第8話 接触
第7話の続きです。
床に敷いた布団から目覚まし時計に手を伸ばした沙月は、自分が予想した以上に遅くまで眠っていたのを知った。時刻は既に10時になろうとしていた。彼は起き上がりベッドの方を見た。そこにはルナの姿は無く、窓のカーテンは開けっ放しになっていた。その向こうに覗く曇り空が日光を遮り、乾いた彼の部屋を薄暗く保っていた。
沙月がリビングへ行くと、そこでは彼の母親とルナがソファーに座って地図を眺めていた。母は彼に気が付いて、朝ごはんはラップに包んでキッチンのテーブルに置いてあると伝えた。どうやら二人は朝食を食べ終えた様だった。沙月が台所のトースターで食パンを焼こうとした時、母が彼の後ろから声を掛けた。
「お昼に余美を迎えに行くから。沙月、あなたも一緒に来るでしょ」
「うん、もちろん行くよ。お姉ちゃん骨折したんだって」
「知ってる。夜中に病院行ってきたんだから」
母は仕事が終わった後、姉から電話を貰い病院へ向かったという事だった。余美は母の予想していた以上に元気だったようで、彼女は呆れてしまったらしい。
「余美ったらもう仕事先に休みの電話入れたらしいわよ」
「え、そうなんだ」
「これから2週間は家で遊びながらデザイン進めるみたい。お給料も出るそうよ」
トーストが焼き上がり、沙月はキッチンのテーブルで冷えた目玉焼きとサラダを食べ始めた。母がやってきて、彼にコーヒーの入ったカップを差し出した。彼はそれを啜りながら、母にルナの事を尋ねた。母は溜息を付いて彼の向かいの椅子に座った。ルナは朝起きて母と朝食を取った後、地図を見たいと言ったらしい。
「自分がいた場所を確認したいって言ってたわ。記憶が戻って来てるのかしら」
「そう、なのかな……あっ」
その時、沙月は昨日見つけた彼女の検索履歴の事を思い出した。
「ん?どうかしたの?」
「いや、あのさ……お母さん、スサノオって知ってる?」
彼の言葉に母はきょとんとした表情を浮かべた。
「スサノオって?」
「ルナが、自分の事をパソコンで調べてたんだけど。その時の検索結果にスサノオってのがあったんだよね。何だろうと思って」
「……スサノオねぇ。特には思い浮かばないかな。別に隠すことも無いんだから、ご飯食べ終わったらあの子に聞いてみたら?」
母はそう言った後しばらく置いて、沙月に話しかけた。
「そう言えば、沙月」
「何?」
「ルナちゃんの事、なんだけど」
その言葉に沙月は少し不安になった。母は彼女の事を、警察に相談しようとしているかも知れないと彼は思った。
「あの子の言ってる事、信じてない訳じゃないのだけど。いつまでもこのままじゃ駄目じゃない」
「……うん、そうだけど」
母は沙月の表情から彼の心境を察したのか、笑いながら安心しなさいと言った。
「昨日病院に行った時、梅原先生と会って少し話をしたの。知ってるでしょ、高校の保健の先生」
「うん、昨日お弁当とか届けてくれた」
「その先生がルナちゃんの事心配してたみたいで、うちの病院でカウンセリングとか受けないかって」
「え、そうだったんだ」
梅原医師はルナの記憶の事で、保健室で過ごす以外に鳴沢病院での治療も提案したようだった。沙月はそのことに驚いたが、もし病院の協力でルナの記憶を取り戻せるなら、それは非常にありがたい事だった。彼の母も、ルナに何があったのかを把握しなければどうしようもなかったので、梅原の提案はまさに願ってもない話だった。沙月の母は彼が食べ終えた朝食の皿を取り上げて「診察に関しては本人次第だけど」と言いながら流しへと歩いて行った。沙月はテーブルに残された飲みかけのコーヒーを持って、キッチンからリビングへと向かった。
彼がリビングに来ると、ルナはテーブルに広げていた地図から顔を離した。彼女は沙月に、自分が逃げてきた研究所の場所を探していたと告げた。彼女は水曜の夕方、十坂峠の入り口付近で沙月と出会うまで、道から逸れた木々の間を数時間程走り続けたらしい。正確な事は分からないが、ルナが言うには東の方角から逃げて来たのではないかとの事だった。彼女は地図を見ながら人差し指を滑らせた。
「建物の周りは木に囲まれていたから、研究所の場所は、この山の中だと思う。だけど、見つからない……」
「……その建物ってどのくらいの大きさなの」
「分かんない。倉庫か何かのシャッターが上がった場所から出てきたから……でも、かなり大きいはず」
ルナは自分がいた施設の外観は覚えていなかった。建物を抜け出した直後、目の前に見えた木々の間を死に物狂いで走ったとの事で、振り返る暇も無かったという。彼女が思い出した記憶によれば、研究所の内部はかなりの広さがあったらしい。
「多分、3階以上はあったはず。建物の中に、エレベーターがあったから」
沙月はルナの向かいのソファーから身を乗り出して地図を見た。新しく出来た幹線道路は北東から10km以上に渡っていて、東側には確かに山が伸びている。しかし地図にはそれらしき場所は存在しなかった。
研究所はおろか条件に当てはまる建物自体が見つからないのは、奇妙なことだった。ルナはその施設を抜け出してから、ずっと木々の中を逃げてきたという事で、もしそうなら必ず山が続く場所のどこかに建物があるはずだった。山のふもと付近には数か所大きな建物があったが、彼女は研究所の場所は山の中だと断定していた。「もし開けた場所があったなら、たとえ焦っていたとしても気が付いたはず」というルナの意見については沙月も同感だった。沙月はネットの地図で調べることを提案し、二人はリビングを出た。
「スサノオの事、私もよく分からないの」
部屋に向かう途中、ルナは沙月の方に首を向けて言った。どうやらキッチンでの会話を聞かれていたらしかった。ばつが悪そうに謝ろうとした沙月を遮って、彼女は首を横に振った。研究所でそんな言葉を聞いた様な気がしたので、気になって調べただけだとルナは笑った。ここ数日の間落ち着いてきた為か、少しずつではあるが最近の記憶が戻ってきていると彼女は語った。彼女の言葉に沙月は口元を緩ませた。またルナは、病院での治療についてもある程度は前向きな様だった。長い間閉じ込められていた事もあり入院はしたくないが、自分の記憶を取り戻す為、定期的に通う程度なら大丈夫だという。治療を提案してきたのが、学校で知り合った野薔薇が信頼する医者の梅原だというのも理由の一つだった。沙月は彼女に、今日の午後姉を迎えに行く時、一緒について来たらどうかと尋ねた。ルナはそれを聞いて俯きながら頷いた。
その後部屋に戻った二人はパソコンで周辺の地図を調べたが、やはりそれらしき建物や施設の情報を得る事は出来なかった。
病院からの帰り、自宅へ向かう乗用車のボンネットには、雲間から射す太陽の光が反射していた。助手席に座っていた沙月は眩しそうに首を運転席の方へ曲げた。自動車を運転する母親はいつの間にか大きめのサングラスを掛けていた。後ろの席では、余美がギプスで固定された腕をコツコツと叩きながら、隣に座っているルナと会話していた。ルナはこの前外出した時と同様、つばの長い姉の帽子を被っている。
「でも良かった、ルナちゃんがいてくれてさ!さすがに腕が治るまで家で一人っきりは寂しいもんねー」
余美の言葉にルナは困ったような笑みを浮かべた。
「いえ、そんな……私の為に、本当にすみません」
「いいのいいの!何か困った時は助け合わなきゃじゃん?ルナちゃんの事、私が許可します!」
運転席で話を聞いていた母は苦笑いをした。ルナの今後について目途が立ったからか、母は落ち着いた様子であり、それに気づいた沙月もまた安心感を覚えた。
助手席に向き直った沙月は、正面の道路に目を向けた瞬間息を飲んだ。対向車線にパトカーが走ってくるのが見えたからだった。先ほど彼の中で生じた安心感は消え失せ、対向車線のパトカーが接近するにつれて緊張感が高まってきた。パトロール中であろうパトカーは、そのまま何事もなく、彼の乗った自動車の横を通り過ぎて行った。
携帯ショップの駐車場で、沙月は母親が運転する自動車を見送った。もともと病院からの帰りに新しいスマートフォンを購入して、そのまま自宅に向かう予定だったが、彼は自分だけ店に降ろして、そのまま家に帰るように言った。携帯ショップから自宅まではそれなりに距離があるが、沙月は早くルナを安全な場所へ連れて行ってほしいと考えた。彼が先ほど警察のパトカーを見たことが、街中で長時間彼女を待たせる事に対する危機感を抱くに至った要因だった。彼は母の自動車が完全に視界から消えてから、店の自動ドアをくぐった。
壊れた携帯からのデータ復元は、沙月が予想していた通り不可能だった。彼が取り出したスマートフォンの破片を見せると、対応していた店員は苦笑し、沙月も思わず愛想笑いを返した。その後の手続きは淡々と進み、特にプランの変更をすることも無かったので、彼は30分程度で新しいスマートフォンを手にすることが出来た。連絡先データの移行は不可能だったが、通話アプリのアカウント等の情報は引き継げたので、一応は連絡が取れるようになった。
携帯ショップを出る頃には、雲は風で流されて太陽が青空の中に輝いていた。スマートフォンを手に入れたからか、沙月は店に来たときよりも大分落ち着いていた。風が吹く道を歩きながら、彼は母を先に家に帰したことを少しだけ後悔していた。確かにルナは警察にも組織の関係者がいると言っていたが、なにも警察全員が敵という訳ではないだろうと沙月は思った。もし仮にその組織が彼女を探していたとしても、まさか自分が匿っている事に気づかれるはずがない。それに学校にも病院にも、彼女が記憶を取り戻すまで守ってくれる大人がいる。そんな風に考えると、先ほどまで感じていた不安感はある程度小さくなっていった。
と言っても、やはりその組織については謎のままだった。沙月はルナが記憶を取り戻した後どうなるのか考えた。もし彼女が記憶を取り戻せば、彼女の家族がどこにいるのかも分かるだろうし、研究施設の場所や組織についての情報も分かるだろう。だが、その後どうすべきかは中々難しい所だった。彼はあれこれ考えながら住宅街へと続く道を曲がった。
俯きながら歩いていた沙月は、正面から歩いてくるコートを着た男性の存在に、全く気が付かなかった。道を曲がって間もなく、彼はその男性とぶつかって転倒してしまった。そんなに強くぶつかった訳ではなかったが、咄嗟の出来事に動揺してバランスを崩してしまったのである。男性は「すみません」と言いながら、路上に倒れた沙月に手を伸ばした。彼の手を借りて立ち上がった後、沙月も頭を下げた。コートを着た男性は笑顔を作り、沙月が歩いてきた道を曲がって去って行った。道に残された沙月は、気恥ずかしさから小さく息を吐いた。自宅まではもう目と鼻の先だった。
沙月が自宅に到着すると、既に自動車は車庫に留まっていた。彼は玄関の前で上着のポケットに手を入れた。普段家の鍵を取り出しているので、玄関先でそうするのが癖になっていた。すぐに沙月は皆が帰って来ている事を思い出し、ポケットから手を出した。その時彼は、右側のポケットに何かが入っている事に気が付いた。もう一度ポケットに手を入れてそれを取り出すと、どうやらそれは折りたたまれた紙だった。沙月はそれに特に心当たりがなかった。彼は玄関前で何気なくその紙を開いてみた。
開いた途端、沙月は呼吸が止まりそうになった。
君が匿っている少女について話がある
夜八時に赤羽看板裏のコンビニで待つ
誰にも言わず一人で来るように
この紙は処分しろ
それはペンで滑るように書いてあった。立ち尽くす沙月の後ろで、北風が音を立てて吹いた。