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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
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志怪・奇譚

母校

夏のホラー2015参加予定作品です。短編ですが一万字を超えています。

男がその封書を受け取ったのは、(ちまた)の学生たちが夏休みを終え、そろそろ長期休暇で()けた頭が平常運転に戻りつつあるも、ちりちりと肌を焼く白昼の強い日差しが健在な気候の頃だった。長らく郵便で配達されてくるものと言えば企業からのダイレクトメールか官公庁からの各種通知くらいだった身として、男は初め、それが個人から送られて来た手紙であることに気付かなかった。白い縦型の定型封筒に、縦書きに明朝体で印刷された宛先…男の住所氏名…の他には記載が無く、差出人を推測出来るようなものは一切なかった。男は余程そのまま廃棄しようかと思ったが、社会に出て十数年の間に擦り切れてしまったとはいえ、まだ残っていた好奇心に突き動かされ、封を開けた。何者が送って来たにせよ、寝床で寝転び片手で作成と送信が可能な電子メールと異なり、手紙を出すにはそれなりに手間が必要である。正体不明の送り主が、その手間を惜しまなかったことだけは確かだった。

…西校舎で待っている。

男が拍子抜けしたことに、中には三つ折りの白い無地の便箋(びんせん)が一枚入っているだけで、その真ん中にたった一文が封筒の宛先と同じ字体で黒々と印刷されていた。端にもう一行、一回り小さい字体で男性名の記載がある。それが小学校時代の友人の名前だと気付くまで、男にはしばしの時が必要だった。小学校を卒業してから優に二十年は経過している。だが、その名前と記憶の中の少年の姿が一致した途端、(せき)が切って落されたように、男の頭の中には在りし日の出来事、(くだん)の友人と過ごした日々が一時(いちどき)(あふ)れてきた。田舎特有の、草と土の入り混じった匂いと古びた木造建築の匂い。頭の中どころか身体全体の中に響いているような蝉の鳴き声と学校の始業ベル。その年齢特有の少年少女の甲高い声。今は都会のマンション暮らしだが、小学生当時は父親の仕事の関係で片田舎、国道にまで下りなければ信号機すらないような辺鄙(へんぴ)な村、に男は住んでいたのだ。

更に少し遅れて、本文で言及している西校舎についても思い出された。通っていた村の小学校には比較的新しい校舎と、当時ですら今にも崩れ落ちるのではないかと思われるような木造の旧校舎と二つの棟があり、旧校舎が西校舎と呼ばれていた。棟や校舎と言っても廊下でつながっていて、どちらも普通に使用されていたのだが、児童たちどころか教員たちも、夏暑く冬寒い西校舎を嫌っていた。男が小学五年生のときの教室が西校舎にあって一年を過ごしたが、夏の間、担任教師はとにかく立っていることを嫌がって、椅子に腰掛けて授業を行っていた。(いわ)く、立っていればその分天井に近くなり、断熱材の入っていない屋根と天井を通してくる熱気の影響を頭上からより強く受けて暑くて仕様がない、とのことだった。

懐かしい思い出と共に、()()えず、差出人は知れた。ただ男には、友人が何を目的として、(ある)いは単なる悪戯(いたずら)として、このような手紙を送って来たのか皆目見当がつかなかった。()い加減面倒になり、手紙を屑籠(くずかご)に放り投げかけところで、男は、はたと気が付いた。何年か前に、(くだん)の小学校が過疎化の影響で廃校となることが決まり、卒業生全員にその(むね)の連絡が回って来ていたのだ。無論、廃校となっても、建物自体は取り壊されず残っていることはある。ただその場合、立ち入りが許されるものなのだろうか。頭の中が疑問符で満たされた。男は一旦、手紙をテーブルに置くと、実家の親に掛けるべく、電話を取った。当時はまだ個人情報の取扱いが(ゆる)かった時代である。実家に置いてある卒業アルバムには、差出人の友人の他、同級生ほぼ全員の住所と自宅の電話番号が記載されていた。卒業当時のものなので、友人がまだそこに住んでいるとは限らない。その場合は他の同級生たちを伝手(つて)にして今の連絡先を見つけるつもりだった。小学校が廃校になるほど人口が減少しているので、同級生たちでも当時の住所に住んでいるものは(まれ)だろうが、親世代が残っている世帯が少しはある筈だった。


自動車の走っている道は確かにアスファルトで舗装されているのに、男は何故か砂塵(さじん)を巻き上げて疾走しているような錯覚に(おちい)っていた。硝子一枚(へだ)てた窓の外の、緑の草木と茶色の地が後ろに流れていく。ほぼ二十年振りに訪れた田舎は、男の記憶からほとんど変化を有していなかった。男は助手席にいる。運転しているのは、この市の職員で、男より十歳ほど年少の女であった。廃校どころではなく、男の住んでいた村そのものが近隣の幾つかの町村と吸収合併され存在しなくなっていたのだった。

幾つかの同級生の口を()て、差出人、というよりあの手紙に名前のあった友人が、一年近く前から行方知れずになっていたことが明かされた。男のところまで噂が聞こえて来なかったのは、事件性がないと判断されたため、つまり友人はその当時、仕事と家庭の両方において諸々の問題を抱えており、ふらりとどこか、最悪この世ではないところに、消えてしまってもおかしくないということで、騒がれなかったからであった。それを聞かされて、男は不意に、手紙で指定された西校舎を訪れる気になった。手紙を送って来たのが友人なのか、それとも全く別の誰かなのかは分からない。男はどちらかというと後者、友人の失踪に関して詳しい情報を持っているが、自分からそれを言い出しにくい誰かが、遠回しに情報を与えて来たのだと考えていた。その誰かが小学校時代の知人であれば、当時は友人と一番仲が良く、常に一緒にいるような間柄であった男に知らせて来るのも自然だと思えた。卒業アルバムから元同級生たちに連絡を付けている間に尋ねたが、失踪後に友人や友人を名乗った人物から連絡を受けたものはいないようだった。

男は、ちょうど休日出勤の振替を取らなければならない状態だったので、土日に一日加えた三連休を取ると、村の役所に電話を掛けようとし、そこで既に村がなくなっていることを知った。幸い、後継の市に問い合わせると簡単に校舎の建物がまだ残っていること、許可を取れば見学出来ることを教えてくれた。どうも、元の村の関係者や小学校の卒業生から出資を(つの)り、建物の補修と再利用を(はか)ろうとしているようで、市の中心部の駅から小学校跡まで、職員が送迎と案内をしてくれることになった。駅に(むか)えに来たのは、まだ暑いのに夏用とはいえきちんとスーツを着た若い女だったので、男は少し驚いた。


校舎は、男の記憶のものより遥かに古びていた。実際それだけの年月が経っているのだから当然なのだが、他の、市の一地区となった村の有り様がほとんど変化のないものだっただけに、意外に思えた。真っ白に塗装されていた外壁は、今は砂と埃に(すす)けているようで、澄み切った青一色の空と周辺の山の鮮やかな緑の中、ぼんやりとした染みの様に孤立している。建物と地面の間には雑草が茂っていて、蚊やそれ以外の羽虫が羽音がうなっている。すぐ近くに田畑や用水路があるので当然だが、余り心地の良くない匂いが漂っていた。

自動車が停められた来客用の駐車場から校舎の正面玄関までは十数歩の距離である。一度立ち止まって、校舎全体を観察したとはいえ、日の下に(さら)されたのはごく短時間だけだった。それなのに日陰に入った今も、男の皮膚には日差しから受けた刺激が残っている。男はハンカチを取り出して額に浮いた汗を()いた。車内に冷房が効いていた分、暑気が(こた)えた。

「忘れていました。良かったら、どうぞ」

車を駐車させた後、後部座席に身を乗り出してごそごそやっていた職員が、正面玄関までやってきて男によく冷えた缶コーヒーを渡した。後部座席に置いてあったアイスボックスに入っていたらしい。受け取った缶の冷たさが、火照(ほて)った手の平に心地良く、男は有り難く受け取ると、職員が鍵束からいくつかの鍵を試して正面玄関を開けるまでの間、それを額に当てて冷をとっていた。正面玄関の扉は硝子張りだったが、野外の日射が強過ぎるせいで、屋内はほとんど見えなかった。ただ扉の内側の取っ手と硝子扉の間に蜘蛛が巣を張っていて、職員が鍵を開ける振動を感じ取ったのか、糸を伝って取っ手の裏側に隠れるのが見えた。扉が開かれると同時、使用していない建物が持つ、砂と(ほこり)(かび)(かす)かな腐敗の混在した独特の匂いが鼻をくすぐった。一歩入っても、瞳孔が光量の加減を調節するまでしばらく、辺りは薄暗く、不鮮明だった。少しの間を置いて、男の記憶の中では常に飾られていた衝立や置物、花瓶の類いが一切なく、(そな)え付けの来客用靴箱があるだけの殺風景な正面玄関が現れた。知らない場所に立った様に感じ、男が少し戸惑い、見回しつつ進むと、駐車場からここまでの(わず)かな距離の間で、小石が靴の裏の溝に(はま)っていたらしく、石作りの三和土(たたき)(こす)れて、嫌な音を立てた。男は来客用靴箱に片手をついて体を支えると、片方の靴を脱ぎ、石を取り除こうとした。

「ああ、土足で大丈夫ですよ」

職員は男の行動を勘違いし、声を掛けて来た。

「いえ、石が(はさ)まったらしくて」

男は言いつつ、小石を小指の爪で(はじ)き出した。職員は納得した表情でうなずくと、男が靴を履き直すまで待って、歩き出した。

「こちらが、校長室兼応接室ですね」

ためらい無く靴のまま廊下に上がった職員は、正面玄関から二つ目の合板で出来た扉を指し示すと共に、そちらに歩みを進めた。薄く積もった砂の上に、くっきりと足跡が残った。職員はこの小学校の卒業生ではないことは聞いていたので、思い入れがないことも理解出来たが、男は少し無遠慮さというか無神経さに気分を害した。

およそ校長室などというものは、小学校の児童にとっては、校舎の中で一番縁のない部屋の一つである。開かれた扉の向うに広がる内装は、一度も目にしたことのないものだったが、男が在学していた頃とそれほど変わっていないということは察せられた。いささか部屋全体が埃っぽい上に、窓には厚手のベージュのカーテンが引かれているので、廊下や正面玄関に比べて更に暗かったが、部屋の奥、窓の手前に、見事な焦茶色の書き物机と、背凭(せもた)れの上に頭受け(ヘッドレスト)まである椅子と本棚、部屋の中央付近には硝子張りのテーブルと革張りのソファの応接セット、横の壁際には飾り棚が(しつら)えてあった。飾り棚の中には置いていかれた幾つかのトロフィーや盾、写真があった。写真は壁にも何枚か、額に入れられて飾られたまま埃を(かぶ)っていた。

「前に案内させて頂いたとき、少々具合が悪くなられた方がおられまして、ここでお休みされたんです」

職員の言葉に、男はうなずいた。既に何人か校舎を訪れたものがいることは聞かされていた。故郷を懐かしく思って、廃墟が好きで、と理由は色々あるのだろうが、うち一人、一年ほど前にやってきた、男と同世代の男性は、名乗った名前は違うものだったが、行方不明になっている友人だと察しが付いた。

「それから、少しは片付けておこうという話しになって」

男は気付いていた。校長室と正面玄関、その間の短い距離の廊下は、薄くしか砂が積もっておらず、最近()(きよ)められたばかりだった。職員の話しでは、これまでも二週間に一度ほど、不審者対策のための見回りはしていたが、それに加えて簡単に掃除をして、見学者が休息出来る様にしているらしい。こんな田舎で随分と警戒していると男は思ったが、最近では他所(よそ)から来た若者たちが、空き家や廃ビルに勝手に入り込んで騒いだりするので、それへの対処だと言われた。火事にでもなったら大事だと言う職員の口ぶりからすると、ここ以外のどこかで、実際に小火(ぼや)を出した例があったようだった。職員が話している間、男は見るともなしに、壁に掛けられた写真を眺めていた。写真の一つは男の卒業後の日時が入っている運動会の写真だった。


その写真は突然、男に自分が参加した小学校時代の運動会の記憶を思い起こさせた。校舎と運動場全体が震動を起こしているような歓声。質の良くないスピーカーのせいで、時々音が割れたり、音量が変わってしまう放送。ウィリアム・テル。道化師のギャロップ。天国と地獄。今は主流ではないかもしれないが、その頃は九月に行われていたので、今日に似た、肌を焼く日差しが降り注いでいた。餓鬼大将と呼ばれるにふさわしい、体格の良い上級生や同級生たちが雄叫びを上げ、突撃する騎馬戦。普段は喋っているところを見掛けたことがないような大人しい女の子が何人も抜き去って活躍したリレー。紅白の玉が飛び交う中、傾き倒れた籠と、地面に散開した玉。なんどやっても崩れていたのに、本番当日だけは成功した組体操。男の頭の中を目紛(めまぐる)しく複数の場面が行き交った。

「……年卒業だと、おっしゃっていましたね」

「え?」

不意に上がった声に、男の回想は中断させられ、聞き返した。職員は、奥の本棚から卒業アルバムを持ち出して、書き物机の上に広げていた。隠されていた宝物を見つけたような物言いと、爽やかな笑顔を向けられて、男は若干挙動不審になりながらその手元を(のぞ)き込んだ。男の卒業年度のものに間違いなかった。

「ああ」

職員は気を()かせてくれたのだろうが、男はここに来る前に見たばかりだった。友人の連絡先を探るべく、初めは電話越しに親から、当時の同級生の電話番号を聞いて掛けていたのだが、途中でお互い(わずら)わしくなり、卒業アルバムそのものを宅配してもらっていた。とはいえ、満面の笑みを前に、無関心でいるのも気が引けて、男は事務的に(ページ)をめくり、数枚でその手が止まった。男が所属していた組の生徒全員の顔写真が個別に写っている(ページ)である。男が出掛けに見たものとほとんど変わりがないが、一点、男の姿にのみ、赤いマジックペンの丸で囲われていた。しばし絶句したのち、男は他にこの悪戯(いたずら)がされているものがいないか確認すべく他の組の(ページ)を開いて、更に息を呑んだ。最終学年では別の組に所属していた一年前に失踪した友人の顔写真にも丸が打たれ、こちらには加えてバツ印が顔を横断していた。男はしばらく硬直していたが、再度(ページ)()って、別の組の別の生徒を確認するも、他にこの加工(、、)がある写真はなかった。薄気味悪さを感じ、男の心臓がどくどくと脈打つのが聞こえた。男はあちこちの(ページ)を開いて見返したが、落書きがあるのはその二箇所だけだった。だが男は別のものを見つけた。運動会の写真で、写真の一つに一人の生徒が写っていた。

その生徒は同級生だったが、組ごとに掲載されている顔写真はない。卒業しなかったからだ。同級生は小学五年生だった晩夏、死んだ。今で言う熱中症だった。息子が帰って来ていないことに気付いて、親が近所のひとに相談し、警察に通報されたのは夕食の時間をとうに過ぎ、夜半になってからだった。同級生の家は子沢山で、ちょうど生まれたばかりの赤子に(かま)い付けていた親は、子供が一人足りないことに気付くまでが遅く、連絡が受けた学校が、念のためにと校舎内を調べたところ、自分の教室で死んでいるのが見つかったのだった。


「文集は、ないですね」

男ははっとして顔を上げ、辺りを見回し声の出所を探った。本棚の前にしゃがみ込み、下段を(あさ)っていた職員の姿が、書き物机の陰から目に入った。卒業アルバムは保管してあれど、卒業文集の方は処分されたのか、見つからなかったようだった。男は熱気から来るのとは違う種類の汗の玉が浮いた額をハンカチで押さえ、卒業アルバムを閉じると、机の上に置いていた、まだ冷たい缶コーヒーの蓋を開け、一気に飲み干した。缶コーヒーが置かれていたところに結露の水滴で円が出来ている。その(わず)かな水に、どこからか侵入して来た蟻が数匹、たかっている。

「他の教室も見せていただいても?」

冷たい液体が体内を流れ落ちる感覚があり、男の脈打つ心臓の鼓動は少しだけ収まった。

「はい、もちろんです。ただ、ご説明した通り、西側の校舎はご案内出来ません。一度重機が入っていますので」

西校舎は老朽化が酷いので解体が決まっていたが、取り壊しが始まった直後に、依頼を受けていた業者が倒産だか夜逃げだかをして、部分的に破壊されたままという危険な状態にあるので立ち入り禁止、とは車内でも説明を受けていた。男の一番の目的は西校舎なので不本意ではあるが仕方がなかった。男がうなずいて同意を示し、ほぼ同時に職員が立ち上がり、()いで上階からばたばたという音が上がったのが天井越しに響いた。男の心臓が跳ね上がり、その拍子に手を掛けていた空のコーヒー缶が机の上に倒れた。男は(こわ)ばった顔を上に向けたが、職員は急に上がった物音に驚きはしていたが、平静だった。

(からす)山鳩(やまばと)か…解体予定だった方の校舎は窓が穴だけになっていまして。(ふさ)いではあるのですが、入り込んでしまうんですよ。そちらの校舎とこちらの校舎の間も封鎖してあるのですけどね。どうやっているのか」

苦笑を浮かべつつ淡々と述べられる職員の言葉を、校内放送用のスピーカーから発せられた雑音が(さえぎ)った。マイクを入れたときにスピーカーが響かせる、あの音である。職員の笑みが一瞬で消え失せ、目を丸くして壁の上部に取り付けられている放送機器を見やった。(ただ)でさえ強ばっていた男の顔は更に引きつった。二者の目が引きつけられた直後、スピーカーからはしゃぐ子供の笑い声が聞こえ、ぶつんという電源が落ちる音と共に、消えた。

「…今のも、鳥ですか?」ややあって、男は尋ねた。顔中に汗が(にじ)んでいて、色がどす黒かった。「放送が入った様に聞こえたのですが」

問われた職員の顔は若干青くなっていたが、なんとか目をスピーカーから男に移して、唇を微笑の形に作った。

「ありえませんよ。電気が…電線自体、既に撤去されてしまっているんですよ」

男は外から見た時の校舎を思い浮かべた。周囲から切り離されている様に感じた理由の一つは、電線がなかったことも一因だったのかもしれない。

「放送室は二階でしたよね」

「確か…ちょっと!」

男は(きびす)を返して大股で校長室を出た。掃除がされていない廊下の奥に進み、階段を上る。一段上るごとに砂埃(すなぼこり)が立ち、みしみしという床板が(きし)む音が大きくなり、土へと(かえ)りつつある木の匂いが強くなる。二階の、職員室の表示がある教室の隣に、放送室と合成樹脂で書かれた札が貼付けられた扉があった。元は白い合板製だが表面が少し()がれ落ちている。男の顔くらいの高さに(すり)硝子の(はめ)め込み窓が一つあり、隅に蜘蛛の糸に(から)まって乾涸(ひから)びた甲虫の死骸が付いていた。男が取っ手に手を掛けると、扉は意外に軽く開いた。鍵は掛かっていなかった。

扉の内側には遮光カーテンが引かれていた。それを引き開けると、校長室やここまでの廊下とは比べ物にならない砂埃が上がり、室内で(とどこお)っていた空気が鼻をつく匂いと共に男の顔に触れた。窓がない放送室は男が開けた扉からのみ光が差し込んでいたが、放送機器は取り外されていて、室内に何も無いことははっきりと分かった。男はそれでも一歩、中に入り、踏み入れた足元から巻き上がった砂埃に辟易(へきえき)して後退した。床を見ると、くっきりと己の足跡が埃の上に表れていた。

「無いでしょう?何も」

追いついた職員が声を掛けて来た。男は自分の思慮の無い行動に赤面しつつ、目を伏せた。職員は片手に男が飲み干したコーヒーの空き缶を入れたビニール袋を持っていたが、逆の手で、放送室の扉と廊下を(はさ)んで逆の位置にある窓を指差した。正確には窓から見える西校舎との連絡口を指した。

「やっぱり、破れてしまっていますね」

男と職員が立っている廊下と、直角に交差している廊下の先が連絡口だった。今いる廊下の窓と、交差している廊下の窓の、窓硝子を二枚通している上に距離もあるが、連絡口が木の板で適当に(ふさ)がれていて、破れ目があるのが光の差し込み具合で分かった。男は(こた)えなかった。職員の指した方に顔を向けていはいたが、目の端に何か動くものを捕らえて、そちらに視線をやったのだ。それがこちらに向かって手を振る子供だと気付いた瞬間、男は大声を上げた。

「子供、子供が!」

「は?」

職員の怪訝そうな声が男の耳に届いた。子供は手を振るのを止めると、くるりと後ろを向いて、男の視界から消えた。男は反射的に駆け出した。誰かが何かを叫ぶ声が聞こえた。今、校舎内にいるのは、男を(のぞ)けば職員だけなので、職員の声の筈なのだが、どう聞いても遥か昔、小学校時代の教師の声だった。同時に屋外から聞こえてくる蝉の声以外は静まり返っていた校舎内がにわかに騒がしくなった。横を通り過ぎた教室から、少年少女のけたたましい騒ぎ声が聞こえて来た。窓辺に(たたず)んだ児童が、廊下を疾走する男を呆然と眺めている。男に向かって廊下を走って来た別の児童が、男の横をすり抜けて行く。ひときわ大きな泣き声が耳に入り、男は横の、開け放たれた引き戸と窓越しに一つの教室を見た。いかにも夏の田舎の小学生の格好というべき、タンクトップに短パン姿で日に焼けた少年たちが数人、一人の少年を囲んでいる。囲まれた少年はべそをかいていた。複数の手が伸びて、その少年の腕やら服を掴み、別の少年が、教室の隅に置かれた金属製の掃除用具入れを開ける。その少年は腕を振り回して抵抗したが、集団に押し切られて掃除用具入れに閉じ込められた。少年たちの集団は、掃除用具入れを押して方向を変え、開閉口を壁に押し付けて開かないようにした。内側から金属を叩く音と泣き声が響き、それを聞いた少年たちは(ほが)らかに笑った。うちの一人が男の方に顔を向けた。男は二十年以上前の自分の顔と相対した。

男の脳裏に抜け落ちていた過去の一場面が映し出された。五年と六年の生徒が全員運動場に出ている。紅白の玉が投げられる。誰かが支えていた玉入れの籠の支柱から手を放した。籠が揺れ、あ、という悲鳴にも似た喚声が上がった瞬間、籠は勢い良く倒れ、中の玉が全て地面に転がった。手を放したのは(くだん)の同級生だった。赤組だったのか白組だったのかは覚えていないが、そのせいで負けたことは覚えている。運動会が終わった後、(いき)り立った同じ組の何人か…男自身や友人…が同級生を(なじ)り、ぐずぐず言い訳を続けた同級生を掃除用具入れに閉じ込め、そして、そのまま忘れて帰宅してしまったのだ。当時の自分たちの教室は暑さの厳しい西校舎にあり、おまけに西日が強く差す位置にあった。同級生が閉じ込められた金属製の掃除用具入れの中がどれくらいの温度にまでなったのか、とにかく自分の足でそこから出ることは無かった。男は同級生が教室で見つかったとしか聞いた覚えがなかったが、掃除用具入れのことを聞き逃していたのか、それとも最初に見つけた教師が事情を推測して隠匿したのかは分からない。

いつの間にか、男は足を止めていた。目の前には西校舎との間を(さえぎ)っている木の板があった。男の頭は、それこそ脱水症状を起こしているように、がんがんと痛んでいた。男は覚束(おぼつか)ない手で、木の板の端の割れ目に手を掛けた。全体重を掛けて引いたが、そうしなくても()がれただろうと思えるほど、簡単に板は(はが)がれた。ひと一人通り抜けられるほどの隙間が空いて、そこから漂って来た腐敗臭が鼻孔をついた。男は隙間をくぐり、よろよろと西校舎に足を踏み入れた。(かす)む目を()らすと、子供が一人、ある教室の引き戸から、顔と身体を半分だけ(のぞ)かせて立っているのが見えた。男は壁に片手をついて、ともすれば倒れ込みそうになる身体を支え、重い足を引きずり、子供に向かって進んだ。子供は男が近づいてくると教室の中に引っ込んだ。男は後に続いて教室内へと一歩踏み出したが、その足は空を切った。教室の床板は半分ほどが打ち壊されていた。


短い宙を浮く感覚を感じ取ってすぐ、男の全身は叩き付けられた。大して高さはないのだが、受け身を取れる状態でもなかった上、その教室の下階の床板は全て取り外されており、()き出しになった土と土台のコンクリートに男は直撃していた。砂埃が舞い上がり、呼吸器が生態反応を起こして男はむせかけたが、腰の辺りを押えられているようで上手くいかなかった。男の意識は半ば朦朧としていたが、それでも下腹部から生え出た血と体液で(ぬめ)る親指ほどの太さの鉄筋は見えた。もっともそれが意味することを混濁(こんだく)した頭は理解出来なかった。額を流れているものも汗なのか血液なのか、全身に反響しているような音が蝉の声なのか痛みを音として捕らえているのかも分からなかった。窓枠だけが残っている窓から容赦なく照り付けてくる日差しが目に痛かった。不意にそれが(かげ)った。男は薄く開いた目の奥から倒れた自分を(のぞ)き込む顔を見た。あの同級生の顔だ、と思い出すと共に、男は何か言うべきだと思ったが、声が出なかった。(まぶた)を開けているのが億劫になった。


職員は階段を下ると西校舎の一階、男が転落した、もはや部屋としての(てい)を成していない元教室まで歩いた。男は腹から鉄筋を生やして倒れていた。元々腐敗臭がしていた一帯だが、それに加えて新しく、強い血と体液の匂いが立ち上っている。職員が(のぞ)き込むと、男の唇と目元の筋肉が(かす)かに動いたが、それだけで、すぐに動かなくなった。これほど強い日射の中、半開きのままの(まぶた)の後ろの瞳孔が少しずつ大きく黒く変わっていった。蟻が一匹、男の耳から頬によじ登り、これも半開きの唇の上をうろうろと行きつ戻りつした。職員は身を起こすと、空き缶の入ったビニール袋を片手に元教室から出、廊下を抜けて正面玄関から校舎を出た。扉を閉じて鍵を下ろす。

「今年もまだ暑いね、お兄ちゃん」

扉の硝子に(うつ)る職員の顔が、にっこりと微笑んだ。

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