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アマテラスの残響(こだま)  作者: 黒井鶏
学校編
4/8

第4話 浸食

第3話の続きです。

 窓から差し込む日光で目を覚ました時、部屋の空気は冷たく澄んでいた。セットした目覚ましのアラームはまだ作動していなかった。神嶋沙月かみしまさつきは布団の中で身体の向きを変えようとした時、自分が筋肉痛になっているのに気が付いた。あんな事があったにも関わらず、昨晩すぐ眠りにつく事ができたのは、十坂峠の往復で疲れていたからだと彼は思った。沙月は床に敷いた布団から体を起こし、窓の方を見た。

 昨夜閉めたカーテンは大きく開かれており、ベッドの上では上半身に何も纏っていない少女が、彼に背を向けたまま窓の外を眺めていた。昨日姉が治療の為に巻いたであろう包帯とガーゼが、ベッドの上に無造作に置いてあった。沙月はそんな彼女の身体を見て、ふと違和感を覚えた。彼は彼女の後ろから「おはよう」と声を掛けた。そんな彼の声に、少女は特に戸惑う様子もなく、ゆっくりと振り向いた。彼女の白い肌は、ガラスを通して入り込んだ光に照らされて、その輪郭を浮かび上がらせた。咄嗟に顔をそむけようとした刹那、彼は自分の感じた違和感の正体に気付き目を剥いた。沙月は少女の上半身に釘付けになったまま、しばらくの間動くことが出来なかった。

 彼女の体中にあった傷口は、全て完璧に塞がっていた。




「これ、凄い……」


そう呟きながら、沙月の姉は少女の腹部を指でなぞった。Tシャツをたくし上げていた少女は、くすぐったそうに体をくねった。沙月はその傍らに立って、二人の様子を横目で見ていた。包帯が巻いてあった場所には、乾いた血が薄く皮膚に付着しているだけで、最早傷の痕跡は殆ど見られなかった。余美はしばらく少女の前にしゃがんで、彼女の肌の表面を凝視していたが、不意に立ち上がり少女と顔を合わせた。


「とりあえず、お風呂、入っちゃおうか」

「……お風呂ですか」

「ん、体汚れてるからね。サツキくん、朝は昨日買ってきたパン食べてってね」

「……うん、分かった。ありがとう」


二人は着替えを持って風呂場へ歩いて行った。リビングに残された沙月は、おもむろにソファーに腰を下ろすと、壁にかけてある時計を見た。時刻は既に7時を回っていた。「シャワーを浴びる時間はあるだろうか」とぼんやり考えながら、沙月はテーブルの上に置かれているソーセージパンの袋を手に取った。




 家を出て高校へ向かう途中で、沙月はカバンに化学の教科書を入れ忘れたのに気が付いた。余美たちと入れ替わりでシャワーを浴び終えた頃には、既に普段登校する時間を過ぎていた。姉と少女に見送られて玄関を飛び出したが、冷静に考えれば、彼は普段から余裕を持って家を出ていたので、それほど急がなくても十分ホームルームには間に合っていたはずだった。沙月は自分が必要以上に焦っていたことを後悔した。さすがにこれから家に戻っている時間は無い。彼は自転車を漕ぎながら小さく溜息を付いた。




 教室に入る前から、2年生の廊下は異様に騒がしかった。沙月が2年3組の教室に入った瞬間、教室の前の席で数人の男子生徒と会話をしていた尚介なおすけが飛んできた。


「おい、サッツー!聞いたか、ヤバいぞ、伏栗ふしぐりくん事故ったって!」


沙月はそれを聞いてギョッとした。


義彰よしあきくんが……いつ、どこで!?」

「昨日昨日、なんか血まみれで道で倒れてたって。ひき逃げらしいぞ。ほら、あの、赤羽って書いてる看板の前の道で」

「それで……大丈夫なの」

「いや分かんねぇ。噂では生きてるらしいけど。なんか昨日4組の奴らが発見したみたいでよ。もうヤバい状態だったらしい。今中央病院にいるって」


一通り話し終えると、尚介は4組に行くと言って教室を出て行った。沙月は自分の席に座ると、机に肘をついて押し黙った。伏栗義彰ふしぐりよしあきは沙月と同じクラスで、非常に成績の良い男子生徒だった。沙月と彼はいわゆる勉強仲間で、1週間前の中間テストでは、他の数名の生徒と一緒に点数を競い合っていた。沙月からすれば彼は、尚介と優斗を除けば一番良く話を交わすクラスメイトだった。沙月が自分の席で俯いていると、有牙優斗うきばゆうとが悲しげな表情で近づいてきた。


「伏栗くんの事聞いたよ。何ていうか、ね……心配だ」

「……うん」

「あの、大丈夫?……神嶋くんは」

「あぁいや、大丈夫だよ……義彰くん、無事だといいけど」

「そうだね……」


沙月は優斗に気を使わせまいと返事をしたが、表情は暗いままだった。友人が事故にあった事もそうだったが、それ以上に沙月は交通事故に敏感だった。彼の父親が交通事故にあって亡くなったのがその理由だった。その事を優斗は知っていたので、沙月を心配して声を掛けたのだ。また沙月も、そんな彼の気持ちを理解していた。

 ややあって、教室を出て行っていた生徒と共に、2年3組の担任が入ってきた。そして噂で流れていた通り、義彰が昨日の夕方事故にあったと語った。非常に危ない状態で発見されたこと、また昨日の夜から続く緊急手術で、幸運にも一命を取り留めたことも説明した。それを聞いてクラスの生徒は安堵し、沙月も彼ら同様に心に落ち着きを取り戻した。彼は現在、鳴沢中央病院に入院しており、しばらくは面会できないとの事だった。「いつ退院できるかは分からないが、会えるようになったらまた伝える」と言って、担任は話題を変えた。11月の文化祭についての話だったが、その内容は沙月の頭には入ってこなかった。




 午前中の授業は、基本的に中間テストの返却と解説だった。返却の際、毎回義彰のテストが横に避けられるのを見て、沙月はやりきれない気分になった。友人の命が無事だと分かり、とりあえずは安心した沙月だったが、今度は彼の事故について疑問が生じ始めた。「彼の怪我は本当に唯の事故だったのだろうか」と沙月は思った。彼の頭の中に、昨日十坂峠で少女を見つけた時の事が鮮明に浮かんできた。もしかすると、彼も何かの事件に巻き込まれたのではないか。沙月は少女の事を思い浮かべた。昨夜確かに彼女の体中にあった切り傷は、今朝には完全に治っていた。それは、少女の語った組織や人体実験への疑いを払拭するには、十分過ぎる事実だった。沙月の中で、到底答えの出ないであろう疑問が、表れては消えていった。ずっとそんな調子だったので、彼は尚介達に話しかけられるまで、午前中の授業が終わったことに気付かなかった。


「いやー参った。俺、古典と化学死んだわ」

「……っ!おい、尚介!」


尚介の死という言葉に反応して優斗は彼を睨んだ。尚介も言った直後に不味かったと気が付いて「あ、悪い」と謝った。


「いやぁ、いいよ。でも義彰くん、早く元気になるといいな」

「そうだね。先生の言い方だと、そう何年も入院するなんて事は無さそうだし」

「うん、でも授業とかは大丈夫かな」

「心配すんなって。伏栗くんはマジで頭いーからな!もし半年勉強しなくても絶対俺より点数いいぜ」


尚介は沙月の背中を叩いて笑った。そんな彼の様子を見て、沙月も自然に口元が緩んだ。


「でさ、サッツー。お前今日弁当?もし違うなら購買行こうぜ」

「すっかり忘れてた。うん、行こうよ」


沙月はカバンから財布を取り出すと、二人と一緒に教室を出た。




「そう言えばサッツーさ。今日流星群見るって言ってたよな?」


購買で昼食を買った後、ピロティの先にある自販機に向かう途中で、尚介は沙月に言った。


「うん、一応今日、だよ」

「もしお前が良いんなら、俺も一緒に見ようかなと思ってさ」


彼の意外な言葉に、沙月は嬉しくなった。隣では、そんな彼を見て優斗が微笑んでいた。


「そう言えば、昨日安藤先生と会ってね。今夜学校の屋上で観測できるかも知れないんだよ」

「安藤先生って確か地学の先生だよね。神嶋くんと仲良いの?」


優斗の問いかけに、尚介は頷いた。


「そうなんだよ優斗。こいつ1年の時に俺んとこにさ、天文学部に入ってくれって安藤先生連れて頼みに来たんだよ」


「結局そこそこ人数集まったのに駄目だったんだよなぁ」と尚介は沙月を見た。沙月は苦笑いをした。実の所、彼自身も何故新しい部の申請が通らなかったのかは知らなかった。表向きは顧問の掛け持ちの問題が云々と言われたが、安藤はその時「教頭の頭が固いんだ」と話していた。

 その内に3人は自販機の前に着いた。沙月が飲み物は自販機で買いたいと言ったからだった。彼はいつものように小銭を入れると、迷わずサイダーのボタンを押した。


「神嶋くんって、いつもそのサイダー飲んでるよね」

「うん。このサイダーって他の場所では中々売ってないんだよ。コンビニとか外に設置されてる自販機でも見かけなくて。このサイダー買えるのはここだけなんだよね」

「へぇ、じゃあ俺も買おう」

「なら僕も」


サイダーを買って教室へ戻る途中、3人は階段で安藤と出会った。階段を下りながら、安藤は隣の教頭と話をしていたが、沙月に気が付くとすぐ話しかけてきた。


「やぁ、神嶋くん。それに船山くんと…有牙くん、だったかな」

「こんにちは、安藤先生」


安藤は今夜の観測で使う機材やその他の備品に関して、教頭と話していたらしく、既に屋上の使用許可は取ったとの事だった。安藤は昨日事故にあった義彰の事で、沙月が観測を取りやめるかも知れないと思っていたが、思いの外乗り気な3人を見てほっとした様だった。


「中央病院には土橋南の生徒だけでなく、我々教員も世話になってるからね。非常に信頼できる機関だよ」


安藤の隣に立っていた教頭が、優しく低い声で沙月達に言った。


「伏栗くんも、すぐ元気になるさ。昨日病院から連絡を受けてね。安藤先生と一緒にすっ飛んで行ったよ。まぁ兎も角、手術は成功したし一安心だ。そうだ、彼のお見舞いにクラシックのCDを持っていこうかな。モーツァルトが良いだろう」


教頭がクラシック音楽の薀蓄に突入しそうになり、安藤は慌ててそれを遮った。


「今日の夜は一応眠れるようにする予定だが、勿論途中で帰ってもいい。あまり早くに来ても仕方がないだろうから、21時を目安に裏口から入って来るように」


3人が教室へ戻ろうとした時、安藤は言い忘れていた様に沙月に声を掛けた。


「そうだ、神嶋くん。もしお姉さんや親戚の女の子も連れてきたいなら、全然かまわないぞ」




 教室に戻った沙月は、買ってきたおにぎりを食べながら、尚介の質問攻めをうまく誤魔化さなければならなかった。


「だからナオ、僕とその子は別に付き合ってる訳じゃなくてね……」

「じゃあ名前だけ、名前だけでいいから教えろって!」

「いや、それはね。ほら……」


騒ぐ二人の隣で、暫くスマートフォンを弄っていた優斗が、不意に二人に呼びかけた。彼は「大したことじゃないんだけど」と言って、スマートフォンの表面を撫でた。


「伏栗くんの事……まだどこもニュースで取り上げてないんだよね、ひき逃げ事件なのに」


彼の言葉に、沙月はハッとした。スピーカーに音が入り、昼休みの終りを告げるチャイムが聞こえてきた。「まあ焦らず情報を待とう」と席に戻って行く友人の後ろ姿を見ながら、沙月は束の間の平穏な気持ちが、再び不安に浸食されていくのを感じた。

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