六本木のトラブルシュータ―(短編連作) 約束
安寧というのは壊れやすいものだ、とあらためて知った。
チナツが初夏の湿った風を伴ってランサーに駆け込んできた。ブレーキもかけずに一目散に私に駆け寄ったとき、その崩れる音を聴いた。
「お父さんが帰って来ないの」少し潤んだ目がそう訴えた。
「リュウが帰って来ない? 何日になる?」
「3日。3日経っても帰らないときはリックおじさんの店に行けって」
「そういって、仕事にいったんだな」
こくんとうなずいた。 学校帰り、ネイヴィーブルーのブレザーの制服に白いシャツが少し眩しかった。
仕事上のトラブルとは思えなかった。リュウの仕事は中古家具類の輸入販売だ。そのために五反田にショウルームを兼ねた小さな店を持っている。
仕事以外か・・・面倒ごとが増えたようだ。
またドアの開く音がして、今度は男が入ってきた。どうみても客ではなさそうだ。チンピラという単語がふさわしい。
「店は18時から」という声に止まるはずもなかった。
「そこのJK,オレにジュースをぶっかけやがったんだ。謝ってほしいんだがね。 ドュウーアンダースタンド?」
ゆっくりとした歩調で通路を歩きながら、テーブルにセットしたグラスを右手で床に落とした。
「知っている男か?」小さく呟くと、頭を振って否定した。
意外と簡単にヒントが手に入ったようだ。
「奥へ行け」とチナツを引き剥がした。 厨房ではゴロウが仕込みをしている。
「あんたには関係ねえよ、そのアマに用事があるんだ」
「か弱い高校生にか?」
足は止めずに3秒間の高笑い。どこか表現が間違っていたのか。
4ツ目のグラスを落としたとき、男は右拳を突き出してきた。
腰の入っていない、上半身が泳いだようなパンチだった。
左腕で受けて、ボディに一発、うめき声と一緒にかがんだ腹を膝で蹴り上げた。
神崎と名乗る男は、とある興信所の男から20万円で仕事を請け負ったと言い、詳しいことは何も知らなかった。
カネが欲しかっただけのようだ。
「コーシンジョ?」
「探偵事務所っすよ」、プライベート アイっていうやつ」と背中からゴロウの声。
「それでその名前は?」
「し、しらない」
「じゃ、どこでこの娘を引き渡す?」
「ケータイで連絡することになっている」
「OKボーイ。連絡してくれ。仕事はうまくいった、と」
店がある六本木からさほど離れていないビルの4階、見上げると明かりがそこだけ点いていた。雑居ビルらしいが、不動産屋の看板がぶらさがっているだけで、空きビルのようだった。
周りに駐車している車もなかった。階段を駆け上がる。
ノック。返事はなく、ドアノブはかんたんに回った。
3人の男。リュウの姿はなかった。黒っぽいスーツ、40代後半のいかつい教養のなさそうな男が二人。中央の男は若く30代か。こいつがボスだろう。
「だ、だれだ!?」間抜けな声が右から漏れた。
「神崎の代理だ。桐生チナツは捕まえた。だが、この仕事20万は安過ぎる、50万だ、と交渉に来た。わかるか、ネゴシエーションだ」
「神崎はどうした?」と若い男。落ち着いたしゃべり方。
「怪我をした。腕を折られて、全治1ヶ月っていうところだ」
「ケツはてめえで拭けよ」と中央の男がポケットから取り出した封筒を床に投げた。
「おいおい、誘拐拉致を20万じゃ安いだろう。このまま警察に駆け込んでもいい、善良な市民として」
「何が市民だ!ふざけんなよ」左の男がドシドシと前に出てきた。
「ゴロウ、センター!」と叫んで、左にステップし、前に出てきた男の首に回し蹴りをいれた。次の瞬間、ドスッという鈍い音と共に中央の男の顔がつぶれ、右の男はただただ震えているだけだった。
「ストライク」入り口に立つゴロウは、マウンドに立つ投手そのものだった。
「ベルトを外して手をしばっておけ」と二人の男に視線を送り、赤いしみががついた硬球を拾い、ゴロウにトスした。
もう一人の男は戦意を失い、茫然と事の成り行きを見ていた。
「さて、いろいろと話していただこう」
たわいもない話だった。
ゴロウの剛速球を喰らった男は中堅規模の暴力団組長の次男だった。自分もカネが稼げると組長の父親に証明したかったらしい。
「こいつらがおやじのルートを利用して覚せい剤を売り飛ばせば、手っ取り早くカネを稼げると、言ったんだ」赤く腫れた顔を歪めた。「俺は・・・そう、こいつらの提案に乗っただけだ」
責任の取り方も知らない馬鹿息子だった。
東南アジアから中古家具や雑貨を輸入する業者としてリュウに目をつけ、家具に隠して覚せい剤を密輸する計画を立てた。リュウが裏でいろいろやっていることは知っているが、覚せい剤には手を出していないし、出すはずがなかった。そこでチナツが必要になった、ということらしい。
リュウの居場所は六本木のスタジオタイプのアパートだった。
「これ以上の騒ぎなしだ、ボーイ。お前のプランは組長にも警察にも話さない。叱られることもない。お互い水に流す。何もなかった。いいね」
手足を縛られた桐生雄一は、殴られた痣はあったが、無事だった。途中、自販機で買った缶ビールのプルトップを開けてリュウに渡し、私も半分ほど喉に流し込んだ
「リュウが捕まるとはね」
「荒事はリックに任せた、もう20年も言っていることだぜ」と肩をすくめた。
「そうだったな。帰ろうリュウ、チナツが待っている」
「ああ」
まだ梅雨明けまだというのにビールが美味い。とくに今夜は。