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短編集

常盤楓

作者: 江馬 百合子

――かけがえのないものは…確かに此処に在った――



 山の木々は深緑の衣を纏い、蝉の鳴き声はそこら中に(こだま)している。

 その山の川辺の岩場を、ひょいひょいと身軽に駆ける少年と、多少バランスを崩しながらも懸命に後に続く少女が一人。

 歳の頃は…十二、三…


「竹彦!待って!」


「おい、涼!そこ気をつけろよ!」


 前を先導している少年…竹彦は、右手に釣竿、左手に篭を抱えているにもかかわらず、実に見事に岩場を渡っている。


「涼!本当に気をつけろよ!お前に何かあったら俺がお前のおばさんに叱られるんだからな!」


 ここは、川の源泉にかなり近いため、流れは非常に速い。

 もし落ちれば…言わずもがな、分かりきっている。


「わ、わかってるもん!私だっ…!」


 むきになっていた涼は、自らの足場の不安定さに気づいていなかった。


「あ…」

「…っ…涼…!」


――落ちたのは、少女…ではなく…


「え…?竹彦!?」


 竹彦は、すんでのところで涼の手を引いていた。

 しかしその拍子に自ら体勢を崩してしまったのだ。


「どうしよう!竹彦!?どこ!?」


 既に川の中に竹彦の姿は見えない。

 この濁流に揉まれて沈んでしまったのだろうか。

 涼は、込み上げる嗚咽に耐え切れず、座り込んで泣き出してしまった。

 泣いていても仕方がないということは、頭ではわかっているのだが、幼い少女には、どうすれば良いのかわからない。


 そのとき、急に目の前に大きな影が落ちた。


「……?」

「…何泣いてるんだよ」

「竹…彦…」


 全身ずぶ濡れの竹彦は、不機嫌そうにこちらを見下ろしていた。


「どうして無事なの…?」

「…悪かったな。俺は人より丈夫にできてんだ」


 涼は、急に肩の力が抜けた。それと同時に、どうしようもなく笑いが込み上げてきた。


「あ、ははっ」

「笑うなよ!元はと言えばお前のせいなんだからな!」

「うん、ごめん。でもね…無事でよかった」


 そのとき竹彦の見せた、何とも微妙な表情は、今でも涼の心に鮮明に焼き付いている。


「当たり前だろ!それより、ほら!早くしないと日が暮れちまうぞ!」

「うん!」


 今度は竹彦がしっかりと涼の手を掴み、二人は、ゆっくりと山道を歩いて行った。



――忘れられない想い出…いっそのこと全て――



 二人が頂上に着いた頃には、既に太陽は西の端にかかっていた。

 そこから見える世界は、全てが赤く輝いていて。


「やっと着いたー…」

「誰のせいだ、誰の!」


 言いながら、竹彦は、今だに水の滴る着物を傍の木の枝に掛けていた。

 そしてその代わりに、涼の持ってきていた、今一つ使い道のわからない大きな布を羽織った。


「あー!敷物に使おうと思ってたのに!」


 どうやら、使い道はあったようだ。


「気にすんな、此処に座れば同じだ!」


 そう言うと、竹彦はちょうど山のてっぺんにそびえている、楓の木の下にドサッと腰をおろした。


「うん、そうだね」


 存外、涼も素直に竹彦に倣った。

 此場所は、竹彦と涼にとって…特別な場所だった。

 夏場はよく、こうして二人で涼みに来ていたし、秋には、楓と夕日で鮮やかに染まる世界を、静かに眺めていた。


「…竹彦、ちょっと向こう向いて」

「は…?」

「いいから!」


 あまりに唐突な涼の注文に戸惑いの隠せなかった竹彦であったが、「怒らせると面倒だ…」と思い、大人しくそれに従った。


 暫くすると…


「はい!いいよ!」


 先程まで一つに纏められていた髪を下ろした涼が、嬉しそうに微笑んでいた。


「お前…髪紐は?」


 質問の内容が気に入らなかったのか、涼は少々不満げだ。


「竹彦、髪」


 言われて、やっと気がついた。


 水が滴って肩を濡らしていた髪が、一つに纏められていたのだ。


「でも、お前…この髪紐は、こないだおばさんに習って初めて作ったんだって…」

「あげる!…私のせいだから。風邪ひいたら一緒に遊べなくなっちゃうし…ごめんね、竹彦」


 先程までと、まるで別人のように萎れてしまった涼に、竹彦は戸惑った。


「さ、さっき、大丈夫だって言ったろ?俺にはあのくらい何でもねぇよ!だから、心配すんなって!」

「…うん…ねぇ竹彦、いつも…ありがとね」


 この少女は、時折、年齢以上の表情を見せる。

 その度に、竹彦は戸惑ってしまうのだ。


 そして…その度に…


「まったく、仕方ないな…これからも面倒見てやるよ…だから…」

「……?」

「俺達がいつか大人になったら…そのときは…――」



――いつまでも…続くと信じていた…――



「…ねぇ、聞いた?この村にもとうとう赤紙が…」


 月日の移ろいは…無常。

 あれから既に、十もの年が流れようとしていた。

 世の季節は…秋。


 昔はあんなに仲の良かった涼と竹彦だが、今となっては、共にこの山へ登って来ることなど、殆どなくなっていた。

 しかし…今も変わらず、この楓の木の下には、見慣れた影が一つ。


「……赤紙…」


 憂いを帯びた瞳を儚げに揺らす、涼である。

 涼にとって、やはり此処は、どうしても忘れられぬ想い出の場所なのだ。

 …ただ、あの穏やかな日常に、戻りたかった。


――時勢は、烈しく移り変わっていた。


 長きに渡る戦争が、ついに終わりを迎えようとしていたのだ。

 国の言うところによれば、これから最後の追い込みをかけるのだという。


『故に、人員が要る』


 しかし、涼にはわかっていた。

 此国は負けるのだ、と。


 これまで、このような辺境の村に、赤紙などというものが廻って来ることは、まずなかった。

 涼にはとうてい理解出来ないが、自主的に軍に志願した者は数人いたのだ。

 それでも、強制的に戦いに駆り出されるような憐れな者は誰ひとりとして出ていない。

 志願者の中には、いたのかもしれないが…いや、きっと誰もがこんな戦いなど…望んでいない。


 そもそも文明など殆ど発達していないこの国が、あんな恐ろしい国々相手に勝てるはずもなかったのだ。


 村の殆どの若者は気づいていないのかもしれないが、ある程度歳を重ねた年長者は、薄々感づいていた。


 そして、涼はそれを、敏感に感じ取っていた。


『恐らく、今回召集された者は…もう、生きては帰れまい』


「…なんて…惨い…」


 思わず本音がもれてしまった。本来なら、許されることではない。

 お国の勅命は絶対であったからだ。


 しかし、今のこの山では、ただ身を刺すような(こがらし)が紅色の葉を舞い上げるのみ。

 聞く者など誰もいない。


 此処から見える風景は、ただただ全てが、赤く、赤く、赤く。

 涼は、思わず俯いた。


 今、最も見たくない色…燃えるような、赤。


『…昔は…好きな色だったのにな…』


 夕日に照らされたこの村も、赤く染まった…あの横顔も。


「んな顔してると、幸せが逃げるぞ」

「……!」


――そこにいたのは…けして見紛うことはない。


「竹彦…何で此処に…」

「いや、久々に此処からの景色が見たくなったんだ。そしたらお前が、な」


 稀に村で見かけることはあっても、こうして話をするのは本当に久しぶりで。

 また、幼い頃と比べると…遥かに逞しく成長していた幼なじみに、少しの戸惑いを覚えて。


「…そっか…じゃあ、私はそろそろ帰るね」


 涼は逃げるように、その場を立ち去ろうとした。

 しかし…それはかなわなかった。


「待ってくれ。送ってくから…もう少し付き合ってくれ」


 手加減を知らないその腕に、がっしりと手首を掴まれてしまったから。


「わかったから、痛い痛い…」

「あ、あぁ!悪い!」


 涼は、頬の火照りを冷ますように軽く溜息をつくと、再び竹彦の隣に腰をおろした。



――いつの日か…この想いを伝えましょう――



「本当に、久しぶりだね」

「そうだなぁ…」

「昔は、真っ赤に染まったこの景色が大好きで…」

「今は…嫌いなのか?」

「うん、赤いものは全部」

「そっか」

「でもね、私は今でも此処に…よく来るんだよ」

「俺は…最近来てないな」

「竹彦の家は忙しいもんね」

「まぁ、割と、な」

「今日は、どうして来たの?」


 先程まで元気に話していた竹彦だったが、涼がそう尋ねると、急に黙り込んでしまった。

 何か悪いことを聞いてしまったのだろうか、と不安に襲われた涼であったが、それでも根気強く竹彦の返答を待った。

 その沈黙が、恐ろしい。


「…今日な、家に赤紙が届いたんだ」


 涼は、言葉を失ってしまった。

 いつだって、嫌な予感程的中してしまうのだ。

 涙が、頬を伝った。

 しかし今泣いてしまったら、本当にこれが最後になってしまいそうで。

 涼は急いでその涙を拭った。

 涙を拭った後、そっと竹彦の顔を盗み見ると、何故か満面の笑みでこちらを見つめている。


「なんてな!びっくりしたか?」

「……え?」

「行くのは俺じゃなくて孝兄だ。ごめんな、ちょっとからかってやろうと思ったんだけど…まさか泣くとは思ってなくてさ」


 その言葉の半分も、涼の耳に届いてはいなかった。

 安心したのは事実だが、それ以上に沸き上がってきた、怒り。

 考えるより先に、涼は立ち上がっていた。


「最っ…低!!信じられない!!そんなこと…冗談にするなんて、不謹慎にも程があるよ…!私…本当に、竹彦がいなくなっちゃうんじゃないかと…」


 言葉は、遮られた。

 冷えた体を包み込む、暖かく、大きな腕。


「ごめんな、涼。本当に、ごめん」


 涼はまた、別の感情にのまれ、静かに涙を流していた。


「ずるい…っ!竹彦…」

「…涼…」

「面倒だって言いながら、いつも一緒にいてくれたのに、急によそよそしくなったりして…」

「………」

「なのに、急に…抱きしめたりして…」

「…ごめんな」


 そっと腕を離そうとした竹彦の袖を、涼はぎゅっと握った。


「…涼、俺は…」

「…ねぇ、竹彦…あの約束…覚えてる?」


『俺達がいつか大人になったら…――』


 竹彦は、離れかけていた涼をまた腕の中に戻した。

 その瞳は、僅かに涙に濡れていた。


「涼、今だけ、夫婦になってくれないか」

「今…だけ…?」

「正式には今度申し込む。とりあえず、今だけでも」

「…でも、何も準備してないし…」

「これを」


 そう言うと、竹彦は自らの藍色の髪紐を解いて、涼の手首に結び付けた。


「竹彦…」

「これを俺の手首に結んでくれ」


 竹彦の差し出した真っ赤な紐は…


「これ…とっておいてくれたの…?」


 十年前の、あの髪紐。


「意外と女々しいだろ?」


 照れ臭そうに笑う竹彦を、涼は愛しげに見つめた。

 そして、その紐を、丁寧に結び付けた。


「涼、ありがとな」

「何で…?」

「これで、いつでも一緒だって感じられるだろ?」


 涼は、思わず吹き出してしまった。


「こんなもの無くても…いつも一緒だよ」


 竹彦はまた、困ったように笑っていた。



――…一度失ったからこそ…わかったことが――



 その朝、涼は母の使いで豆腐屋へ向かっていた。

 秋も暮れのこの季節、早朝の外気は想像以上に冷たかった。

 なるべく沢山着込んで来たのだが、殆ど無意味であったようだ。


『寒いし…急ごう…』


 先程より少し早足になった。そのとき…


「あら、お涼ちゃん!おはよう!」


 声をかけてきたのは、お向かいの奥様だった。

 この方には、涼も竹彦も幼い頃から世話になっており、竹彦にいたっては今だに頭が上がらない。


「あ、おはようございます」


 自然、涼も立ち止まり、きちんと挨拶を交わす。


「随分早いわねぇ、やっぱり心配だものねぇ…」

「……?」


 涼には何のことを言っているのかさっぱりわからなかった。

 それでも奥様は気にした様子も無く話し続ける。


「後で後悔しないように、しっかり挨拶してくるんだよ」

「あの…誰に…ですか?」


 聞き返すのも悪い気がしたが、このまま知ったかぶりをしておくわけにもいかない。

 涼は遠慮がちに尋ねた。

 すると、その奥様は二、三回瞬きをすると、怖ず怖ずと口を開いた。


「まさか…知らなかったのかい…?今日は…――」


――はぁ....は..っ..


『まさか…そんな…』


 涼は、持ってきていた篭をその場に放り投げ、今来た道を駆け戻っていた。


『竹彦は、私に何も言ってくれなかった…』


 『今だけ』だなんておかしいと、どうしてあのとき気づかなかったのだろう。

 後悔しても…何もかも今更だ。

 しかし、せめて最後に一目だけでも…一目だけでも…会いたい。


「父上、母上。俺をここまで立派に育てて下さって、本当に感謝しております」

「…行ってこい」

「はい」


 それだけ言うと、竹彦は両親に背を向け、歩き始めた。


「竹彦…」


 母は、とうとうその場に泣き崩れてしまった。


「泣くな、お前。竹彦は何もかも覚悟の上だ…」

「孝に続いて…竹まで…」

「…おい…それ以上言ってくれるな」


 父は、悔しそうに唇を噛み締めていた。


 涼には…結局言えなかったな…


『俺のことは忘れてくれ』


 ただ、そう伝えたかった。いや、伝えなければならなかった。しかし…


『忘れないでくれ』


 勿論、それが本音であった。


 だから、そのとき聞こえてきた声は…竹彦にとって…あまりにも、残酷で…。

 あまりにも…幸せな声音だった。


「竹彦…!」


 涼は、有無も言わさず竹彦に抱き着いた。


「ねぇ、行かないで…置いて行かないでよ…」


 無謀な懇願だということは、涼自身、十分過ぎる程に承知している。

 しかし、他に言葉が出てこない。

 今感じている、この温もりを失ってしまうのが、怖かった。


「涼…」


『俺はもう二度とこの村へは戻らない』


 そう言ってしまえば済む話だ。逆にそう伝えることこそが、愛する者へのせめてもの情けであるはずだ。

 だが…言えない。


「大丈夫、いつでも一緒だって言ったろ?」


 そう言って、竹彦は手首の赤い髪紐を見せた。


「お前はあのとき、『赤は嫌いだ』って言ってたけどな、やっぱり…お前には赤が似合うと思う」


 涼は、藍色の髪紐が巻いてある手首に、自らの手を重ねる。


「だから…嫌いだとか言わずにさ、あの場所で待っててほしい。俺にとって、お前とあそこで過ごした時が、何より特別だったんだ」


 涼は、竹彦から離れて、一歩後退した。

 そして、その口を開く。


「やっぱり…竹彦はずるいよね…」


 その苦しげな笑顔は、深く竹彦の心をえぐった。

 しかしそれは、確かな涼の覚悟を示していた。


「あぁ、ごめんな」


 それに応えるかのように、竹彦もまた、精一杯笑った。


「涼…ありがとう…」


『愛してる』


 一番伝えたかった言葉は…結局伝えられなかった。



――この愛を…祈りを…貴方に捧ぐ――



 涼はいつものように、花を数本携えて、鮮やかな落ち葉の埋め尽くす道を歩いていた。

 行き先は、言わずと知れた、あの山の頂。

 そのとき、聞き慣れ声に名を呼ばれた。


「まぁ、お涼ちゃん、今日もお参り?若いのに、本当に感心な子ねぇ」

「こんにちは。そんなことないです…私なんて…」


 竹彦がこの地を去ること早二年。

 元々病弱であった涼の母親は、既にこの世にはいなかった。

 ついに、涼は天涯孤独の身となってしまったのだ。


「いいえ、その歳で独りで暮らさないといけないなんて…本当に大変なことよ。私で良ければ何時でも力になるからね。遠慮せずに、何でも言うのよ?」


 この奥様はそう謙遜するが、既に涼は何度もこの方に助けて貰っている。

 毎日のように、おかずを届けてくれたり、右も左もわからない涼に、家事の仕方を教えてくれたり…。


「いえ、本当に至れり尽くせりで…申し訳ないです」

「そんなに遠慮しないで頂戴?私にとって貴女は娘みたいなものなのよ」

「はい、ありがとうございます!」


 このような方のお陰で、これまで涼は、何とか暮らしを立ててこられたのだ。

 涼は、深く頭を下げると、また再び歩みを進めた。


――既に、あの暗く悲しい戦争は幕を下ろしていた。


 結果は、惨敗。

 涼の危惧していた通り、あのときこの村から召集された若者は、誰一人として戻っては来なかった。

 彼を含めて…誰も。

 だからと言って、殉したという知らせもない。

 …生きているのかも知れない。

 しかし、国が犠牲者の全てを把握しきれていない、というのも実状だ。

 更には、終戦して、もう一年になる。

 生きているのなら、何故帰ってこないのだろう…。

 そんな考えを追い払うかの様に、涼は頭を振った。

 死んだと思えば、本当にそうなってしまいそうな気がしたから。

 それに、母にそのような悲しい報告をしたくはなかった。


 涼は、持ってきていた花を予め用意していた湯呑みに生けると、静かに目を閉じ、両手を合わせた。

 この場所を吹き抜ける風は、幼い頃から全く変わらない。

 悲しみを、この清々しい秋晴れの空に溶かしてくれるようだ。

 涼はゆっくりと両目を開くと、楓の大木の下に寝転んだ。


「…竹彦」


 その瞳に、赤く、反転した世界を映し、涼はまた再びその目を閉じる。

 そして、これまでに、どれ程繰り返したかわからない、祈りの言葉を呟いた。


「…せめて…魂だけでも共に…」


 独り取り残されてしまった…赤くて、憎くて、大好きな世界。

 此処には既に、自分の居場所はない。

 空虚なこの地に留まる意味など、もはや残されてはいないのだ。


「竹彦…あのときはね、この穏やかな時が、いつまでも続くと思ってたんだ…」


 涼の赤い瞳が僅かに細められる。


「本当は、ずっと伝えたかったの…ずるかったのは、私のほうだった…」


 後悔するには、何もかもが遅過ぎた。


――瞬間、涼の体が強張った。


 濡れた両の目は、大きく見開かれる。


 眼前に立ち、にこやかにこちらを見下ろしている…どれ程待ち望んだか知れない…彼の人。


「…ただいま、涼」

「……う…そ…」

「…随分遅くなっちまったな」


 今この目に映るものが、信じられない。


「…涼」


 しかし、確かに感じるこの温度は、間違いなく彼のもの。


「ずっと、伝えたかったんだ…」

「竹…彦…」


 濡れて霞む真っ赤な世界は、まるで夢を見ているよう。


「涼…愛してる」


 これが夢でも、幻でも。

 そんなことは構わない。

 ただ、この目に映るものだけが…今の私の真実。



――大切なもの…失って初めてその重みを知った――



――もう二度と…――


 

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