第5話 野薔薇
4話の続き。これで一区切りです。
学校から帰ってきた沙月は、自転車を止めようとした時に、姉の車だけでなく母親の車も止まっているのに気が付いた。昨夜帰って来られなかった為か、早めに仕事を切り上げて帰宅した様だった。彼は少女の事を思い浮かべた。自分の母親が、姉の余美と同様に少女を受け入れてくれるとは限らない。沙月の母親は生真面目な性格だったが、それ故に融通が利かない事もあった。「姉が上手く説明してくれていれば良いが」と思いながら、沙月は不安げに玄関の扉を開けた。
彼が家に入った途端、リビングから少女が走ってきた。彼女は沙月の前で立ち止まり、澄んだ声で「おかえりなさい」と言った。少女は元気そうな様子だった。
「ただいま……あの、お母さん、帰ってきてるよね?」
「うん、沙月のお母さん。私に服買ってくれたよ」
少女に言われて初めて、沙月は彼女の服装に気付いた。少女は確かに、落ち着いた色合いのブラウスに長めのスカートを穿いていた。
少女と共にリビングへ向かうと、そこでは余美と母親が、テーブルに花の図鑑を広げていた。余美は沙月に「その子が名前を思い出すまでのニックネームを考えていた」と告げた。彼女は、少女が記憶を取り戻す助けになるように、様々な本を一緒に読んでいたらしい。姉の隣で図鑑を眺めていた母は、呆れた様子で沙月に目を向けた。
「私が昼過ぎに余美に電話したら、帰ってくるとき大学生っぽい服買って来いって。それも少し小さめので、って言うんだから」
母は家についてからの事を話し始めた。彼女の話し方から沙月は、母親がまだ少女の事で戸惑っているのを感じ取った。
「証拠を見せるからって言って、この子、手のひらにナイフ刺したのよ」
それを聞いて沙月は驚愕し姉を睨んだ。
「お姉ちゃん何てことを!」
「いや、サツキくん、違うんだって!無理やりじゃないもん、私とその子で相談してやったんだから!」
「全く、この子の教育を間違えたわ」
溜息を付く母の横で余美は苦笑いした。沙月は側に立っていた少女の手を掴んで、手のひらを見た。彼女の右の手のひらには、確かに5cm程の切り傷があったが、それは既に治りかけていた。「信じてもらおうと思って」と俯く少女を見て、沙月は母親と同じく溜息を付かざるを得なかった。
彼女の自傷行為と回復能力を見せつけられ、さすがの母親も彼女の話を信じたらしく、その後は半ば思考停止して、姉と少女と三人で図鑑を読んでいたとの事だった。「あなたも何か持ってきたら」と母親に言われたので、彼は仕方なく自分の部屋から図鑑を持ってくる事にした。
「……で、表面の爆発が収まったら、また普通の明るさに戻るんだ」
「沙月が言ってる事、よく分かんない……」
少女はソファーの隣に座って、沙月の新星に関する説明を聞いていた。母は既にリビングを出て、キッチンで作業をしていた。「もっと星座の話とかしてあげなよ」と反対側のソファーに寝転んでいる余美に言われ、沙月は図鑑のページを捲った。
「あ、これは?アポロ計画、聞いたことある?」
「アポロ計画……アポロ計画……聞いた事は、ある、かも……うーん……」
少女は図鑑を眺めながら体を揺らした。今日一日、ずっと本を読んでいた彼女だったが、聞き覚えのある言葉はあっても、それを元に記憶を取り戻すには至らなかった。少女が黙り込んでしまうと、沙月も心苦しさからか、再び図鑑の解説を始めた。彼が少女と図鑑を読み始めて、既に1時間が経過していた。
「……アメリカとロシア。あ、あの頃はソ連か。で、競争してたんだよね」
再び専門的な話になりそうな所を姉にたしなめられ、沙月はまたページを捲ろうとした。その時突然「待って」と図鑑を眺めていた少女が叫んだ。沙月が隣の少女に目をやると、彼女は図鑑の左下に書かれている表を凝視していた。それは当時の宇宙開発競争のソ連側の年表だった。少女は沙月の方を振り返り、年表に書いてある言葉を指差した。
「……これ、ルナって」
「……ルナ計画だよ。ソ連が月探査の為に立てた計画の一つ。何か思い出した?」
「名前、ルナって名前」
少女の言葉に沙月は眼を開いた。
「え、それ。君の名前って事?ルナって名前なの?」
「分からない、けど……私、ルナって聞いた事ある、気がする……」
沙月と少女は目を合わせた。その様子を見ていた余美は、寝転がったまま二人に微笑んだ。
「よーし。なら本当の名前思い出すまでは、ルナちゃんだね」
夕食を済ませた後、沙月は母親に流星群観測の事を伝えた。母は少女を外に連れ出すのに反対したが、場所が高校の屋上だと聞くと緊張を解いた。もし何かの組織に追われていたとしても学校なら安全だろうと思ったからだった。また彼女は、安藤教諭と沙月の仲が良い事も知っていた。
「安藤先生が一緒なら大丈夫ね。余美、あなたも一緒について行くの?」
「えーどうしよう。私も行っていいのかなぁ」
「大丈夫だよ。先生が言ってたから。お姉ちゃんも来るといいよ」
私絶対浮くよねと余美は笑ったが、少女の保護者役として、彼女も観測に付き合う事になった。
沙月はカメラと三脚、望遠鏡を母親の車に積み込み、余美と少女もそれを手伝った。時刻はもう20時を過ぎていた。空は昨日と同様に雲一つなく、また夜の空気は冷たかった。
「それじゃあ、余美。沙月とルナちゃん、よろしくね」
何かあったら電話してと言い残し、母の運転する車はエンジン音で空気を震わせながら、学校の裏口から出て行った。沙月の両手は、彼の望遠鏡とカメラの三脚で塞がっていた。姉が扉に手を掛けると、ガチャリと音がしてドアは開いた。裏口の鍵は掛かっていなかった。沙月は両手が塞がっていたので、少女にポケットのスマートフォンを取り出してもらい時間を確認した。
「もう21時だよね……皆まだ来てないのかなぁ」
「勝手に入っちゃおうよ、外で待ってても寒いもんね。ほら、ルナちゃんもおいで」
そう言って余美は少女を連れて校舎の中に入って行った。沙月もその二人の後に続いて裏口の扉をくぐった。
裏口からの廊下は部分的に電気が付いており、廊下を進んだ左にある保健室からは光が漏れていた。沙月はゆっくりと歩いて行って、保健室の入り口から中を覗いてみた。そこでは、白衣を着た男性と女子生徒、そして安藤教諭が話をしていた。
「晴沢さん?」
「あ、サツキくん…こんばんは。流星群観測するんだってね」
彼女は沙月に笑いかけた。その細くなった目の下には相変わらず隈が出来ていた。
「今日も体調悪くて保健室で眠ってたの。病院行こうかと思ったけど良くなったよ」
「おや神嶋くん、安藤先生に聞きましたよ。屋上貸切ですって?」
「こんばんは梅原先生。それに安藤先生も」
安藤は身体をこちらに向けると、梅原と女子生徒を指した。
「晴沢さんも一緒に流星群観測に付き合いたいそうだ。先生、彼女の体調は大丈夫なんですね?」
「えぇ、勿論です。という訳で神嶋くん。ぜひ野薔薇ちゃんも入れてあげて欲しい」
そう言って学校医の梅原准一は、晴沢野薔薇の肩をポンポンと叩いた。彼女は沙月に「よろしくね」とほほ笑んだ。
沙月達は保健室から出て、廊下で待っていた余美と少女に声を掛けた。簡単に言葉を交わした後、沙月は望遠鏡をセットする為に、安藤と一緒に屋上へ向かった。残された4人は保健室の前で、まだ来ていない他の生徒を待つ事にした。
「知ってるよ、晴沢さん。美術部なんでしょ」
「はい。サツキくんと一緒です。クラスも同じなんですけど、あんまり顔出せないので」
余美は野薔薇について、前に沙月から少しだけ聞いた事があった。弟が言うには、彼女は体が悪く定期的に中央病院に通っており、学校でもクラスより保健室にいる事の方が多いとの事だった。またそんな彼女も、部活動には積極的に参加していて、良く絵画で賞を取っているらしかった。
「彼女の絵は繊細で美しい」と学校医の梅原は頷いて余美を見てから、その隣の少女に向きを変えた。
「それで、そちらが神嶋くんの親戚の。ルナさんですか」
「はい……か、神嶋ルナです。色々あって今学校には行ってないんです……」
緊張した様子の彼女に、野薔薇は優しい声で言った。
「私もね、殆ど学校行ってない感じだよ……ねぇ、ルナちゃんって呼んでいいかな?」
「え、えっと、いいよ。の、野薔薇ちゃん?」
「うん。よろしくねー」
野薔薇は落ち着いた声で、保健室での生活について話し始めた。最初は戸惑っていた少女も、彼女の穏やかな言葉に耳を傾けるうちに、次第に打ち解けた様子だった。そんな二人を余美が見ていると、梅原が彼女に話しかけてきた。
「お姉さん、ルナさんの事なんですけど」
「はい。なんでしょう?」
「無理にとは言いませんが……彼女、良ければ少しの間こちらに通わせてみては?」
「え、学校に……って事ですか?」
突然の梅原の提案に余美は目を丸くした。
「いえいえ、別にクラスで授業を受けろという訳ではありません。見ての通り、野薔薇さんは多くの時間を保健室で、それも一人で過ごしています。よく調子が悪くなるので、ここと病院を行ったり来たりするのも珍しくありません」
梅原は小さく息を吐いて、少女たちが話しているのを眺めた。
「ルナさんも、何か前の学校で問題があったのなら。私も学校関係者として、協力したい。高校で生活する為の許可を取る、なんて固い事では無いんですよ。ただ、神嶋くんの親戚として、また野薔薇さんのお友達として、こちらに顔を出して貰えたらと思ったんです」
「……そうですね。本人次第ですが、いいかもしれません」
足音が聞こえ、廊下の向こうから沙月と安藤が戻ってきた。それから少しして、裏口のドアが開き、尚介と優斗が入ってきた。全員来たのを確認すると、安藤はしゃがれた声で呼びかけた。
「さて、ではこれからオリオン座流星群の観測を始めよう。私と神嶋くんで望遠鏡も準備したから、他の星も観察できる。そうだ、教頭先生からCDも預かっている。例のごとく、クラシックだ」
屋上からの眺めは、10月の寒さを忘れる程美しかった。足元にはマットと毛布が敷いてあり、その側には屋外用のヒーターも準備してあった。沙月は皆に手を引かれ、望遠鏡の調節を頼まれた。「流星は肉眼で見るものだよ」と言いながら、彼はファインダーを覗いた。ハンドルを回して望遠鏡の向きを調節している時、沙月はふと伏栗義彰の事を思い出した。
「この次は義彰くんも一緒に観測できるといいな…」
間もなく彼は、ファインダーの中央に月を捉えた。沙月は接眼レンズに目を移して、ピントを調節し始めた。
同じ頃、校庭のフェンスの向こう側から、何者かが土橋南高校の屋上を見上げていた。だがそんな事は、今の沙月達には関係のない事だった。