しつけてくる上級生に阻まれて見失い続けた。


『何してんだろ』


 馬鹿だよ。本当に。

 昨日の入学式も、今日のオリエンテーションも全部上の空だった。たくさんの大事な連絡事項を聞き逃してしまったかもしれない。

 どれだけ無様なんだ、僕は。

 あの人のことは隅に追いやって、所属だけでも考えないと。

 スポーツ部、文化部、委員会と分けてチラシを並べめみるが、どれも目を惹かなかった。帰宅部ばかり続けて、何も打ち込んでこなかったツケだ。

 本当にあの人は一体、どこに所属しているんだろう。

 文字がパンパンに詰まった文芸部兼ミステリー研究会のチラシは、あの人にぴったりだと思った。

 第二候補の図書委員会のチラシはやたらポップな書体が並んでいて、あの人のイメージからは随分かけ離れて見えた。


『ああ、駄目だ!』


 数秒前に決意したのになんてざまだ。

 ちゃんと自分に合いそうな部活なり委員会を選んで学校生活を無難に送らなければならないのに。それに、もうすぐ学生食堂の説明が始まる時間だ。今は保留にして食堂へ向かわないと。


「……よし!」


 小さく声に出して気合を入れ直す。

 今度の決意は堅い。僕はもう一切ブレることなんてない。もう高校生なんだ。しっかり前を見据えないと。


 なのに。

 運命なのか、偶然なのか、必然なのか。


「え……?」


 前を見据えるという気持ちのままに、視線を前に向けた瞬間、目の前に女子の制服が見えた。

 視線を上に上げると、しゃがんでいる僕を見下ろす人物と目が合った。

 数秒前のもうブレないという決意が、簡単に押し流されて行く。

 僕を狂わせた、いや、僕が勝手に妄想を膨らませていた人物が、そこに立っていた。

 慌てて立ち上がると、その人物は驚いたのか、一歩後ずさってしまった。

 何を話せばいいんだろう。そうだ、まずは挨拶だ。


「お、おはようございます!」

「っ! ……お、おはよう、ございます」


 しまった。大声で驚かせてしまった。


「ご、ごめんなさい! き、昨日はあり、ありがとうございました」

「い、いえ。加東、君……?」

「へ? あ、はい!」


 僕の名前を覚えていてくれた。なぜか、耳がじんと熱くなったような気がした。


「すみません! こ、ここって、立ち入り禁止ですか?」

「い、いいえ」


 落ち着かないと。さっきから声が上ずってばかりだ。

 とにかく用事を聞こう。落ち着け。黙れ、僕よ。


「私の後ろを、付いて来る新入生がいると、皆に言われて」


 怯えが混ざった感情の薄い言葉だが、僕を凍りつかせるには十分だった。

 最悪中の最悪だ。確かに僕がやっていたのはストーカー行為みたいなものだった。


「ご、ごめんなさい。そ、そんなつもりはなくて!」


そんなつもりだったけれど。


「え? あ、そ……そう、でしたか……」


 どうしてだろう。あからさまに落胆してしまった。

 素直に後を付けていたと認めれば良かったとも思えないが。


「あ、でも、これを」


 おずおずとチラシが差し出された。

 ああ、そうか。この人は僕を勧誘しに来たんだ。どうしてこんな単純な事実に気がつかなかったんだ。

 どこまで混乱しているんだ僕は。でも、これは大きなチャンスだ。この人と知り合える最大の。


「き、興味あります!」


 ああ、馬鹿だ。

 本当に馬鹿だよ僕は。チラシも見ずに興味があると言ってしまうなんて。

 だけど、言って良かった。目の前の憂鬱そうな表情が、少し明るくなっていた。


「あの、オリエン中も、こちらの仕事を見ていたようだったので。もしかしてって」


 どんどん声が明るくなっていく。でも恥ずかしい。視線に気付かれていたなんて。

 本当はあなたに見とれてたんです……なんて言えやしない。

 慌ててチラシに目を落とすと、この人が僕の胸に新一年生のバッジをつけてくれた理由も、どうして舞台前に立っていたのかも、そしてこんな場所まで僕を探しに来てくれた理由も分かった。

 それがこの人の仕事だったからだ。どうしてこんなに当たり前のことに考えが及ばなかったんだろう。

 でも、なんでもいい。この人が所属している先ならなんでもやってみせる。


「あの、参加させてください」

「ほ……本当に?」


 顔は笑ってはいないが、先程よりも明らかに機嫌が良さそうだった。

 こんなに喜ばれてしまうとは思わなかった。まるで自分が何か良いことをして褒められたような気分になってしまっている。

 無趣味で何も打ち込んでこなかったことが、初めて役に立った。


「れ、連絡先、教えてくれますか、加東君」

「え? は、はい」


 震える手でスマホを操作して、連絡先に追加された名前を目に焼き付けた。


 田梨たなし英莉えりさん。普通科の二年生。生徒会役員。

 僕が勝手に抱いたイメージに、ぴったりな名前と所属だった。


「あの、チラシ、全部預かります」


 田梨さんが急に僕が地面に広げていたチラシを拾い始めた。


「え? あ、ちゃんと自分で捨てます」

「お、お願いです。も、もう見ないでください!」


 初めてしっかりと感情のこもった言葉を聞いた気がした。

 僕が他の団体に行ってしまわないか不安なのかもしれない。そんな心配は無いのに。


「せ、生徒会室へ案内しますので、必ず付いてきてください!」


 理不尽な睨まれ方をされてしまったのに、その小さな姿を見ていると、視界がどんどん明るくなっていくような爽やかさに包まれた。


 なんだか、自分が変わっていく。そんな実感が広がっていた。

 きっと田梨さんは知らないだろうし、気づくこともないだろう。後ろを付いてくる新入生の僕が、田梨さんを一目見ただけで、大きく変わってしまったことに。

 そのことについて、自分勝手に深く感謝していることにも。

 そして、せっかく同じ時間を共有出来るのだから、憂鬱そうな恩人の顔を、もう少し柔らかくできないかと、今必死に考えを巡らせていることにも。


 強めの風がグラウンドに吹いた。

 砂やチリ、そしてたくさんのチラシが舞い上がってしまった。


「か、加東君、初仕事です。できる限りゴミを拾います。あ、チラシの内容は見ないでください!」

「は、はい!」


 まだ桜が咲いていないのは残念だった。

 運動音痴丸出しの走り方でグラウンドへと駆け出す田梨さんの周りに桜の花びらが舞っていたら。

 それはきっと、一生忘れられない景色になっただろう。

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