52 私の決意
私は家の中に入ると真っ直ぐ台所に行った。両親は居間のほうにいたけど、私は「ただいま」とだけ言って通り過ぎた。
台所で時計を見たらまだ9時前。なので受話器を持つと電話を掛けた。5回のコール音の後、相手が出たのが分かった。
「もしもし、山本さんのお宅でしょうか」
「はい、そうですが」
「沢木と申しますけど、航平さんはいらっしゃいますか」
「航平ですか、少々お待ちください」
電話の向こうで彼を呼ぶ声が聞こえる。彼よりは落ち着いた感じの声だから、お父さんなのかもしれない。今まで山本さんの家に電話を掛けた時にはすぐに彼が出ていたから、始めて彼以外の人の声を聞いたのだと気がついた。
うちに彼がかけてきた時は私が出るのがほとんどだった。母が3回、父が1回出たことがあった。その後に彼と会った時に、私以外の人が出て緊張したと言っていたっけ。その後から、電話が鳴ると私が出るようにしたのだったと、懐かしく思い出した。
「お待たせ、麻美」
普通の声で電話に出た山本さん。
「こんばんは。遅い時間にごめんなさい」
「いや、そんなに遅くないよ。・・・えーと、どうかしたの」
「あの・・・会えないかなと思って・・・」
決めたのに、手が声が震えてくる。受話器から口を離し、軽く深呼吸をした。
「会えないかって・・・。いつにしようか」
私の言葉に声を明るくした山本さん。誤解をしたのだとわかった。わかったけど、涙がせり上がってきた私は、何でもないふりで言葉を続けた。
「来週でいかがですか」
「来週・・・土曜日でもいいかな」
「はい。私は大丈夫です」
「じゃあ午後の1時にいつものところで」
「はい。じゃあ、おやすみなさい」
「おやすみ、麻美」
受話器を置いて拳を握って、泣くのを堪える。
「麻美」
父の厳しい声が聞こえた。私は振り返って父のほうを向いた。一緒に母もいたけど、二人の表情の変化は見ものだった。
下平さんとのデートがどうだったのかと訊こうと私の後をついてきて、そうしたら山本さんに電話をしていたから、下平さんを振って山本さんと何事もなかったようにつき合うつもりだと思ったのだろう。だから、父は厳しい声をだしたのだ。
なのに、明らかに泣きはらした顔で、いままた涙が浮かんで来ている目を向けられて、言葉を失くすのも仕方がないだろう。
私は笑みを浮かべると両親に言った。
「お父さん、お母さん、安心して。彼・・・山本さんとは別れるから」
「別れるって、何があったんだい」
「そうだぞ。それにその顔。下平君と何があったんだ」
困惑の表情を浮かべる両親に説明をしようとした時、電話が鳴った。私が一番近いからと受話器を取ったら、聞こえてきたのは千鶴の声だった。
「夜分遅くに失礼します。千鶴ですけど、麻美はいますか」
「千鶴・・・私」
千鶴の声を聞いて安心したのか、涙があふれてきた。千鶴は私の泣き声にギョッとしたような声を出した。
「麻美? えっ? ちょっと。何があったの。・・・ううん。待ってなさい。すぐに行くから」
そう言って電話は切れた。私はもう涙を止められなくて、受話器を置くと椅子に座り込んだ。
泣くだけ泣いて気持ちが落ちついた頃に千鶴がやってきた。母がお茶を入れてくれて、それを飲んでから、私は今日のことを話した。
下平さんからおつき合いをしたいと言われたけど断ったことを。おつき合いを断る理由として、つき合っている人がいると言って、でもその人ともつき合えないということを話したと言った。
それから先週から考えていた山本さんとのことも。なぜ山本さんとの交際をやめるか、その理由も話した。
両親は顔を見わせた後「そうか」とだけ言った。千鶴が両親に何か合図をしていたようだ。向かいに座った両親が頷いていたから。
千鶴に連れられて部屋に戻り、着替えを持たされてお風呂へと追いやられた。お風呂から出てきたら、パジャマに着替えた千鶴が待っていた。時間が時間だから泊まる気で来てくれたようだ。
布団に潜って両親には話さなかったことを、千鶴に話した。
靴擦れを起こして、その手当てを下平さんにしてもらったこと。抱きしめられてキスをされたこと。それを嫌だと感じなかったこと。
「私は実は淫乱だったのかな。あのまま抱かれることになってもいいと思ったのよ」
「そんなわけないでしょう。麻美はさ、先の見えない恋に疲れてしまっていたのよ。だから、楽なほうに流されそうになっても仕方ないでしょ」
「やっぱ、雰囲気に流されただけだったのかな」
「それも違うって。麻美は遊びで誰とでも寝れるような性格をしてないでしょ。抱かれてもいいって思えたということは、少なからず好意を持っているわけよ。あんたはもう少し自分を信じなさい」
「そういうけど、私は自分がわからないのよ。つき合っている人がいるのに、裏切るようなことを思ってしまったのか」
「別に裏切ってなんかいないでしょ。仕方のない状況だっただけで」
「そうかな。今日のあれだって、実は私が誘っていたのかもしれないじゃない」
そう言ったら千鶴のげんこつが頭に落ちた。
「そんなわけあるか、バカ麻美。それ以上自分を貶めるようなことを言うな~」
体を起こした千鶴に頬っぺたを摘ままれた。
「いひゃいんだけど~」
「痛くしているんだから、これで痛くなかったらもう一度殴るわよ」
千鶴の目が据わっていたのでした。




