第2話 遭遇
第1話の続き。
死んでいる。足元に倒れていた少女が目に映った時、神嶋沙月は直感的にそう認識した。彼女の身体から出血を認めたのも勿論だが、それ以上に彼女自身の異質な雰囲気、いわば「生きている普通の人間」とは別の何かを感じ取り、それが彼の「死体に対する認識」と直結した。だが、沙月は間もなく自分の直感が間違っている事を知った。足元の少女は横を向いたまま目を見開いてはいたが、それと同時に非常に深く、また息を殺すように呼吸していた。そのことに気が付いた彼はある程度落ち着きを取り戻し、それと共に彼の全身の鳥肌も収まった。
沙月が少女の側にしゃがみ込んで何か声をかけようとした時、彼女は横になった体勢のまま、目だけをぎょろりと動かして彼を見た。沙月は一瞬たじろいだが、なんとか喉から声を絞り出して言った。
「あの……大丈夫ですか?」
そう言った直後に彼は後悔した。自分と同い年ぐらいの少女が体中怪我をして倒れているのに大丈夫なわけがない。彼女の着ているシャツは血液で赤く染まり、シャツが捲れさらけ出された彼女の腹部には、抉れたような切り傷が見えている。沙月は怪我の手当てをしようと考えたが、すぐに思い直し、ズボンのポケットからスマートフォンを取り出した。
「今すぐ警察、あ、救急車、呼ぶので……」
そう言いながら画面を出そうとした瞬間、突然少女は飛び起きて沙月を押し倒した。そして彼の手からスマートフォンをもぎ取ると、そのまま片手でそれを握り潰してしまった。沙月は愕然として、自分に覆いかぶさって息を荒げている少女と、彼女の左手に握られたグシャグシャのスマートフォンの残骸を交互に見た。少女はその大きな眼で沙月を見つめたまま、初めて言葉を発した。
「警察は、ダメ……警察にも、組織の手が……伸びてる」
彼女は力が抜けた様に沙月の横に倒れ込んだ。沙月は上半身を起こして、彼女の方に向き直った。「傷の手当てを」と言う沙月に少女は大丈夫だと答え、それより何か飲みたいと言った。沙月は昼休みに自販機で買ったサイダーの残りがあったのを思い出し、急いで自転車を留めた場所へ走った。
峠の木々はいよいよ紅に染まり、それを照らす夕日も間もなく地平線に沈もうとしていた。沙月は気が抜けた様に突っ立ったまま、自分の目の前にいる少女がペットボトルのサイダーを飲み干すのを眺めていた。彼女は飲み終わった空の容器を足元に投げ捨てた後、下を向いたまま数回深呼吸をして、沙月の方を見た。
「……ありがとう。それから、携帯電話、ごめんなさい」
「いや、うん、いいよ。全然気にしてないから」
沙月は裏返った声で彼女に答えた。少女は自分の足元のスマートフォンの残骸を拾い上げ、気まずそうに彼に手渡した。画面は粉々に砕け、フレームは外側のカバーごと滅茶苦茶に拉げている。沙月が受け取ったそれを呆然と見つめていると、彼女は唐突に、自分を匿ってほしいと告げた。秋風が峠を抜けて、二人の周りの木の枝葉を揺らした。
「……とにかく、まず山を下りよう。山降りたら、少し歩けば僕の家だから」
沙月は自転車とカバンを駐車スペースに残したまま、傷だらけの少女に肩を貸してゆっくりと坂を下り始めた。
沙月が少女と共に家に帰り付いたのは、18時を過ぎてからだった。扉を開けて玄関に座り込むと共に、沙月の身体には疲労の波が押し寄せてきた。沙月は力を振り絞って隣の少女をリビングのソファーへ運んだ後、救急箱とタオルを用意した。彼は思考がおぼつかないまま、傷口を洗う為にお湯が必要だと思い、リビングを出て風呂場に向かった。
数分後、お湯を張った洗面器を持って戻ってきた沙月は、予想外の光景を目にした。リビングでは、シャツを脱いだ少女が呻き声をあげながら、自身の腹部を素手で引き裂いていた。彼女はその傷口に指を突っ込むと、体の中から棘のついた1メートルほどのワイヤーを引きずり出した。抜け出たワイヤーがしなって、血が肉片と共に周りに飛び散る。少女は再び傷口に指を入れる。飛び跳ねた血が沙月の顔に付いた。彼は自分の手から洗面器が滑り落ちるのを感じた。血の匂いとリビングの暖房の温かさが混ざり合い、急激な眠気と共に迫ってくる。
「今日は大変だ……」
そんな言葉を呟いたかと思うと、沙月はその場に膝から崩れ落ち、フローリングの床に突っ伏した。遠のく意識の中で彼は、自分が着ている制服のブレザーが、今しがた零したお湯で湿っていくのが分かった。
「よっ、生きてる?」
沙月が目を開けると、目の前には見慣れた女性の顔があった。
「……お姉ちゃん」
「いやー本気でびっくりしたからね。ちょっと買い物行って戻ってきたらリビング血まみれじゃん?サツキくんはソファーで気絶してるし、その横では知らない女の子が傷だらけで佇んでるし」
そう言って沙月の姉、神嶋余美は、沙月の横を手で示した。沙月が振り向くと、そこには上下黒のジャージに着替えた少女がこっちを見ていた。彼女の前のテーブルにはマグカップが置いてあり、その中のココアが湯気を立てている。
「とりあえず傷はひどくなさそうだったから、簡単に手当てしてあげて、血の付いた服は今洗濯してるの。ジャージは私の着てもらってるけど、ちょっとデカいかも」
そう言って笑った余美に、少女は黙って頭を下げた。
「んで、私とその子でリビング綺麗にして、休憩!って感じ。結構バタバタしたけどサツキくん全然起きないんだもんね」
余美は沙月の分のココアを持ってきて、二人の向かいのソファーに腰を掛けた。彼女が持ってきたココアを啜りながら、沙月は自分が眠っている間の話を聞いた。余美はもともと、木曜日の沙月の流星群観測の付き添いで、彼女の車を出す予定だった。仕事が終わり実家に帰ってきた直後、母親から連絡があり「今日は仕事で帰れないので、沙月の分の食べ物を買ってきて欲しい」と頼まれたらしい。
「お母さん私が今日帰ってくるって知らなかったみたいでさ。サツキくんに電話かけたけど出ないって言うじゃん?だからリビング暖房つけてコンビニ行ってたんだけどね」
余美は「まぁ結果的にお母さん居なくて良かったよ」と言うと、今までとは打って変わって真剣な面持ちになった。
「それでさ、そろそろ話してくれてもいいんじゃない?」
沙月はソファーの隣に座っている少女を横目で見た。
「その子。サツキくんの彼女って訳でも無さそうだし、訳アリな感じなんでしょ?」
沙月は峠であった事を正直に説明した。彼が話している間、少女は黙ってその話を聞いていた。余美は弟の話を聞き終えると「そりゃ電話に出れない訳だ」と頷いた。そして今度は体を少女の方へ向けた。
「なるほどね……じゃあ次はそっち。何かの組織に追われてるって?」
少女は無言で首を縦に振った。
「で、その組織って……あ、待って。まずあなた、名前はなんていうの?」
余美の問いに、彼女は悲しげな表情を浮かべ、自分の本当の名前が思い出せないと語った。また名前だけでなく、自分の家族や昔の出来事はおろか、1ヶ月以上前の記憶が全て無いという。彼女によれば、気が付いた時には既に白い部屋にいて、様々な薬品を投与されたり、よく分からない装置に繋がれたりしていたとの事だった。「まだ混乱していて」と言う少女を見つめながら、余美は眉をひそめて唸った。
「信じがたいもんね、普通に考えれば……」
沙月も姉の言葉には同意だった。研究や人体実験という突拍子もない話に、彼はどうすべきなのか分からなくなった。沙月の隣では、相変わらず少女が決まり悪そうに俯いている。と、突然余美が手を叩いて立ち上がった。
「よし、今の話が事実かどうかは置いといて!あなた、今日は泊まっていきなよ」
その言葉に二人は驚いて顔を上げた。余美はニヤリと笑い、ソファーの後ろからコンビニの袋を取り出すと、買ってきていた食べ物を並べ始めた。
一時の安全な場所を確保した為か、コンビニのお弁当で空腹が満たされた為かは定かではないが、少女はさっきよりも幾らか元気に話すようになった。そんな彼女の様子に沙月と余美も安堵し、次第に緊張が解けていった。そんな中、沙月はふと峠に自転車とカバンを置いてきたのを思い出した。
「んー、別にこっから近いからね。取りに行こうか」
余美の提案を聞いて、少女は一緒に付いていくと言った。沙月は彼女に、家に残っても構わないと言ったが、彼女は一人になりたくないと沙月の腕にしがみついた。余美も「私の車広いし余裕で自転車も積めるから」と了承し、万一の事を考えて、少女には自分の帽子を被らせることにした。
3人は玄関から出ると、素早く車に乗り込んだ。後部座席に乗ってからも、少女は相変わらず沙月の腕に抱き着いていた。雲一つない空の上では、のっぺりとした臥待月が顔を出し、この寒い夜を明るく映していた。申し訳程度の暖気の後、車はクリープ現象でのろのろと動き始めた。
「……この間のジャコビニ流星群の時は曇ってたからなぁ」
車の窓から夜空を眺めながら、沙月はポツリと呟いた。
家を出てから30分も経たない内に、余美の運転する自動車は目的の場所に付いた。数時間前に下ってきた時はあんなに大変だったのに、と沙月は思った。車は坂道を左に曲がって、駐車スペースの入り口から少し進んだ場所で停車した。
「あそこに留めてある、お姉ちゃんは車回しといて」
そう言って沙月は車を降りると、少女に手を掴まれたまま一緒に走っていった。二人を見送った後、余美は彼らの向かった方向に車を動かそうと正面に顔を向けた。次の瞬間、彼女は全身が硬直した。彼女の車の少し先、山の木々にギリギリ接する位置に、黒いセダンが横向きに駐車されていた。
沙月は少女と共に、留めてある自転車に駆け寄った。カバンは後輪の横に立てかけられ、自転車のカギは付いたままだった。良かったと沙月が思った時、急に彼の右腕が締め付けられた。とっさに目をやると、少女は彼の腕を握りしめたまま、自転車の先、暗い木々の間を凝視している。沙月は彼女が見つめている方向に顔を向けて息を飲んだ。
「こんばんは、神嶋沙月くん」
その見えない闇の中には、確かに男が立っていた。