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短編小説

童話『夢の卵』

 エンテレン共和国スミンテウス市の西の端、レーヴ通りには魔女の店が二軒ある。ひとつは薬屋。年老いた魔女フォルトゥナが(いとな)んでいる。もうひとつは若い魔女ミルテが営む夢の卵屋。

 夢の卵というのは、石の中に夢を閉じ込めたもの。宝石や硝子(ガラス)玉、それから道端に落ちている石ころまで石なら何にでも、どんな夢でも詰め込める。ミルテが使える魔法は人が思い浮かべた夢を石に閉じ込める魔法、それひとつだけだった。ミルテの店の真向かいにあるフォルトゥナの店では、病気に合った薬を作る魔法と占いの魔法、二つを売り物にしていた。彼女の店は繁盛していたが、ミルテの店に客はいない。スミンテウスの町は一昨年から幾度も長雨があり、小麦があまり取れていなかった。そのことで、ほとんどの人に生活の余裕が無く、夢の卵はまったく売れていない。夢の卵は、握って眠ると閉じ込めてある夢が見れる。ただ、それだけ。もともと何の役にも立たないのだから多くは売れないというのも(うなづ)ける。

 レーヴ通りの並木(なみき)になっているプラタナスの枯れ葉が道の石畳を(おお)い、冷たい風が吹けば、その枯れ葉を(さら)って行く。見上げれば空は鉛色(ナマリイロ)。スミンテウスの短い秋も終わり、もうじき冬が来る。


 今日もミルテの店に客は来なかったが、夕方になると少年が一人、掌に載るくらいの石ころを持って現れた。扉が開かれると飾ったリースに付けてある鈴がカランと鳴った。

「ミルテお姉ちゃん」

「あら、、いらっしゃい」

「すごく丸い石を持って来たよ。いくらで買ってくれる?」

「どれどれ、見せて」

「こないだよりも、もっと丸いよ」

 そう言いながら、葡萄(えび)色の長椅子に勢いよく座る。少年の名はヨアン。七歳になったばかり。夕方になると自分で拾って来た石ころをミルテの店に売りに来る。今年の夏頃から週に一度は来ているが、先週は来なかった。

(しばら)くぶりね。どうしてたの?」

 ヨアンは、寒さに(かじか)む両手を(こす)り合わせ、白い息を吐き掛けている。

「丸い石が見付からなかったんだ。でも、それはすごく丸いでしょ?」

 ヨアンは()せていて、汚れた薄っぺらい服を着ている。ミルテは丸い石ころを受け取り、じっと見て、引っくり返してまたじっと見る。

「ほんとだ、すごく丸いね」そう言ってミルテは銅貨を二枚出し、ヨアンに渡す。

「うわあ、銅貨二枚だとパンがふた切れも買えるんだよね。ありがとう」

「こちらこそ、ありがとうね。また持って来てね」

 店を出たヨアンは何度も振り返り、ミルテに手を振りながら路地へ走って行った。その路地の奥にはパン屋がある。ヨアンは、いま貰った銅貨を払い、粗末な黒ずんだパン切れを買うのだろう。ミルテは手を振りながらヨアンの姿を見送った。

 そこへ向かいの薬屋を営む年老いた魔女フォルトゥナが通り掛かった。小麦粉の袋を重そうに抱えている。落としそうな袋を抱え直し、ミルテに言った。

「あれは孤児(みなしご)だろう? 相手にするとろくな事がないよ」

「そうかしら」

「そうさ」

「それでもいいのよ」

 フォルトゥナは呆れた様子で溜め息を()いた後、声を小さくして言った。

「ミルテ。同じ魔女のよしみで教えてやろう。夢の卵の値段を上げな」

「いいえ。夢を込めるだけなら銅貨五枚と決めていますから」

「そうかい。でもね、客が自分で宝石を持って来て、夢を込めてくれと言ったなら高くしな。宝石を持ってるくらいだから金も持ってる。そういう客からは、せめて銀貨一枚を取りな」

「銀貨? いいえ、そんなには取れないわ」

 この町での取り引きは金貨一枚が銀貨百枚。銀貨一枚が銅貨百枚と決められている。

「そうかい。お前は、この三日間、ろくに食べていないだろう」

「フォルトゥナは何でもお見通しね。大丈夫。まだ少し玉ねぎがあるわ」

「飢え死にしたいなら勝手にしな」

「あら、なんとかなるわ。でも、どうしてそんなことを?」

「……ごらん。あそこにいるだろう」

 レーヴ通りに面した家々の窓に夕陽が反射して、澄んだオレンジ色に光っている。

「どこ?」

「この通りの終わりにある橋の上さ」

 ミルテの店の前から八十歩。そこには川が流れている。川は大人の背丈二人分ほどの幅で、レーヴ通りを断ち切っている。その川には木で出来た橋が架けてある。欄干には蔓が巻き付いていて、夏になると香りの良い白い花が咲くのだが、今は赤茶色の葉しかない。ミルテが目を()らすと欄干(らんかん)の上に何か動く生き物が見えた。

「あれのことかしら?」

「あれのせいで、これから人が死ぬだろうね。ほら、そこにも」

 窓の下を一匹のネズミが走り抜けた。

「……ネズミのせいで病気が流行るのね……」

「ああ、そうさ。次の満月の日を越すと、この町スミンテウスは地獄になる。もし、よその町に店を移すのなら少し貯えがあった方がいいのさ。移さなくても暫くはここから離れた方がいい」

「ありがとう、フォルトゥナ。でもここが私の住む所だから」

「バカだねお前は。自分の力を安売りして。お前の母親は頭の良い魔女だったよ。石ころに詰める夢ひとつに金貨を五枚も取ってたんだからね。他にも良く効く毒薬を作れた。占いで近い未来と遠い未来を知ることも出来た。古い死者の声も聞けた。ただ、ミルテ、お前の声は聞こえなかったようだがね」フォルトゥナは吐き捨てるように言った。

「私は母とは違うのよ」ミルテは笑って答えた。

「確かにそうだね。何もかも」

「あら、魔女ってことだけは同じでしょう?」

「ああ、そうだね……。いいかい。ネズミには近寄るんじゃないよ」

「ええ、分かったわ。フォルトゥナは町を出るの?」

「こんな老いぼれは、いつ死んでもいいのさ」

「薬屋が無くなると町の人たちが困るわ」

「薬など役に立たないね……」

 ミルテは両手を差し出し、フォルトゥナの小麦粉を代わりに抱えた。

「重いでしょ? 持つわ」

「ありがとうよ」

 荷を積んだ小舟が川の上を滑って行った。積み荷の上で男が寝そべっている。そして激しく苦しそうに(せき)をした。フォルトゥナは顔を(ゆが)ませて笑った。


 それから十日経って、スミンテウスの町に満月の夜が来た。赤く大きな月が教会の屋根に差し掛かる頃に、人が亡くなったことを知らせる鐘が鳴った。立て続けに五つも。

 ミルテは一人(つぶや)いた。

(とむら)いの鐘が鳴ってる……五人……亡くなった……」

 寝台(ベッド)に入り、濁った血のような満月を窓から眺めた。不安からか、なかなか寝付けない。やがて血の月が、教会の尖塔(せんとう)()い登り、その切っ先の十字架を越え、天の真ん中に昇ると、弔いの鐘が二つ鳴った。

「フォルトゥナの言った通りになるのかしら……」

 翌朝、ミルテが目を覚ましたのは、町中に響き続ける弔いの鐘と人々の悲鳴によってだった。慌ててレーヴ通りに出てみると死体を山のように乗せた荷車が通った。ミルテは荷車を引く男たちに聞いた。

「何があったの?」

 ミルテは(すで)に知っている。けれど、聞かずにはいられなかった。男たちは荒々しく口々に答えた。

「死病だ。死病が来た」

「町中でたくさんの人が死んでるぞ」

「これからもっと死ぬ。そう、俺たちもだ」

 ミルテは(うなづ)く間も無く、町の中央広場まで駆け出した。ヨアンを探そうとした。路上で人が(うめ)いている。体には紫色の腫れ物(はれもの)が出来ている。それが破れて(うみ)(あふ)れている。男も女も子供も倒れている。死んでいる。犬が、死んだ女の子の腹を破り、はらわたを()っていた。死病に(かか)った者が出た家は、扉も窓も漆喰(しっくい)(ふさ)がれ始めていた。両親が死んだ子供は家の中に閉じ込められようとしていた。その子は、まだ生きているのに。ほとんど塞がれてしまった窓の隙間からミルテが中を(のぞ)くと、その子は声を上げて泣いていた。体中に紫色の腫れ物の出来た両親、その死体に寄り添って泣いていた。ミルテは、その子を助けようとしたが家を(ふさ)ぐ男たちに突き飛ばされた。ミルテはよろめきながら男たちに言った。

「子供は、まだ助かるかも知れないわ!」

「ダメだ! このガキもいずれ死ぬ! 首に腫れ物が出来ていた! 同じことだ! 死病は伝染するんだ! 俺たちは市長の言い付けを守らなきゃならねえ! 町の人々を守るためだ!」

「でも!」

 食い下がるミルテに、別の男が(あざけ)るように言葉を投げた。

「お前、夢の卵屋のミルテだな? 何の役にも立たねえ魔女は引っ込んでろよ」


 もう一度、両肩を突き飛ばされ、ミルテは路上に尻を突いた。家にべったりと漆喰が(かぶ)せられ、扉も窓も完全に塞がれた。

「……フォルトゥナ……フォルトゥナが薬を作っているかもしれないわ……」

 ミルテは(はじ)かれたように立ち上がり、レーヴ通りへと戻ろうとした。その途中、路地に溢れるのは泣き声、悲鳴、怒鳴り声、教会からの弔いの鐘……。

 フォルトゥナの店の前には大勢の人々がいた。ここでも泣き声、悲鳴、怒鳴り声、狂ったような鐘の音。フォルトゥナの薬屋は扉を閉ざしていた。

「もう売り切れだとよ!」

「また明日だって?! 間に合わない! 娘が死んじまう!」

「薬一個が金貨一枚というのは高過ぎる!」

「薬は一日に百個しか無いんだって! もっと作ればいいのに、フォルトゥナ婆さんは何やってんだい。まったく、年寄りは鈍間(のろま)だね!」

 皆が不安を抱え、それを(おお)い隠すように苛立(いらだ)っていた。薬屋に集まって来る人々は後を絶たず、昼を過ぎる頃には、そこら中で殴り合いのケンカが始まった。

「自分にも薬が作れたら……」ミルテは、そう思ったが、自分にはそんな技術は無い。石ころに夢を詰めることしか出来ないのだった。


 それから、また七日が経った。弔いの鐘はもう鳴っていない。死病が去ったからではない。あまりに多くの人々が次々と亡くなっているから、教会は鐘を鳴らすことを(あきら)めたのだ。

 朝早くフォルトゥナの薬屋が開き、ごった返す大勢の声がする。我先にと薬を求める声。泣き声。悲鳴。怒鳴り声。毎日、それらの声と共にミルテは目覚めた。彼女は、自分にも何か出来ないかと考え、町の中央広場まで出て行くのだが、そこで見掛けるのは死体ばかりだった。身体中(からだじゅう)が紫色の(まだら)(おか)され(くさ)っている。昨日言葉を交わした女が今日、路上で死んでいた。生きている者の姿は少ない。まだ死病に(かか)っていない者は、外へ出ることを避けているようだった。この町に医者がいない訳ではない。死病の感染から身を守るために黒い外套(コート)とつばの広い帽子を着け、鳥の(くちばし)のような白い仮面を(かぶ)った医者を幾度となく見掛けたが、彼らは金持ちの家へと向かい、急いでいて、道端の病人など相手にしていなかった。硫黄(いおう)が町中で()かれていた。誰が言い出したのかは分からないが、硫黄を焚けば死病が無くなるのだと町の人々は信じていた。濃い煙がスミンテウスの町を(おお)っている。その煙は目に()みた。ミルテは路地や広場を探し回ったが、ヨアンの姿は無かった。


 翌日、フォルトゥナの薬屋は窓が割られた。石が投げ込まれ、彼女はミルテの店に逃げて来た。葡萄(えび)色の長椅子に腰掛けたフォルトゥナは口元を歪めて愚痴(ぐち)をこぼした。

「薬を求めて馬鹿者どもが集まってくる」

「薬の中身を教えて貰えないかしら……ここの裏庭に薬草が少し植えてあるの……私にも薬が作れたら……」

「おやおや、金儲けしたくなったかい? 前に言ったろう? 死病には薬など役に立たない。アタシの作ってるのは小麦粉と砂糖を丸めただけの菓子さ」

 ミルテは少し驚いた表情をした。そして聞いた。

「なぜ、そんな……」

「そんなものでも魔女の作った薬だと思えば安心するのさ。魔法が効くんじゃないかってね。どうせ、死ぬことには変わりないんだ。馬鹿者どもが安心を買いたいって暴れてるのさ。どうせ死ぬんだから、あいつらに金なんか必要ない。だったらアタシが貰ってやるのさ。しかし、ここは寒いね。暖炉にも火が無いじゃないか」

「ごめんなさい。もう何日も前から(まき)が無くて」

 午後になり、フォルトゥナは自分の店に戻った。そして薬は飛ぶように売れた。人々は、フォルトゥナの店を(おそ)っても薬が手に入らないということを覚えると、大人しく並んで待つようになった。


 人々が死体に慣れてしまったある日。陽が落ち、夜が更けた時、夢の卵屋の扉を叩く者があった。いよいよ死にそうな者が一人、なけなしの金をかき集め夢の卵を買いに来たのだ。

「……夢の卵をくれ」

 男の声は小さく弱い。首に紫色の()れ物が出来ている。その腫れ物が破れ、(うみ)が流れ落ちていた。(えり)(くさ)く濡れている。

「はい。ありがとうございます。どちらの石に夢を込めますか」

「俺は……石を持って来ていない……ここには石を……置いてないのか?」

「ここには、ただの石ころしかありませんが……」

「……どれでもいい……一番安い石でいい…………金はこれしか無い……足りるか?」

 差し出した(てのひら)に乗っている銅貨五枚には血が付いていた。ミルテはそれを受け取った。

「夢を込める石は……これでいい?」

 ミルテは、ヨアンが持って来た石ころを使うことにした。

「……ああ、それでいい……頼む……」

「はい。それでは、どんな夢を込めますか? 思い浮かべて下さい……」

 男に石ころを握らせ、ミルテはその男の手を握った。ミルテの頭の中に男が思い描く情景が浮かんだ。大海原。気持ちのいい潮風が吹いている。とても立派な船。乗組員もたくさんいる。甲板(かんぱん)では、この男が元気な姿で笑っている。その側には美しい女性と金銀の財宝。男は剣を手にして前方にかざし、乗組員たちに進路を示している。

 ミルテは男の血が付いた両手で石ころへ、今視た男の夢を閉じ込めた。石ころは一瞬だけ青く光る。海の色だ。

 男は礼を言って、店を出て行った。死に際に見たのだろうか。海の夢を。


 それから三日が過ぎた。冬はスミンテウスの町に深く居座り、昼過ぎから雪が降り始めた。ミルテはヨアンを探して毎日町に出ていたが彼は見付からなかった。道端や広場には黒く色の変わった死体が溢れている。

 だが、夕方になると思いがけず、夢の卵屋の扉を開いて、少年が入って来た。

「ヨアン!」

 ミルテが立ち上がり、ヨアンを抱き締めると、ヨアンは照れた素振りをした。

「そんなに強くしたら苦しいよ」

「大丈夫? 心配していたのよ。今までどうしていたの?」

「へへへ、見てよ。すごいでしょ。ぼく、ネズミ狩りをしてるんだ」

 ヨアンは右手に持った棒切れを(かか)げ、銅貨を十枚乗せた左手を見せた。そして葡萄(えび)色の長椅子に勢いよく座った。

 ミルテも知っていた。鼠を五匹狩って市庁舎の横に掘られた大穴の所へ持って行くと引き取って処分してくれる。その時、銅貨一枚を(もら)える。川の上流にある遠く離れたジェラの町で、その方法によって死病が無くなった、という噂があった。今や、スミンテウスの町でも同じことをしていたのだ。

「ネズミを(さわ)ると死病に(かか)るかも知れないのよ……」

「でも、市庁舎に持って行くとお金を貰えるんだよ。今日、僕は少ししか殺せなくて銅貨二枚しか貰えなかったけど、大人はたくさんのネズミを殺して銀貨を一枚と銅貨を二枚、貰っていたよ」

「……ヨアン、ネズミを触ってはだめなのよ」

「……でも、丸い石はなかなか見付からないんだ。この町にあるのは、四角い石ばかりなんだ。でも下水道に行けば、たくさんのネズミがいるんだよ。ネズミの群れを端っこに追い詰めてね、棒切れで思いっきり何度も叩くんだ。見て。銅貨が十枚も貯まったよ。もっとお金が貯まったらミルテお姉ちゃんに宝石を買ってあげる。女の人は、石ころよりもキラキラした宝石が(うれ)しいんでしょ?」

「……そうだ、ヨアンが持って来てくれた丸い石が売れたのよ。これはヨアンの分よ」

 ミルテが銅貨三枚を渡そうとするとヨアンは顔を(そむ)け、眉をしかめて言った。

「いらないよ」

 そして目も合わせずに下水道の方へ駆け出して行った。駆けながら、苦しそうに(せき)をしていた。


 そして二日後、ヨアンは狭い路地裏(ろじうら)で、ミルテの前に現れた。握った棒切れを杖のようにして積もった雪に刺し、()せた体を支えていた。ヨアンは死病に(かか)っていた。止むことの無い咳をしている。口を押さえた掌に真っ赤な血が付いている。雪が、流れ落ちた血を()っている。

「……ネズミを……殺しに行かなきゃ……」ヨアンは咳をしながら苦しそうに言った。白い息が絶え間無く吐かれている。

「だめよ。やめて」

 ミルテはヨアンの骨張った腕を(つか)んで止めた。ヨアンの体はひどく熱かった。熱がある。ヨアンはミルテの手を振り払った。

「……お金が欲しいんだ……」

 ヨアンはふらふらと歩き出した。吐き出した赤い(たん)から白い湯気が立ち上る。ミルテは(しばら)くの間、その小さい背中を見ていたが、やがて()け出し、ヨアンの後を追い、追い付くと、ヨアンの肩を抱いて一緒に歩き出した。

「私も捕まえるわ、ネズミ。どうやって取るの? 私に教えて」

 ヨアンは、やつれた顔に笑みを浮かべた。そして咳き込みながら答えた。

「……棒切れでね……力いっぱい(たた)くんだ……」

「棒切れね。あれでもいいのかしら」

「……うん……いいよ……」

 ミルテは(ほうき)(つか)んだ。漆喰(しっくい)で閉ざされた家に立て掛けてあったその箒にも、血の赤が()られていた。

「……ミルテお姉ちゃん……夢の卵屋は……放っておいてもいい……の……」

「夢の卵なんて(ほとん)ど売れないのよ。それよりネズミをたくさん殺してお金をたくさん貰おう」ミルテは笑って言った。

「……うん……それなら……行こう……一緒に……」

 それだけ言うと、ヨアンはミルテの腕の中で(くず)れ落ちた。

 ミルテは、ヨアンを(かか)えて夢の卵屋に向かった。ヨアンの体は余りにも軽くて、ミルテは彼に気付かれないように泣いた。

 店に辿(たど)り着くと、ヨアンを寝台(ベッド)に寝かせた。呼吸がひどく(あら)い。高熱を(はら)んだ小さい体は火の(かたまり)のようだった。

 ヨアンは、もうじき死ぬ。ミルテはヨアンの汚れた手を握った。ヨアンは何か(しゃべ)ろうとしている。ミルテが口元に耳を()せるとヨアンは(しぼ)り出すように言葉をこぼした。

「……お姉ちゃん……ぼく……夢の卵……買いたい……」

 ミルテは、ヨアンが売りに来た石ころのひとつを彼の掌に握らせた。それは、彼が最後に持って来た丸い石だった。そして、それをヨアンの両手ごと自分の両手で包み込んだ。

「……どんな夢がいい? 思い浮かべて……」

 亡くなった両親の夢か。成功してお金持ちになる夢か。それとも広い世界を冒険する夢か。ヨアンの歳で死ぬには、早過ぎる。だけど、もうすぐ。

 ヨアンが思い浮かべた夢がミルテに伝わり、その情景(じょうけい)が見える。

 見慣れた扉。見慣れた床。見慣れた窓。そこは、ここ。ミルテの店、夢の卵屋だった。見慣れた葡萄(えび)色の長椅子。そこに座っているのはヨアン。ヨアンに並んでミルテが座っている。卓子(テーヴル)の上には紅茶とケーキが二つずつ。暖炉には赤々と燃える(まき)。部屋は暖かい。ヨアンの(かたわ)らには棒切れが立て掛けてある。そして、ミルテの指には、ひとつの宝石の輝きがあった。

 ヨアンの望んだ夢は魔女ミルテと一緒に暮らす夢だった。石ころに夢が入り、一瞬だけ赤く光る。燃える薪の色だ。

「……ありがと……お姉ちゃん……」

 ミルテは何も答えることが出来なかった。

 

 夜が明けた。ミルテはヨアンの遺体(いたい)を裏庭に埋葬(まいそう)することにした。教会の墓地は(すで)にいっぱいで、死んだ人間と死んだ家畜は市庁舎の横に掘られた大穴に捨てられていた。ネズミと一緒に。ミルテは、それだけはしたくなかった。教会では死者の(ひたい)に、油で十字を描く。その代わりに、ミルテはヨアンの額に口づけた。

 ミルテはヨアンに土を被せて埋めた。夢の卵と一緒に。

「さあ、行こうか、ヨアン」

 そして棒切れを手にすると、下水道へ向かった。


 三日後、ミルテの息は激しく乱れ、体は火のように熱くなった。咳をしては血を吐いた。ヨアンから伝染(でんせん)したのか。それとも下水道で感染したのだろうか。ミルテは三日間で四十匹のネズミを殺した。その日、裏庭で倒れたミルテの側をネズミが通り過ぎた。散らばった銅貨を踏みつけながら。


 月日は流れ、三年が経った。スミンテウスの町には以前の穏やかさが戻っていた。晴れ渡る夏の空。プラタナスの葉が青々と(しげ)り、陽の光を受け輝いている。橋の欄干(らんかん)には香りの良い白い花が咲いている。

 レーヴ通りで若い魔女ミルテが営んでいた夢の卵屋は、もう無い。夢の卵屋だった場所には今、孤児院が建っている。死病で両親を亡くした孤児が町に増え、孤児院が必要になっていたが、なかなか実現しなかった。だが、フォルトゥナが資金を出したことで(ようや)く建てられた。そこでは、教会から出向いた修道女たちが日々、子供たちの面倒をみている。レーヴ通りを通る時、人々は、子供たちのはしゃぐ声を聞く。孤児院の門にある標札(ひょうさつ)は、石を丸く切り出して作られている。その表面は(なめ)らかで、まるで卵のようだ。




     『了』


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― 新着の感想 ―
[良い点]  ペストに冒されて崩壊していく町の様子が、少しずつ少しずつ小出しにされていき、どんどんと悪化していく感じが秀逸です。  取り立ててミルテの夢の卵が役に立たなかったのが、またリアルですよね。…
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