第一章
月の綺麗な夜だった。
美しい弧を描いた月は満月にほど近く、街を青白く照らし出している。昼の陽とは異なる色の光が降り注ぎ、小さな街を夜に染めていた。静寂に支配されつつある街の、その中心を貫く大通りにひとつの足音が響く。足早に通り過ぎていくのは大きな剣を背負った男。後頭部で束ねた長く黒い髪がその歩みに合わせてぱたぱたと揺れている。髪と同じ色をした黒い目はとても朴訥そうだが、褐色肌の引き締まった体躯はどこか鋭い。年の頃は二十そこそこであるが、背負った剣は見た目に似つかわしくないほどに使い込まれていた。
彼の名はエスサラーム。このキルヴィスの街に辿り着いたのはつい先刻のことだった。明るいうちに辿り着くはずだったのだが、小金稼ぎに請け負った賞金首の捕獲に思いのほか手こずり、すっかり遅くなってしまった。旅連れである兄がこの街を越えた先にある村で自分を待っているはずだが、もう今日は諦めてもらおうとエスサラームは一人心の中で決定する。兄は別の仕事を請け負い一足先にキルヴィスを出ているのだ。
共に旅をしているが兄弟はそれぞれ大人であり、適当な分散と合流は日常茶飯事である。兄がいるはずの村へは数刻もあれば辿り着けるが、無理に危険な夜の道を行くことはない。
「あーあ……。まだ泊めてもらえるかなぁ」
季節は冬に差し掛かり、朝晩の空気は容赦なく肌を刺す。宿がなければどこか雨風の凌げる場所で休むしかないが、この季節に野外泊は堪える。馬車での旅ででもあれば毛布の一枚も積んであろうが、身体ひとつずつの二人旅、生憎そのような装備は持ち合わせていない。夜通し火を熾しておけば多少は暖かいが、光が肉食獣や追剥の標的になるのも厄介だ。四方に注意をしながらでは眠れないほど浅い経験でもないが、落ち着いて休める選択肢があるなら迷うことなくそれを選びたい。
「あーでも……野宿も覚悟かね。はぁ……」
溜息を吐きながら情けなく独りごち、エスサラームは頭を振った。この規模の街では宿屋はいくつもないだろう。キルヴィスは観光名所でも交通の要所でもないが、自分のような流浪人が集まれば少ない宿はすぐに埋まってしまう。少なくとも、寝床確保はこのように夜が更けてからするものではないのだ。
宿屋の看板をきょろきょろと探しながらエスサラームは煉瓦造りの道を歩いていく。街の中心に向かい足を進めていけば、一軒や二軒は見つかるはずだ。もちろん、空室状況は別として。
かくして、エスサラームがほどなく宿屋と思しき看板を見つけた、そのとき。
キィン……
「──?」
エスサラームの耳がかすかな音を捉えた。ごく小さな、金属音。剣を鞘から抜く音だ。人が何かにぶつかったような、がたん、という音が次いで聞こえた。
──物騒だな。こんな夜中に。
思うなりエスサラームはくるりと踵を返し、音の鳴った方向へと進路を変えた。そんなに遠くはない。どっちだ──あっちだ。
面倒に巻き込まれる、という概念がエスサラームにはあまりない。損得を考えて動くということも、あまりない。対して、何とか出来そうなことは極力何とかしてやろうとすることは良くある。
つまり有り体に言えば、彼はお人よしと呼ばれる人種である。そもそも、当面の目標が今夜の寝床の確保から不審な物音の確認へ変わってしまっていることに、エスサラームはまるで気付いていなかった。
──これは、化け物退治だ。
追い詰めた獲物を眺め、男は混濁した意識の中でそう呟いた。路地の奥の逃げ場のない袋小路で、男は抜いたばかりの短剣を握り締めた。薄暗く狭いこの路地にも、満月にほど近い今宵の月はかすかな光で獲物を照らし出す。
「化け物めぇ……もう、逃げられないぞぉ」
呂律が回っていないことに、おそらく男は気付いていない。それでも、これは安い酒が見せる幻覚ではない。ふらつきながら男はもう一歩を踏み出す。
男の前方には、路地の奥に堆く積まれた木箱を背に女が追いつめられていた。積み上げられた木箱の一部が崩れているのは、彼女がぶつかったせいだろうか。中に入っていたのか、足元にはいくつかの小さな果実が散乱しており、潰れた果肉から飛び出した果汁が女の白いスカートの裾を汚している。
女はその大きな目で男の姿をじっと見ていた。悲鳴を上げることも、抗うことすらも忘れてしまったかのように、ただその瞳に男の姿を映し出していた。
「俺様に出会ったのが運の尽きだったなぁ……」
男の中に入った酒が、彼の気を大きくしていた。これは、正義だと。
俺は、悪い魔物を退治する英雄だ。こいつは人間じゃない。なぜならこの女の眼は。
「死ね、化け物ッ!!」
──柔らかいものを切り裂く感触ではなかった。振り上げた短剣の切っ先は女に届くことなく、金属同士がぶつかる乾いた音と共に宙を舞っていた。
「──!?」
男の指をすり抜けた短剣は、綺麗な弧をその軌跡とし女の背後にある木箱に突き刺さった。その柄が僅かに震え、すぐに静止する。
「なっ……」
「女の子にそんなもの向けるもんじゃないですよ、おじさん」
背後の声に、男は慌てて振り返った。月の光が逆光になってよく見えないが、どうやら若い男が大振りの片手剣を手に立っている。短剣を振り上げた瞬間、あの片手剣で弾いたのだろうか。どうやって。それとも振り下ろしたところを弾き飛ばしたのか。この距離から、一振りで? なんだこのガキは。何者だ。
否──そんなことはどうでもいい。
そうだ。このヒーロー気取りの若造は気付いていないのだ。この女が人間じゃないということに。いきがった若造にも現実を教えてやるのが大人の役割というものだ。
「てめえ、よーく見てみろよ。この女の目──」
刹那、不愉快げに目を細めたらしい若い男が水平に剣を構えた。そして一刀、薙ぎ払う。男の目の前を何かが舞っている。細い糸のような……金色の……髪?
「……次は首が飛ぶよ」
男の額のかなり上の方でたった今切り揃えられた前髪が、はらはらと地面に舞い落ちた。それが己の身体の一部だったものだと気付いたときには、若い男の黒く鋭い眼光に射竦められていた。逆光になっているのに、その強い眼力だけははっきりと分かる。若い男が再び剣を水平に構える。
──つぎは、くびが、とぶ?
「ケッ……恰好付けやがって。覚えてろよ」
ありきたりな捨て台詞をもごもごと口の中で呟きながら、男はもつれた足で若者の横をすり抜けた。もとより若者に男を殺すつもりなどなく、ふらつく足取りで逃げていく男を見送ると剣を背に負った鞘へと収める。そして若者──エスサラームは路地の奥を振り返った。
「大丈夫?」
木箱を背にした女が、頼りない月明かりの下で更に頼りなく佇んでいる。ひどく華奢な体躯が微かに震えていた。透き通るような白い肌が青白く見えるのは月の光のせいだろうか。その月が照らす銀色のふわふわとした長い髪が、光の粒を反射してきらきらと美しい。
「……」
女は何かを言おうとしたのか、小さく口を開いたが言葉にはならなかった。彼女の目に宿る光は助かった安堵感でも、目の前の青年への感謝でもなかった。ただ、怯えているように見える。その諦めにも似た恐怖は、エスサラームに対してではたぶんない。目の前にある全て──世の中全てに怯えているように、エスサラームの目には映った。
「大丈夫? 怪我してない? 歩ける? もしかしてさっきの奴に……何かされた?」
とても小さく、彼女は頭を振った。年の頃はエスサラームと同じくらいのようだが、その姿は今にも消えてしまいそうに弱々しい。
「どこも痛くない? ……そう。良かった」
かすかに頷く女に、エスサラームはほっと溜息を吐いた。月明かりが逆光となっているため彼女に自分の表情は伺えないだろうが、安堵で口元が緩む。
「女の子がこんな夜中に一人で外を出歩いてちゃ危ないよ。悪い奴はいっぱいいるから。家は近いの? 送っていくよ」
「……あの、わたし……旅の途中で、家はだから……なくて。泊まるところ見つからなくて、探してたんです……そしたら、あの人が」
氷の上を歩くような危うさでもって、彼女は言葉を紡いだ。たどたどしく、恐る恐る。伏せた目元に長い睫が震えながら影を落としている。消え入りそうな細い声が路地の闇に溶けていく。
「女の子一人で旅してるの? 尚更危ないよ。とりあえず……行こう。ここは寒いから」
くるりと踵を返し、エスサラームは路地の外へ出た。月明かりが照らす街が一瞬、とても眩しく見えた。そういえば自分も宿を探している途中だったということを、今更ながら思い出す。
「……おいで」
エスサラームの声に、彼女はおずおずと通りに姿を現す。
「俺はエスサラーム。名前、聞いてもいい?」
「……イジェリアと申します」
イジェリアと名乗った女と、そこで初めて目が合った。おそらくこのスタッガーリ大陸北部の出であろう、北方生まれ特有の真っ白な肌に色素の薄い銀髪、白の貫頭衣に薄灰色のローブを羽織った彼女は、喩えるならば今夜の月のような淡く白い雰囲気を纏っていた。ただ一点、紫色の大きな瞳が宝石のように彼女を彩っている。今にも泣きだしそうな迷子の子供のようで、同時に全てを諦めた大人のようでもあるその眼差しはすぐにエスサラームから逸らされた。目を伏せ俯くイジェリアの細い体躯は繊細なガラス細工を連想させる。触れれば折れてしまいそうな、壊れてしまいそうな、
「とりあえず一緒においで。俺も宿屋を探してるところだったんだ」
「あの……」
「もし見つからなかったら馬小屋にでも泊めてもらえるといいけど。外寒いし、どうも物騒みたいだしね」
行こう、とエスサラームは剣を背負い直して月が照らす大通りを歩きだした。どこか遠くで犬の遠吠えが聞こえるだけで人通りもなく静かな街路を、エスサラームに数歩遅れてイジェリアも歩き出す。
恐る恐る付いてくるイジェリアの姿を確認しながら、エスサラームはゆっくりと歩を進める。怯えきった彼女の様子ならば途中で逃げ去ってしまう可能性は小さくなかった。酔漢を追い払ったくらいで信用されるとも思っていないが、こんな夜更けに彼女を一人放り出すのは本意ではない。おずおずと後ろを歩く足音を確認しながらエスサラームは足を運び、その度に後頭部で束ねられたエスサラームの黒い髪が馬の尻尾のように小さく跳ねる。髪を束ねた布がリボンのようにふわふわと夜風に揺れていた。
──まもなく満ちるはずの月が、とても綺麗な夜だった。
「あの……その、えー……。ごめんなさい。つい、勢いで」
狭い部屋の中で、エスサラームは壁際で小さくなりながら両の手を合わせていた。ベッドがひとつと小さなランプがひとつ、他には窓があるだけの殺風景なその部屋の中で、エスサラームは季節にそぐわない大量の汗を掻いている。
キルヴィスの街で唯一の宿屋に辿りついたのはやはり遅かったというのか、それでもギリギリ間に合ったというのか、空いていたのはごく安い一人部屋がたったひとつだった。人間ふたりに対し寝床がひとつ。エスサラームは当然、その部屋をイジェリアに譲り自分はどこかの隅にでも──馬小屋でも物置でも泊めてもらえないか交渉するつもりだった。少なくとも、先ずはそうしようとしたのだ。
しかし、彼が口を開きかけた瞬間に宿主は露骨に嫌な顔をしイジェリアを顎で指した。「そちらは? あんただけならひと部屋ありますがね」と。彼女を泊めたくないという言葉以上に雄弁な態度に苛立ったエスサラームは、思わず「俺の連れなんで。一緒の部屋でいいです。二人分払えば文句ありませんね」と強引に部屋を取ってしまったのだった。売り言葉に買い言葉以外の何物でもない。
「ごめん、男が一人部屋に女の子を連れ込むなんて……あの、そんなつもりはなくて、絶対何もしないから今夜は我慢してください」
冷や汗を掻きながら必死で弁明するエスサラームに、イジェリアは漸く少しだけ表情を緩ませた。
「こちらこそごめんなさい。助けていただいたばかりか……こんなところまで付いてきてしまって……すみません」
「ベッド使って。俺は床で寝るから」
簡素なベッドを目で指し、エスサラームは背中の剣を鞘ごと降ろし部屋の隅に立て掛けた。窓際に腰を下ろし大きく伸びをする。値段にそぐう質素な部屋だが、冷えた外気がないだけで随分暖かく感じる。
「そういうわけにはいきません。わたしは床で結構です」
「そういうわけにはいかないよ」
床に座ろうとするイジェリアを掌で止めるが、彼女も譲らない。
「野宿にも慣れてます。屋根と壁があるだけで十分です」
「俺だって慣れてるよ。女の子を床に寝かせて自分はベッドなんて、俺ってそんなにひどい奴に見える?」
「そういうことでは……」
「だったら遠慮しないの」
ね、と口角を上げたエスサラームに再びベッドを指され、イジェリアはようやくそこに腰を下ろした。弾力性の小さな固いベッドだったが、それは確かに人が眠るための場所だった。路地の奥や大きな木の根元などではなく。掛布団はほとんど布に近いものではあるが天日干しをした後の陽の匂いがする。最後にこんな清潔な布に包まれて眠ったのはどのぐらい前のことだったのか、イジェリアには思い出せなかった。
今日だって、露骨に嫌な顔をされながらも罵詈雑言とともに追い出されずに済んだのはエスサラームが一緒だったからだ。自分一人であればここにいることは出来なかったはずだ。
「……ありがとうございます。すみません」
顔を上げると、窓際の壁に背中を預けたエスサラームと目が合った。粗末なカーテンは閉められており、逆光のないところでようやく彼の姿をきちんと目に映したということに思い至ったイジェリアは姿勢を正した。──ろくに礼も言っていない。
「助けていただいてありがとうございました」
「怪我がなくて良かったよ。あのおっさん、酔っ払ってたみたいだったしさ」
第一印象も、そして今こうして再び対峙してみても、印象的なのは穏やかな眼差しだった。その目にはイジェリアに対する嫌悪感や侮蔑は微塵も感じられない。目が合ったということはイジェリアの姿も見たはずなのに、それでも。
──忌み嫌われる存在であることは承知している。エスサラームが何の思惑もなく自分を酔漢から守り寝床の確保までしてくれたことを、ただ彼の善意だと信じきることがイジェリアには出来ないでいた。それでも、エスサラームの朴訥な笑顔は暖かく、黒く優しい瞳に引き止められてしまう。それが実は偽りだったとしても、構わないような気さえしていた。
「エスサラームさんは、どうして……」
「ん?」
どうしてわたしを助けてくれたんですか?
そう尋ねようとしてイジェリアは口籠った。少しの間考えて、違う言葉を投げかけた。「どうして、この街に来られたんですか?」
助けてくれた理由も、優しくしてくれる理由も分からないけれど、分からないままでいい。本当のことがあるとして、でも今は知りたくない。ふと、そう思った。
──温かいものに少しでも長く触れていたかった。
「うーん、ただの通りがかり。実は兄ちゃんと二人旅なんだけどさ、路銀が心許なくなって。俺はこの辺で賞金首をふたつみっつ捕まえて、兄ちゃんはこの先のナーゴの村へ稼ぎに行ってて、明日あっちで合流する予定」
壁に立て掛けた長剣をちらりと一瞥し、エスサラームは鼻の頭を掻いた。ナーゴの村はこのキルヴィスの街から山を半分越えた先にある小さな山村であり、数刻もあれば辿り着くはずだが──兄の首尾はどうだったのだろうか。引き渡した賞金首のおかげで懐に多少の余裕は生まれたものの、つくづくその日暮らしの流れ者兄弟だと思う。エスサラームは苦笑した。
「お兄様?」
「うん。まあいろいろ祓ったり使役ったりしてるから、今回もナーゴで何か憑き物落としとか除霊的な仕事請け負ってるんじゃないかなぁ、多分。呪士なんだよ、うちの兄ちゃん」
エスサラームは事も無げに言ったが、その言葉にイジェリアは目を丸くした。
「えっ……呪士って、じゃあ、エスサラームさんのお兄様は」
「うん、君と同じ。兄ちゃんは魔法使い(ウィザード)だよ」
魔法使い(ウィザード)。それは、このスタッガーリ大陸において忌むべき存在とされる人々を指す。古来、魔法使いは人智を超えた様々な能力を駆使していたとされる。雷を呼ぶもの、炎を熾すもの、水を操るもの、そして──魔物を喚ぶもの。このような能力を持つが為に、大陸中の国家は遍く彼らを軍事力として抱えていたと古文書は伝える。
やがて、大陸で栄華を極めた二つの魔法大国が各々勢力を広げ、ついにはその総力を以て大陸全土を巻き込んだ魔大戦が起こったという。凶大な力を持った魔物が召喚され破壊の限りを尽し、またそれぞれの国の魔法使いが持つ力が各国各地でぶつかり合い、やがて制御を失った魔物が跋扈し──スタッガーリ大陸は人類滅亡の危機に瀕したとされる。
この混沌を納めたのが、この世界を総べる女神マリシラだという。魔物ばかりか魔法使いの力を全て無に帰し世界を守ったのだと伝えられる。以来、女神マリシラを祀る神殿が大陸全土の各地に作られ、スタッガーリ大陸のほぼ中央に位置するルー・レオ大神殿を中心として現在でも広く信仰を集めている。
対象的に、以来権力が失墜した二つの大国──今ではもはや存在もしていない──と同じくして、魔法使いは時と共に力を失っていった。今では伝承や古の書物に書かれるような記号通りの魔法使いを見ることはない、
否。それはその能力の有無ではない。どうあれ彼らは自身の力も存在も世間の目から極力隠しているだろう。ルー・レオ大神殿が描く女神マリシラの神話において、魔法は世界を滅亡の淵に追いやった悪でしかない。人々にとって、魔法とその術者は見も知らぬ恐怖の対象であり、世界から排除すべき禁忌であった。
彼らは世界から、人々の暮らしから徹底的に排除されている。魔法使いは人ではない。穢れた存在なのだ。不思議な力は目には見えない。見せない。それでも、彼らにはたった一つ大きな可視特徴があった。魔法使いの眼は紫色──紫眼は恐怖の、そしてその裏返しであろう侮蔑の対象であった。
化け物だと言われるのも。宿に泊めてもらえないのも。石もて追われるのも、全て。紫眼はこの世界において絶対多数の正義の大義名分になる。
「……だから、わたしを助けてくださったんですね」
兄が魔法使いだから。だから、エスサラームは自分を助けてくれたのだとイジェリアは理解した。様々な人種がスタッガーリ大陸には存在するが、兄弟姉妹は大体同じような身体特徴──眼や髪、肌の色を持つ。しかし同じ血が流れていても時折、突然変異のように魔法使いの体質を持つものが生まれる。エスサラームの眼は黒く魔法使いの特徴を持たないが、その兄もそうであるとは限らない。そして兄弟姉妹、むしろ父母であっても紫眼を嫌うものは多く、忌み子として闇に葬られたり間引きされることも珍しくはない。しかして身内に対する同情で以て紫眼を庇い匿う者も存在する。
エスサラームは兄が魔法使いだから。兄が差別されているから。だから、自分のことも同情してくれたのだ。それはひどく順当なことのように思え、イジェリアの腑に容易に落ちた。
「『だから』って……何で?」
しかし、エスサラームはきょとんとした顔で数度瞬きをした。
「通りかかったら酔っ払いが女の子に絡んでた、剣を抜いて振り上げた、女の子怖くて固まってる、俺は曲がりなりにも剣士。やるべきことって一つしかなくない? 兄ちゃんは関係ないよ」
「だってわたしはウィザ──」
「イジェリアはどうもさっきから俺のことを血も涙もない冷血漢だと思ってるよな。やっぱり無理矢理部屋取ったの怒ってる? でも今日は頼むから我慢してよ。夜中の一人歩きは男だって危ないんだから」
エスサラームはぽりぽりと頭を掻いた。
正直なところ、目の前の少女が言わんとすることは分かっていた。エスサラームのことを頭から信用もしていないことも含めて、それが分からないほど鈍感ではなかった。そして、眼の色なんて関係ないといくら言葉で伝えたところで彼女にとっては無意味だということも、エスサラームは知っていた。それがまごうことなき本心であっても、言葉でそれが伝わるような甘い世界に彼女は生きてこなかったことくらい分かる。
だから、気づかない振りをする。それしか出来ない。
「大丈夫、絶対に何もしません。俺は紳士です」
両の掌を外側に向け顔の前に立て、エスサラームは白旗のポーズを取った。穏やかな顔に不似合なほどにごつごつと角ばった大きな掌だと、イジェリアは思った。剣を握り多くの困難を経験してきた、安穏とは生きていない者の手だと。
「夜も遅いしもう寝ようか。おやすみ」
「……おやすみなさい」
エスサラームは床に置かれたランプの炎を吹き消した。窓の外は月が明るく照らし出しているはずだったが、カーテンに遮られた部屋にはその光が届かなかった。
──大きな爆発音がした。別の方向からは女の悲鳴が聞こえ、重なるように男の絶叫と複数の笑い声がした。何かが爆ぜるばちばちという音に混じり、焦げ臭い風が辺りを吹き抜ける。
「──!!」
煉瓦造りの建物は崩れかけており、傾いた壁の間にイジェリアが蹲っている。両手で耳を塞いだのに、またどこかで悲鳴が上がったのが確かに分かった。
(角のおうちのおばちゃんだ……)
飛び出して行きたい気持ちは恐怖に握り潰された。見つかれば殺される。また違う方向から断末魔の絶叫が聞こえ、火薬の臭いと共に生臭い血の気配が鼻を突く。
「化け物はもういないのか?」
「おまえ何人殺った?」
「やっぱ化け物とは言え若い女はいいな」
「しっかしショボイ村だなぁおい。金目のものなんて何にもありゃしねえぜ」
嘲りを多分に含んだ声で笑いあう男衆の声。生まれ育った村のはずなのに、慣れ親しんだ村のはずなのに、イジェリアの知らない声ばかりが耳に届く。どうして。
(姉さんどこにいるの? 怖いよ。たすけて)
膝を折り小さくなってきつく目を閉じた。耳を塞いでも尚、気持ちの悪い声が聞こえる。
「──おい、師団長から退却の命令だぞ」
「ろくなもんがなかったな。報酬の足しにもなりゃしねえぞ」
「まあ化け物村だからな。とはいえ、まともな食い物と女は久しぶりだ」
「ちげえねえ」
下品な笑い声とともに軍靴特有のがちゃついた足音が遠ざかっていく。またひとつ爆発音がし何かが崩れ落ちたような地響きがした。
どれだけの時間が流れたのか、辺りをすっかり静寂が支配した頃イジェリアはそっと壁から這い出ると外へ飛び出し──そして息を飲んだ。
「あ……」
そこはおそらく、地獄だった。
見知った村などではない。ほとんどの建物が大きく崩れ、視界一面に瓦礫や石や木材が散乱していた。真っ黒に焦げてまだ燻り続けている木や建物の残骸が、墓標のように地面に突き立っている。
「や……」
その間を転々と、もしくは積み重なるように死体があった。全身を切り刻まれ真っ赤な血に塗れた男。腹を裂かれ赤子を引きずり出された妊婦。凌辱の末に絶命したらしい女は足をだらりと投げ出しており、眼を刳り抜かれた老人の真っ黒な眼窩からはもう血すら流れない。黒焦げになり性別すらも分からない者もある。
(ユーディおじいちゃんもレイチェルもブリードおばちゃんも)
生きた人間は一人もいない。風景のどこにも、生命が見つけられない。
(リリベールさんもラライネ婆ちゃんもコキューもセドラも)
累々と重なる死体と血の海の中、自分だけが生きている。足が震えて立っていられない。目の前が真っ暗になり、すぐに白く反転した。どうして。どうして。どうして。
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
(──!!)
息が止まりそうな苦しさと共に、イジェリアは飛び起きた。動悸が激しく呼吸が荒い。見知らぬ部屋。ここは、どこ?
半身を起こして辺りを見る。すぐに目は慣れた。ここがキルヴィスの宿屋であることをようやく思い出す。
(……ゆ……め……?)
夢を見ていたのだ。否、夢ではない。あれはいつかの現実だった。幼い頃に確かにこの目で見た、彼岸のものではなく此岸の現実だった。
夢ならば良かった。夢ではないから、全てが鮮明なまま忘れることも出来ない。
息を整えながら、掛布を握り締めたままの己の手をイジェリアは見つめた。強く握った震えるその手は、あの時辺りに溢れかえっていたような赤い血が流れているとは思えないほどに白かった。
「──眠れない?」
出し抜けに声がして、イジェリアはびくりと肩を震わせた。心臓が止まりそうになる。首を巡らすと壁に凭れたエスサラームがこちらを見ていた。その眼は闇と同じ色をしているのに、どこまでも穏やかな色を湛えている。イジェリアはひどく慌てた。
「あ……わたし……ごめんなさい、起こしてしまって……」
「俺も寝付けなくて。眠れないときには少し温まるといいよね。ちょっと待ってて」
返事を待たずエスサラームはカーテンを開いた。同時に差し込む月光が目に眩しいほどだ。立ち上がり部屋を出たエスサラームの「すぐ戻るから」という言葉の通り、ものの数分で再び扉が開き、顔を出したエスサラームの手にはカップが二つと陶器製の水差しのようなものがあった。
荷物をごそごそと漁りエスサラームは何か乾いた葉のようなものを取り出すと、水差しに放り込んだ。そこから二つのカップに注がれた液体はほんのり湯気を立てている。
「どうぞ」
その片方をイジェリアに差し出し、もう一つにエスサラームは口を付けた。
「口に合うか分からないけど。俺の好きな香茶」
差し出されるまま受け取ったイジェリアは両手でカップを包み込んだ。僅かに色づいた液体からは、甘い香りがふわりと立ち上っている。
「あ、ごめん!! ちょっと待って」
エスサラームは再び荷物を掻き回し、やがて小さな塊がいくつも入った皮袋を取り出した。その塊を一つ、イジェリアに手渡す。
「女の子は甘いほうが好きなんだよね」
塊は砂糖だった。イジェリアはそれを受け取るとカップにそっと落とした。暖かい香茶の中で、塊はゆっくりと溶けていく。包み込んだ両手に暖かさがじんわりと伝わり、強張った指が徐々に解れていく。併せて、凍りついた気持ちが少しだけ柔らかくなったような気がする。香茶を一口含んだ。甘くて温かい。
「わたしの村が……襲われた時の夢を見ました」
液体の中で少しずつ崩れていく砂糖を見ながら、イジェリアは小さく呟くように言った。
「近くの城塞国家の軍隊が、負け戦から帰ってきて……腹いせのためだけに、わたしの村が」
震える声で夢の内容を語った。口が勝手に紡ぎだす。どうしてこんな話をしているのかイジェリア自身にも分からない、こんな話愉快なはずがない。夜中に起こされて聞きたい話であるはずがないのに。
「魔法使い(ド)が寄り添って暮らしていたあの村に、姉と二人で住んでいたんです。みんな優しくていい人たちばかりで、なのにどうして」
理不尽な殺戮。殺されなければならない理由など、村にはひとつだってなかったはずだ。各国から流れ着いた行き場のない紫眼は、ただ静かに暮らしていた。病気になっても診てくれる医者はいない。薬を売ってもらうことも出来ない。それでもただ、彼らは静かに暮らしていた。望むものは、たったひとつだったのに。
「ただ、普通に生きていたかっただけなのに……」
俯いたイジェリアは泣いてはいなかった。今にも泣きだしそうなのに、その紫色の眼はとても乾いていた。
光景を忘れることも出来ないまま、あれからどれだけ経ったのだろう。どれだけ経てば、刃に裂かれたような思い出が鈍い痛みに変わるのだろうか。イジェリアは窓の外を見上げると目を細めた。月の光が眩しい。
「普通に生きるっていうのは……」
それまで黙っていたエスサラームが、一人ごちるように呟いた。そして、短くはない間の沈黙の後に、続けた。
「……すごく、幸せなことなんだよね」
イジェリアが顔を上げると、エスサラームが彼女を見ていた。手の中のカップはすっかり冷えてしまっていたが、甘く温かかった香茶のように、エスサラームの眼差しは優しかった。
「エスサラームさん、わたしはあれからずっと……姉を探しているんです」
どうしてこれほどまでに言葉が口を突いて出るのだろう。イジェリアは戸惑いながらエスサラームを見つめた。半日前に出会ったばかりの、名前しか知らない剣士。信用できる保証などどこにもない。優しい顔をした悪魔など、いくらだって見ているのに。
「焼けてひどい状態になった村をどれだけ探しても、姉の死体だけは見つからなかったんです。逃げたのか捕まったのか分からないけど、でも……」
「きっと生きているよ」
エスサラームは強い口調で言い切った。彼女の姉が生きていて、そして再び会えることを祈るかのように。イジェリアの顔が泣きそうに歪む。
「お姉さんはきっと生きていて、君を探してると思うよ。……きょうだいだもの」
カップの中の砂糖はとうに溶けて消えていた。溶けて見えなくなっても甘さはカップの中に残っている。同じように、見えなくても伝わるものがあるのだとイジェリアは思った。例え全てが嘘だったとしても、少なくとも今の言葉だけはエスサラームの本心だと。
どこまでも凪いだ海のように穏やかな黒い眼が嘘だとは、思いたくなかった。
姉はきっと生きている。ずっとそれだけ信じてきたように。エスサラームもそう思ってくれたように、きっと。
「エスサラームさん」
「なに?」
「……ありがとうございます」
エスサラームは何も言わずに、少し笑った。月の光が降り注ぐ部屋の中、夜は静かに更けていった。
朝の光が瞼の裏を刺し、たくさんの鳥の声がした。エスサラームは軽く頭を振って目を開ける。こうして一か所に定住せず放浪の旅を続けていると、目覚める度にふと一瞬ではあるが自分がどこにいるか分からなくなる。案の定、毎度同じようでありながら見慣れない部屋が目に入る。
そして今日はもう一つ、ベッドに腰掛けた銀髪の少女の姿を目の端に捉えた。
「おはようございます」
「おはよ。……ごめん、俺、今起きた」
イジェリアはすっかり身支度を整えている。随分前から起きていたようだ。もしかしたら夜中に一度起きてから、まともに寝ていないのかもしれない。そもそもいきなり見ず知らずの男と同室で宿を取ったのだ。無理もない。
「顔、洗ってくる」
裏庭の井戸に向かう。外に出た瞬間、朝のひんやりと澄んだ空気がエスサラームの全身を包んだ。朝日が木々の葉を照らし、地面には光の斑模様が浮かび上がっていた。空は雲一つない快晴であったが、エスサラームが部屋に戻るころには晩秋の寒さですっかり目が覚めていた。
「あの、本当にありがとうございました」
手早く身支度をし仏頂面の主人に宿賃を支払い外に出ると、イジェリアが深々と頭を下げた。宿代を折半するという彼女の主張をエスサラームは受け入れず、そのためだろうかイジェリアはひどく恐縮しきっている。
こうして明るい陽の下で見ても、その細い身体は日光に溶けてしまいそうに頼りない。あまりにも華奢で小柄なせいだろうか。それとも、身に纏った雰囲気のせいか。昨晩も今も涙などどこにも見えていないのに、何故か今にも泣きだしそうな、そんな感じがする。
「イジェリアはこれからどこへ向かうの?」
木々の梢をさわさわと揺らした風が一陣、二人の間を通り抜けた。これから冬になる風の冷たさに、エスサラームは肩を竦めた。イジェリアのスカートの裾が、ふわりと靡く。
正直なところ、この儚げな少女を一人放り出すのは心配だった。いつ昨晩のような目に合うか分からない。そしてそうなれば、直ぐに殺されてしまうのは明らかだとエスサラームには思われた。世界を生き抜いていくには、この少女はあまりにもか細い。
「西の方で姉さんらしい人を見たと教えてくれた方がいました。本当かどうか分からないし、本当だったとしてももう遅いかもしれないですけど、他に手がかりもないから行ってみようかと思ってます。山を越えて、アウストモーレ城塞都市へ……大きな町ならわたし達も隠れやすいですから、姉さんもそこにいるかもしれない」
ここキルヴィスの街はスタッガーリ大陸西部の入り口とも言える拠点である。高く聳えた連山に囲まれた西部地域は、アウストモーレ城塞とその城塞都市を中心に大陸の中でもやや独立した格好になる。その西部へ向かうにはここキルヴィスを越えて、その先に立ち塞がる山を越えるしかない。それ以外の箇所から山を越えるという方法は、理論上は可能だが実際には取られていない。魔物が棲むとか地獄に接しているとか様々な噂があり、真偽の程はともかく実際に立ち入って行方不明になる者が多く、アウストモーレ城塞国家の法において山越えは禁止されている。
「じゃあ、俺はナーゴまで行くから……同じ方向だね」
「はい」
エスサラームの目的地は兄が待つはずのナーゴの村であり、キルヴィスの先の山道を少し入ったところにある。それをさらに越えていけばやがてアウストモーレに辿り着く。
「……エスサラームさんは、もう発たれますか?」
同じ方向ならご一緒させていただけますか、とイジェリアには言えなかった。エスサラームは確かに昨晩自分を助けてくれたが、それでも昨日出会ったばかりの他人だ。他人と行動を共にするのは不安だった。他人が持つものはあくまで、自分への害意だ。
しかしそれ以上に、一人で山を越え見知らぬ街へ向かうのが怖かった。故郷を失ってからもう随分年月が経ち、その間ずっと一人であちこち彷徨ってきた。石もて追われるだけならまだましで、刃を向けられたことも一度や二度ではない。昨晩のようなことも本当は初めてではない。今生きているのが不思議なほど、立ち寄った先々で紫眼には悪意が向けられてきた。
何を今更、とは思う。思いながらも、ぶつけられる憎悪にはいつまで経っても慣れることが出来ない。怖かった。死ぬことなど怖くはない。地獄なら何度も見た。それでも尚、人の悪意がとても怖かった。
どんな思惑があるにせよ、助けてくれたのは──否、悪意でない眼差しを向けてくれたのはエスサラーム以外に思い当たる記憶がない。出来ることならば、彼が向かうというナーゴの村まででも一緒に行きたかった。ナーゴから先も一緒になどと図々しいことは思わない。彼の都合の邪魔をしない範囲で、もう少しだけ一緒にいたかった。
それでも、イジェリアにはその一言がどうしても言えなかった。紫眼の自分が一緒にいれば、エスサラーム迷惑をかけることは避けられない。山道で、村で、街ですれ違う人が牙を剥かない保証などどこにもない。彼ら──世界にとって紫眼は害虫に等しい。
自身に向けられる悪意は怖い。でもそのためにエスサラームの優しい笑顔が曇ることは、もっと怖かった。それどころか、彼が巻き添えを食って傷つけられたら。殺されてしまったら。
──そんなことは、言えなかった。
「うん。ぼちぼち行こうかな。兄ちゃんが待ってるだろうし。……あのさ」
「──?」
「……や、なんでもない。もし、行く先で君の姉ちゃんに会えたら『妹さんがあなたを探していますよ』って伝えておくよ」
そして、途中まで一緒に行こうとはエスサラームもまた言えないでいた。彼女を放っておくのは心配だった。自分が付いてさえいれば、少なくとも昨日のような輩や宿主の悪意からは守ってやれる。しかし、彼女が自分を頭から信用してなどいないことはエスサラームにも分かっている。自分が同行を申し出ればイジェリアに気詰まりな旅を強いることになるのは明らかだ。正体の分からない他人に気を許せるほど安穏とした道を、彼女は生きてこなかったはずだ。
「姉ちゃんはどんな人なの?」
彼女が気を許せる空気を作ろうとするかのように、エスサラームは殊更明るく問うた。そんなことで癒えるほどの傷ではないとは知りつつ、それでも彼女を放っておきたくなかった。でもどうしようもない。自分が一緒にいることでイジェリアが被る迷惑のほうが、きっとはるかに大きい。放っておけないなどというのは、自分のエゴだとエスサラームには分かっていた。
「姉は……わたしと同じ眼と肌の色で、髪はわたしより黄色がかっていて……別れたときは姉さんは十六歳だったはずですから、今は二十三歳になっていて……それから……」
少し考えながら、イジェリアは問われるままに姉の特徴を思いだしていく。もう、七年も経つのだと改めて思い知らされる。
あの頃子供だったイジェリアは背も伸びて少しは大人になった。姉は変わっているのだろうかと思う。脳裏にある変わらない姉の姿は、今のイジェリアよりも年下なのだ。
「わたしが頼りないから……姉さんはしっかり者で気も強くて、いつもわたしを守ってくれて……あ、少しだけ雷が起こせるんです。それから」
懸命に思い出しているイジェリアは、食い入るように聞き入っているエスサラームの様子がおかしいことに全く気付いていない。エスサラームは一言一句聞き漏らすまいとするかのように、上半身をぐっとイジェリアに近づけた。
「あ、それで、名前はカノーリアと──きゃあっ」
言葉の途中でイジェリアは悲鳴を上げた。驚いたのだ。
イジェリアの両手をエスサラームもまた両手でもって握りしめていた。褐色色の力強い指が、細い手首を絡め取る。
「俺より三つ年上で、白金色の髪と紫眼、気が強くて雷が起こせて、カノーリアだって?」
「エ、スサラームさん、何を……」
真剣な眼差しが怖いくらいにイジェリアを射る。突然の変貌に目を白黒させているとエスサラームは更にその手を強く握った。
「君の姉ちゃんは、十三年前リゴール城塞都市にいなかったか!?」
「エスサラームさん、待って、痛い……っ」
悲鳴じみた声に弾かれたように、エスサラームは慌てて手を離した。真っ白な手首に指の痕が赤くくっきりと浮かんでいた。
「ご、ごめん、つい」
エスサラームは謝りながらイジェリアの両手首を擦る。その様子に何だか恥ずかしくなり、イジェリアは頬を赤くして俯いた。傍から見れば、若い恋人たちの痴話喧嘩の様相以外の何物でもないに違いない。
「エスサラームさん、姉さんを……姉をご存じなんですか」
顔を上げて問うと、エスサラームは真剣な表情で頷いた。
「多分、君の姉さんは──カノーリアは俺の命の恩人だ」
──街のほぼ中心に位置する大きな噴水の前に、女が引き立てられていた。
ぼろぼろの身なりのまだ若い女が、軍服を着た四、五人の男に引きずられるように歩かされている。その女の服はあちこち破れ血が滲み、顔や手足には無数の傷跡がある。その男達に振るわれた暴力の痕であるのは明白であったが、誰も目を合わそうとはしない。涙に濡れた女の紫色の眼を彩るのは、絶望だった。
──私刑だ。
遠巻きに見ている誰かがそう囁いたのを聞いた。軍事力で北部を統率するリゴール城塞都市では、そのいたるところで軍人が幅を利かせている。逆らえばどうなるか、知らないものはリゴールの民ではなかった。リゴールには軍人の無法を縛る法規そのものが存在しないのだ。強いて言うならば、彼らそのものが法だった。
──でも、あの女。魔法使い(ウィザード)みたいよ。
──あれ嬲り殺しじゃねえの、多分。
遠くで囁く声はすれど、誰一人として関わろうとはしない。軍服に逆らえばこの街で生きてはいられない。そして、甚振られているのは無辜の民ではなく紫眼の化け物だ。忌まわしい化け物が一人この街から排除されるだけだと、それだけのことだと誰もが悟っている。
女が転んだ。硬い軍靴で容赦なく蹴りつけられる。力無い悲鳴が女の口から洩れた。口の端から血が滲んでいる。立ち上がろうとしては足を縺れさせて転倒する女を、軍人が笑いながら蹴り飛ばす。その笑みは、獲物を甚振る愉悦に満ちた獣のそれにとてもよく似ていた。食うための狩猟ではなく、尽きていく命を弄ぶ遊びに耽る肉食獣のそれに。
「やめろよ!!」
その時、遠巻きに見る群衆の中から声がした。飛び出したのは黒い髪と眼を持つ、褐色肌の少年だった。年の頃は六つか七つくらいだろうか。その眼は真っ直ぐに軍服の男達をにらみつけていた。
少年──エスサラームは見物人の制止を振り切って女の元へ走り寄った。しかしその進路は立ち塞がる軍人によって妨げられる。
「おまえも死にたいのか。ガキは引っ込んでろ」
「罪人を庇う奴は罪人となるぞ。さっさと去ね」
見下す視線をものともせず、エスサラームは小さな拳を握り叫んだ。
「その人が何をしたんだよ!!」
「化け物は存在することがもはや罪だ」
「何もしてない人を殴る方が罪人だろ!! その人を離せよ!!」
瞬間、空を切る音がしてエスサラームは真横に吹っ飛ばされた。蹴飛ばされたのだ。地面に転がったエスサラームを、更に別の軍人が胸倉を掴んで持ち上げる。
「我々を愚弄するか。ガキだと思って甘い顔をしていれば」
「ぐ……ッ、軍人だからって好き勝手していいと……っ」
男はそのままエスサラームを放り投げた。右の肩から地面に落ち、エスサラームは身体を縮めて呻いた。その背中に軍靴の鋭い一蹴が入る。また一蹴。今度は腹を強かに蹴られた。呼吸が出来なくなる。
複数の男がエスサラームの身体を蹴り、殴り、張り飛ばした。止める者はおらず、手加減をする者もいない。小さな身体が言うことを聞かなくなり視界が霞んでくるのにさほどの時間はかからなかった。
(兄ちゃん。俺……死んじゃうのかな……)
地面に伏したエスサラームの脳裏に浮かんだのは、兄の存在だった。弟の面倒を見るために幼い頃から苦労をしてきた兄は、エスサラームが死ねば自由になれる。でもきっと兄は悲しむだろう。兄の明るい笑顔が瞼の裏に蘇る。
(兄ちゃんごめんね……)
意識が遠のきかけたそのとき、鋭い声がした。
「──やめなさい!!」
墜ちようとする意識を叱咤し、エスサラームが必死に顔を上げた先には一人の少女がいた。銀色に似た色素の薄い金色の髪が先ず目に飛び込んできた。エスサラームよりいくつか年上だろうか。まだ幼いながらも額で切り揃えられた前髪が意志の強そうな紫色の瞳を強調している。
「あんたたち、大の大人が揃いも揃ってこんな子供になにやってんのよ。恥ずかしくないわけ? この卑怯者っ!!」
鈴を転がすような可愛らしい声で威勢良く啖呵を切る少女に、軍人達はエスサラームを蹴る足を止めた。怒りで顔が歪んでいる。
「この街には死にたい奴が多すぎるようだなあ? ……あん? 貴様も魔法使い(ばけもの)か」
「化け物は小さいうちに殺しておけばいいんだ、そうだろ」
「こいつらまとめて……殺してやる」
男の一人が腰に下げた長剣を抜いた。それに呼応するように周りの男も一斉に剣を抜く。取り囲んでいた群衆が息を飲んだのが、エスサラームにも分かった。
少女は向けられた切っ先に物怖じする様子も見せず、エスサラームへ近づいていく。引き立てられていた女はすでに逃げたのか姿が見えなかったが、軍人達の殺意はすでにこの幼い少年と少女へと向けられていた。
「死ねッ」
真っ先に剣を抜いた男がそれを高く振り上げた。
周囲の誰もが予想した惨劇は、しかし起こらなかった。剣を振り下ろそうとした瞬間、少女が口の中で小さく何かを呟き──男達は動かなくなった。否、動けなくなったのだ。
ばちばちと花火が散るような音と共に、剣を持ったまま男達が痙攣していた。
「かみ……なり?」
エスサラームは茫然と目の前の光景を見た。軍人を襲ったのは雷のようなものに見える。それを操ったのはこの少女だろうか。
「な……ッ」
「魔法使いよ……!!」
明らかに異質な力に、周囲の人の群れがざわめき始めた。それが悲鳴じみた色を帯び始めるまさに直前、少女はエスサラームの手を強く引いた。
「逃げるわよ!! さあ早く!!」
少女に手を引かれ、エスサラームは動かない足を懸命に走らせた。混乱し始めた人々の間を縫って必死で街の外へ向かう。前を行く少女の肩まで伸びた髪が走る度に風を含みふわふわと揺れているのを、場違いにも綺麗だと思いながら。後方はまだ混乱しているようで追ってくる者は誰もいなかったが、大人が本気で追いかけてこれば子供の足ではすぐに追いつかれる。二人はひたすら走り続けた。
やがて、息を切らせた二人が辿り着いたのは街を出た先にある森の奥、湖の畔だった。きらきらと輝く湖面は取り囲む木立を鏡のように映し出している。聞こえてくるのは鳥の囀りと虫の音、さざ波の微かな音だけで、軍靴の足音や人の声は耳に届かない。
「ここまで来れば大丈夫ね」
少女は大きく息を吐くとその場に足を投げ出して座り、そして振り返った。
「ねえ、大丈夫?」
「だい、じょ、ぶ」
息を切らしながら、掠れた声でエスサラームは答えた。本当はあまり大丈夫ではない。身体はあちこち痛むし、口の中が切れたのか血の味がする。しかし自分とさほど年の変わらない女の子から大丈夫かと問われ弱音を吐くのは、少年の小さなプライドが許さなかった。
「君、小さいのに立派よね。名前は何ていうの?」
へたるように座り込んだエスサラームに、少女はにっこりと笑った。大人びた口調ではあるが、くりっとした大きな目は年相応に可愛らしい。
「僕、エスサラーム。もう七歳だから小さくないよ」
少女は確かに自分より一回り程大きかったが、子供扱いされたエスサラームは口を尖らせた。
「あたしはカノーリア。十歳だから、あたしのほうがお姉さんよ」
少女──カノーリアは懐から布を取り出し湖水で濡らすと、エスサラームの口元や額、手足の血を拭った。
「痛っ……」
「我慢しなさい。男の子でしょ」
エスサラームの身体を拭う度に、白い布が赤く染まっていく。拭き終わる頃には、元の色が全く分からないほどに布は赤褐色に色を変えていた。
「よし。よく我慢したわね。偉い偉い。小さいのによく頑張ったわ」
「……小さくないもん」
カノーリアはエスサラームの頭を撫で、笑った。少女の真っ白な頬が紅潮しているのは、ここまで全速力で走ってきたからだろうか。彼女の明るい笑顔はまるでお日様のようだとエスサラームは思う。
「ねえ、カノーリアは魔法使い(ウィザード)なの?」
「そうよ」
少年の無垢な瞳には、紫眼への忌避は微塵も感じられなかった。また少女の紫色の瞳にもその色を卑下する光などありはしなかった。幼くそして真っ直ぐな視線が二つ、ぶつかる。
「僕の兄ちゃんも魔法使いなんだよ!! すごい力で悪者をやっつけちゃうんだ!! とってもかっこいいんだよ」
先ほど目の当りにした魔法を思い出したのか、エスサラームは興奮した面持ちで熱弁を振るった。大きな身振り手振りと共に誇らしげに兄を語る様子をカノーリアは微笑んで見ていたが、やがて真面目な顔をして尋ねた。
「ねえ、お兄さんのこと、好き?」
不意に真剣な眼差しを向けられたエスサラームは一瞬驚いた顔をし、そしてすぐに破顔した。
「大好きだよ」
それは一点の曇りも迷いもない、無邪気な笑顔だった。
「僕、兄ちゃんが大好きだよ」
「そう。お兄さんと仲が良いんだ、エスサラームは」
カノーリアも笑顔で頷いた。魔法使いだという彼の兄は、おそらく世の中の全てから忌まれている。自分と同じように。先ほど公開処刑されようとしていた女と同じように。
しかし目の前の少年にはそんなことは全く関係がないようだ。どれだけ兄を慕っているのか、その生き生きとした表情が全てを物語っている。
「あたしにも妹がいるのよ。エスサラームと同じくらいの年の妹」
「カノーリアも妹が好き?」
無邪気な笑顔でエスサラームは問うた。カノーリアも目を細める。
「ええ。大好きよ」
太陽は真上に昇り、湖面を眩しく照らしている。少年と少女はしばらく無言でそのきらめきを眺めていた。先ほどの喧騒が嘘のように、それは静かで長閑な風景だった。
「カノーリア、僕ね」
湖面を見つめたまま、エスサラームは呟くようにカノーリアの名を呼ぶと顔を上げ、そして真っ直ぐに彼女を見つめた。
「僕は絶対に強くなるんだ」
小さな手をきつく握り締めて、エスサラームは少し顔を顰めた。どうやら拳を握った拍子に傷が痛んだらしい。しかしすぐに真剣な表情に戻り、続けた。
「大きくなったら世界一強い剣士になって、僕が兄ちゃんを守るんだ。兄ちゃんは僕の面倒見るのにいっぱい大変だから、早く大人になって兄ちゃんを助けるんだ」
「そうね。立派な剣士になってお兄さんを助けて……それからそうねえ、好きな女の子が出来たらその子も守ってあげないとね。男の子なんだから」
幼い少年のいっぱしの決意にカノーリアは笑顔で頷いた。年下の男の子の小さな握り拳が、とても眩しく見えた。
「うん。今日はカノーリアに助けてもらったけど、今度は僕がカノーリアを助けられるように、頑張って強い剣士になるから」
照れくさそうに笑うエスサラームに、カノーリアは右の小指を差し出した。
「ええ、約束よ」
「うん、約束だよ」
エスサラームも左手の小指を差し出して、カノーリアの小指と絡ませた。
今は小さいこの少年の小指が大きな男の指になるのは、いつのことだろうか。そしてその時もこの少年は兄が好きだと笑顔で言えるだろうか。そうであって欲しい。エスサラームのこの想いだけは変わらないでいて欲しいと、カノーリアは祈った。
「そうだ。これ、あげるわ」
カノーリアは首から下げていたものを外した。緑色のガラス玉のような、真珠大の小さな丸い石だった。石には細い皮紐が取り付けられ、首に掛けられるように加工されている。
「綺麗でしょ。お守りよ」
「お守り? もらっていいの?」
「いいわよ。でも……そうね」
カノーリアは短くない間考えて、言った。
「いつかエスサラームが強くなって、お兄さんや恋人や……あたしを守れるくらい強くなったら、あたしにそれを返しに来てよ」
「うん、分かった。約束する」
エスサラームは手渡された緑色の石を首に掛け、頷いた。高く昇った陽光が胸元の小石に反射して、きらきらと眩しかった。
「……心配させるなって兄ちゃんに叱られて、俺はしばらくあの(リゴー)街には近づかなかった。結局それ以来、カノーリアには一度も会えていないんだ」
おそらく目立つ外見をしたカノーリアもリゴール城塞都市には近づかなかっただろう。大衆の面前で恥をかかされたとなれば、軍人は躍起になって彼女を探すはずだった。そして見つかればその大衆などは何の助けにもならないばかりか、自分を追い詰めるであろうことはカノーリア自身が一番良く分かっていたに違いない。
「でも俺はカノーリアに助けてもらったんだ。カノーリアが危険を顧みず飛び出してくれなかったら、俺は軍人に殴り殺されていた」
目を丸くして驚いているイジェリアに、エスサラームは襟元から取り出したものを見せた。
「それは──」
首に掛けられた皮ひもの先には、小ぶりの石が付いていた。朝の光を受けて緑色の石は小さく輝いた。イジェリアはその石に見覚えがあった。故郷の村で採れる鉱物で、その言い伝えを確かに聞いたことがある。身に着けていると願いが叶う、と。
「世界一の剣士にはなれていないし、兄ちゃんは守るどころか凄腕の呪士だし、そもそも俺には彼女もいないけど……。それでも剣の使い方は覚えたつもりだし、あの頃よりは強くなった」
あれ以来、小石はずっと胸に下げていた。弱気になりそうなとき、その光はいつでもエスサラームに勇気をくれた。強くなろうとすることは、容易なことではない。諦めたほうが早くて楽な局面など、生きていれば際限なく訪れる。それでもエスサラームが剣技を磨き強さを求めたのは、あの日彼女と交わした約束を守るためだと言っても良かった。兄を、カノーリアを、皆を守るために。力は破壊を齎しもする。しかし同時に、命を守るのもまた同じ力だ。弱ければ死ぬ。死ねば誰一人守れない。
「もう一度カノーリアに会って……ありがとうって言いたい」
「そんなことが、あったんですね……。ふふっ、姉さんらしいです」
イジェリアは小さく笑った。カノーリアが十歳の頃なら、故郷の村でまだ一緒に平和に暮らしていた。リゴール城塞都市でそんなことがあったなどと姉から聞いたことはなかったが、村はリゴールの領地に位置していた。そもそも村を蹂躙した軍隊もリゴールのものではなかったか。理不尽な殺戮を故郷へ施したあのリゴール軍隊ならばそのような横暴も不思議ではなく、エスサラームを守ったカノーリアという少女はおそらく間違いなく姉であろうとイジェリアは思った。エスサラームの回想の中のカノーリアは、姉のカノーリアと違和感なく合致する。
「そんな偶然があるんですね」
「……あのさ」
エスサラームは少しの間逡巡していたがやがて顔を上げて、イジェリアに向かい合った。
「君がカノーリアを探して旅を続けるなら……一緒にアウストモーレ城塞都市へ行かないか」
思い切って口を開いたものの、迷惑な申し出だとは分かっていた。彼女は自分を信用しきれていない。それは分かっていた。昨日会ったばかりの男と旅をするなど、彼女の本意であるはずがない。怖がらせるだけかもしれない。──それでも。
「女の子の一人旅は物騒だからさ。カノーリアに会えるまで、少なくとも昨日みたいな目には合わせないから」
カノーリアに会いたい。もう一度会ってあの時の礼を言いたい。それはエスサラームの偽りない気持ちだった。そして、目の前の少女に降り注ぐ理不尽な恐怖の盾になりたいというのもまた、間違いない彼の本心だった。放っておくには、彼女はあまりにも儚い。
言い出せなかった半分の気持ちを、残り半分の気持ちが後押しをした。カノーリアを探し出したい、この気持ちは本音であると同時に大義名分となった。兄を、カノーリアを守れる男になると約束をしたのなら、彼女の妹を危険な目に遭わせるわけにはいかないという大義名分へと。
──好きな女の子が出来たらその子も守ってあげないとね。男の子なんだから。
耳朶にカノーリアの言葉が蘇る。好きだとか恩人の妹だとか、そんなことは関係ない。
「……男だからな」
エスサラームは小さく独りごちた。大義名分は当の本人も気付かないほど自然に、感情に理由を与える。
「でも、わたしが一緒にいたら……エスサラームにも迷惑がかかります。現に昨日の宿屋のご主人だって」
露骨な嫌悪感を顔に表した宿主の表情を思い出す。自分と一緒にいればあんなことは日常茶飯事だと、イジェリアの表情が告げている。
「わたしがカノーリア姉さんの妹だからって気を遣ってくださっているなら──」
「俺が君を放っておけない、じゃ信じてもらえないかな。もちろん俺もカノーリアに会いたいっていうのもあるんだけど」
言葉でイジェリアを安心させることなど不可能だと、エスサラームには分かっていた。他意などないことは、行動や過ごす時間で分かってもらうしかない。気詰まりな思いをさせるかもしれない代わりに、危険からは絶対に守る。エスサラームは内心で決意を固める。
「正体不明の男にこんなこと言われても迷惑だとは思うんだけど……」
「迷惑だなんて、そんなことあるはずありません。でも、わたしは絶対にエスサラームさんにご迷惑を……」
「イジェリアが嫌じゃなければ一緒に行こう。やっぱりどうしても俺が信用出来なければ、ナーゴまででもいい。どうせアウストモーレへ行くなら通り道なんだから」
イジェリアは少しの間俯き考えているようだったが、やがて顔を上げた。
「ありがとうございます。もしやっぱりご迷惑であればナーゴまででも……いえ、途中まででも構いません。ご一緒させていただけますか。あの……きっとご迷惑かけてしまうので……ごめんなさい」
「こちらこそ無理言ってごめんね。ありがとう」
エスサラームはほっとした表情で笑った。朴訥な、あどけないとすら言えるその笑顔に、イジェリアは目を細めた。
「絶対カノーリアには会えるよ。だってカノーリア言ってた。妹が大好きって。だからカノーリアもイジェリアのこと探してると思うんだ」
不意に胸を衝かれたような表情をイジェリアは一瞬、した。
「エスサラームさん、本当に……本当に」
そして、少しだけ震える声で言った。
「本当に、ありがとうございます……」
吹き付ける晩秋の風は冷たかった。なのに、木々の葉を揺らして走り去るその風はほんの少しだけ温かいような気がした。降り注ぐ陽の光が目に眩しくて、少しだけ目の端に涙が滲んだ。それを隠すように、イジェリアは深く頭を下げた。
キルヴィスの街を出てからというもの、ひたすらに一本道が続いていた。舗装もされていない赤茶けた土の道の左右には鬱蒼とした背の高い木々が生い茂っているため、昼間だというのにぼんやりと薄暗い。不吉な声で鳴く鳥が、時折ばさばさと羽ばたいていた。
道は左右に大きく蛇行しながら、ゆるやかな登り坂を形成していた。アウストモーレ城塞都市を中心とした西部地区は山に囲まれており、この山道がそこへ辿り着く唯一の通り道となる。
エスサラームは申し訳なさそうに隣を歩くイジェリアの姿に、一緒に来て良かったと痛感していた。こんな薄暗い山道を女の子一人で歩かせるわけにはいかない。唯一の通り道である故に、追剥や強盗の類も少なくないはずだ。今のところは遭遇していないものの、一本道で前後から挟まれたら逃げ場もない。
「イジェリア」
「えっ、あ、はいっ」
名前を呼ぶと、隣を歩く少女はびくりとエスサラームの方を振り返った。ひどく驚かせてしまったようだ。エスサラームは困った顔で笑う。
「そんなに緊張しないでよ。取って食ったりしないから」
「そういうわけじゃ……あの、気を悪くされたのなら謝りま──」
「そんなに気を遣ったりもしないの。別に敬語じゃなくて普通に喋ってくれればいいよ。年もそんな変わらないだろ? 実はすっごく若いとか? あ、女性に年齢を聞くのは失礼なんだっけ……ごめんなさい」
大真面目な頭を下げるエスサラームに、イジェリアは小さく笑った。
「十九になります」
「じゃあやっぱり同じくらいだよ。俺二十歳だもん」
一つしか違わない年齢差に親近感を感じたらしく、エスサラームは嬉しそうに笑った。その笑顔は年齢の割にはあどけなく、それでいてどこか年齢以上の包容力があるようにイジェリアの目には映った。不思議な男だと思う。
「エスサラームさんのお兄様は? 年齢は離れていらっしゃるんですか?」
「兄ちゃん? うん、七つ年上。俺が物心ついた時には両親はいなかったから、兄ちゃんが親代わり。七歳の子供が俺の面倒見て……苦労かけたんだ」
エスサラームにとって家族と呼べるのは兄だけだった。かつて一度だけ、自分達に両親はいないのかと問うたとき、兄はひどく悲しそうな顔をしたことを覚えている。「……いないんだよ、そんなものは」という短い答えでは自分達を捨てたのかそれとも死んだのか、それすら分からない。しかしそれ以来兄に両親のことを尋ねたことはなく、またエスサラームにとって兄は親と同義でもあった。兄が悲しい顔をするなら、見も知らぬ両親のことなどどうでもよかったのだ。
「兄ちゃんは子供の頃から神殿で働いて俺を育ててくれたんだ」
「えっ……神殿って……だってお兄様は魔法使い(ド)なんですよね」
目を丸くしたイジェリアが驚きのあまり足を止めた。魔法と魔物をこの世から放逐した女神マリシラを奉る神殿にとって、魔法使いは悪の象徴なのだ。その神殿で働くなど、イジェリアには信じられなかった。紫眼は悪魔か何かと同義だと思っている神官ばかりだ。氷のように冷たい目を向ける神官達は、イジェリアにとっては恐ろしいものでしかない。
「うん。だから相当汚い仕事させられてたみたいだよ。兄ちゃんは何も言わないけどね」
淡々と語るエスサラームの声が、ほんの少し翳りを帯びた。数歩先で足を止め振り返った彼はしかし、穏やかな微笑を浮かべていた。
「だから、少しでも兄ちゃんの助けになりたくて、俺は剣を持ったんだ」
発端はおそらく強くなれば役に立てるといった幼い思考だったのだろう。しかし背中に負った使い込まれた長剣は、ここに至るまでのエスサラームの鍛錬を容易に想像させた。
「まあ、まだまだだけどね」
照れくさそうに背を向け、再び前に歩き出したエスサラームをイジェリアが慌てて追う。この先のナーゴの村にいるというエスサラームの兄はどんな男なのだろう。神殿で働く魔法使いという存在を想像出来ない。エスサラームの兄なのだから、優しい目をした男なのだろうか。
「あっ」
考え込んでいたイジェリアは、ふと大事なことに思い至った。
「あの。わたし、何も考えずにご一緒させていただいていましたけど、ナーゴでお兄様と合流されるんですよね。ご一緒していても構わないんでしょうか」
「行先も決まってないはぐれ旅だから、アウストモーレに行くって言っても文句は言わないと思うよ」
「ええと……わたしが一緒でご迷惑では」
「……いや、むしろ君に迷惑をかける方が確実かな。うちの兄ちゃんは突拍子ないから」
エスサラームは兄を脳裏に思い描き、苦笑した。女の子を連れて再会などしたら、何を言われるか分かったものではない。弟で遊ぶのが趣味のような男だ。からかわれるのは間違いない。
「まあ、会ってみて嫌だったらその時は遠慮なく言って。……ナーゴまではあと少しだ。休憩なしで大丈夫?」
苦笑しながら、自分より歩幅の小さいイジェリアを振り返る。そして──エスサラームは不意に何者かの気配を感じた。
「──」
背負った剣の柄に手を伸ばし、エスサラームは辺りを見回した。気配──否、むしろそれは殺気であった。刺すような悪意であり射るような敵意。どこだ。視線の主はどこにいる。
「エスサラームさん?」
不安げに自分を見つめるイジェリアを左手で庇うようにしながら、エスサラームは注意深く周囲に目を配った。生い茂る木々の間を縫うように、視線を巡らせる。小動物の類すら見えない森の中で、しかし確実に何かがこちらを見ている。それは、よくある怪談話の「見られているような気がした」などという類の気配ではない。人間あるいは獣、確実に生きたものの強い害意が辺りには満ち満ちていた。
一陣強い風が吹き、木々を揺らしざわざわと音を立てた。黄土色に朽ちかけ乾いた葉が舞う。生い茂った木々の間から今にも何者かが牙を剥いて飛び出して来そうなほどにその殺気は膨らみ、そして──次の一瞬、ふっと気配が消散した。
「……え?」
先ほどまで辺りに溢れかえっていた憎悪と、それを凝縮したような強い視線。それらが不意に消えた。拍子抜けしたエスサラームはひどく間抜けな声を上げた。張り詰めた緊張の糸が一気に解れる。
「消えた……」
飛び立った鳥の羽音と梢が鳴らす音が時折聞こえるばかりで、山は静まり返っている。どれほど意識を向けても、辺りにはもはや何の気配も見つけられなかった。あれほどの敵意を剥き出しにしておきながら姿を現わすでもなく襲いかかって来るでもなく、それはすっかり消えてしまっていた。
「──」
消えてしまってもはっきりと分かる。あれは腹を減らした獣が獲物を狙う視線や近づく者を警戒する無差別な他意ではない。それは個人に対する──エスサラームという個に対する揺るぎ無い憎悪だった。己に向けられたものだと、エスサラームは確信していた。否──知っていた。
(……恨まれる理由なら分かっている。何故なら俺は)
「エスサラームさん、大丈夫ですか? 顔色が」
心配そうな声で問うイジェリアに顔を覗き込まれ、エスサラームは我に返った。冬になろうとする山間部の気温は低いのに、頬を一筋の汗が伝っていた。
「大丈夫、何か気配がしたけど消えたみたい。動物か何かだったのかな」
笑ってみようとしたが、あまり上手くはいかなかった。ぎこちない表情をしているに違いないことは、イジェリアの顔を見ればすぐに分かった。不安と心配が綯い交ぜになった目でエスサラームを見つめている。
「ごめん、本当に何でもないよ。さあ行こう。あと少しだ」
無理に笑うことを諦め、その代わりに顔を見られないように少しだけ早足でエスサラームは歩き始めた。イジェリアが付いて来られる程度に、そして隣に並べない程度の速度で道程を行く。心配させたくなかった。そして、おそらくしているであろう情けない顔を見られたくなかった。
もう、どうしようもないのだ。
あれが、自分を殺したいほど憎んでいる者の視線だったとしても。
(どれだけ恨まれても、俺は殺されるわけにはいかないんだ。……今はまだ)
ざわめく木々の間を二人は無言で歩いていった。日は真上に昇ろうとしていたが、両側から生い茂る木の枝葉がその強い光を遮っている。薄暗い山道に斑に降り注ぐ弱々しい光が、かえって周りの陰を色濃く浮き彫りにしていた。
ナーゴの村に辿り着いたのはキルヴィスを出てから数刻後の、太陽が最高高度から少し傾きかけた頃のことだった。山中の村であり辺りは木々に囲まれているが、村の中まで木が生い茂っているわけではなく、ここまでの道中のように薄暗くはなかった。
「思ったより規模のある村なんだね」
辺りを見回したエスサラームは率直な感想を口にした。山中の小さな村だと聞いていたため鄙びた牧歌的な集落を想像していたが、村の中心を貫く大通りの両脇に立ち並ぶ家々は石造りの大きなものが多く、また辺りを行き交う人の数もそれなりに多い。過疎化が進んだ山村だとばかり思っていたエスサラームは、想像以上に栄えているナーゴの村を興味深げに眺めた。
「わたしも、もっと小さくてひっそりした村だと思っていました」
「だよね。それとも何かお祭りでもあるのかな」
村は賑やかというよりどことなく騒がしい印象だった、キルヴィスからの山道ではほとんど誰ともすれ違わなかったが、西部地区からの旅人が多いのだろうか。このナーゴの村の様子は客人が多いときの雰囲気にどこか似ている。
「──!!」
隣でイジェリアが小さく息を飲んだ。エスサラームがその視線の先を追うと、そこには酒場と思われる建物から出てくる一塊の集団があった。身に着けているものから、その集団は軍人だと分かる。おそらく、アウストモーレ軍隊だろう。
「ああ、だから騒がしかったんだ。何しに来てるか知らないけど、随分沢山いるし」
眉を顰めたエスサラームが集団から目を逸らした。幼い頃にリゴール城塞配下の軍人に袋叩きにされてからというもの、エスサラームはあまり軍人に良い印象を持てなかった。全部が全部だとはもちろん思わないが、横暴で粗野な人種だという思いが拭えない。
エスサラームのそのイメージにほぼ重なる大きな笑い声とともに集団はゆっくりと近づいてくる。仲間内で何やら楽しげに喚き合っており、こちらを気に留めている様子はない。声が大きいのは軍人の仕様なのか、エスサラームらが立つ位置とは一定以上の距離があるにも係わらず彼らの声はとてもよく聞こえた。
「それでよぉ、ムカつくからその紫色した目ン玉を潰してやったのよ! そのままヤったけどやっぱ気持ち悪かったわ」
「おいおいゲテモノ食いだなぁ、ぎゃはははは」
「そういえばよ、この辺の森にヘルが出るとか言わねえ? 地獄の女王ってくらいだから女だろ」
「半身腐った女なんて無理だろ、いくらなんでも」
「目が紫色ってのも十二分に気持ち悪いぜ。化け物は化け物らしく地の底で這いずってろやっていう」
「まあ、行き会ったらぶっ殺してやればいいだろ」
ある種の人間にとって、侮蔑は時として愉悦である。唾を飛ばしながら楽しそうに紡ぐ物語は他者への嘲りと血生臭さに塗れていた。彼らの中では地獄に住む魔物と紫眼の人間は等価だ。怪談話や下衆な艶話の種であり、娯楽の種でしかないという点において。
無意識のうちに唇を噛んでいたことに気づき、エスサラームは口を結んだ。色んな人間がいるのは百も承知だが笑える会話ではない。横暴で粗野なばかりか下劣で低級だという印象が上書きされる。
「……」
無言で俯いたイジェリアがエスサラームの陰に隠れるように後ろに回った。目を伏せた彼女の表情は分からなかったが、流れた髪が掛かる細い肩は更に小さく見える。エスサラームは手近な細い路地を指さし「こっちから行こう」と小声で囁いた。
「……はい」
建物の間をすり抜けるように細道が続いている。さすがに人通りは少ないのか、目に入る範囲には誰の姿もなかった。建物の陰になって薄暗い道を、二人は早足で歩いた。
「エスサラームさん」
小さく、そして硬い声で背後から呼びかけられエスサラームは振り返った。ひどく真剣な表情をしたイジェリアは少しの間何かを言い淀み、そして決心したように口を開いた。
「やっぱりわたしと一緒にいたらご迷惑がかかります。あの人達は魔法使い(ド)と見れば剣を抜きます」
あの人達、が何を指すのかはすぐに分かった。軍人というものは魔法使いがいれば武力行使する──その根拠がイジェリアの経験に基づくものであろうことは容易に推測が出来、華奢な少女が抱えるその事実が痛々しかった。
「いいの。俺もあの人達が嫌いだ」
「でも」
「ここにいる間は俺から離れないで。あっちが抜刀してきたら俺もやる」
首を捻り自身が背負った剣を一瞥して、エスサラームは唇の端を上げた。好戦的な性格では決してないエスサラームだが、降りかかる火の粉を払うことに迷いはない。相手が戦闘のプロであれば尚更、一瞬の躊躇いは死に直結する。
それに今躊躇すれば、危ないのは自分の命だけではない。
「心配しないで。君には怪我一つさせないから」
我ながら気障な台詞だと、口にしてから気が付いた。気付いた瞬間恥ずかしくなり、頭に血が昇ったのが分かった。イジェリアの頬もほんのり上気しているのは気のせいだろうか。気のせいであって欲しいと思いながら、エスサラームは頭を振った。
「……行こう。アウストモーレに向かう前に、兄ちゃんを見つけるからちょっと付き合ってね」
照れているせいか、どうも早口になってしまった。生まれたときから男所帯、女の子の扱いには慣れていない。格好付けの軟派な奴だと思われていないだろうかと不安になり、イジェリアをちらりと見ると──やはり白磁の頬がほんの少し赤いのは気のせいではない、ような気がした。
「あ……あの、えっと、その前に昼飯にしよう。その辺の店でいい? あー、お腹空いたなー」
白々しく口笛など吹き再び歩き出したエスサラームの後を、イジェリアが慌てて追う。昼下がりの路地裏の道は喧騒が少しだけ遠く、冬になりかけた冷たいながら柔らかい陽光が降り注ぐ。地面で丸くなっていた黒い猫が、目の前を通り過ぎていく褐色肌に黒髪黒目の剣士と、それをぱたぱたと追いかける全体的に色素の薄い少女を一瞥し、興味なさそうにふにゃあと大きく欠伸をした。
日はまだ、高いところにあった。
手近にあった店に入ると、幸いなことに軍服姿は見当たらなかった。全体的に仄暗く、あまり繁盛はしていないような店であったが、もしかしたら夜間の酒場としての営業が主体なのかもしれない。よく見れば、奥にあるカウンターの向こう側には酒瓶や酒樽が所狭しと並べられている。
無愛想な主人に声をかけ何か食べられるのか尋ねると、簡単なものならという簡素かつ愛想のない回答が飛んできた。エスサラームはその簡単なものなるものを注文し、窓際のテーブルを陣取った。木製の簡素な椅子の座り心地は正直言って良いものではなかったが、大きな窓から外光が差し込むこの席は、店内で唯一の明るい場所と言えた。
テーブルを破産で向かい側に腰を下ろしたイジェリアはあまりこのような場所に来ることはないのだろう、所在なさげに目を伏せていた。魔法使い(ド)出入り禁止などという明文はなくとも、宿屋でも酒場でも彼らを歓迎などしないのは不文律であった。
キルヴィスの宿主から投げられた視線と言葉を思い出し、イジェリアはきゅっと唇を結んだ。自分達の他にも数組の客がいる。幸いと言うべきか、他の客も主人もこちらの様子を窺う者はなかったが、もし自分のせいで騒ぎが起きればまたエスサラームにも迷惑がかかるのだ。
「あの…」
本日何度目かの台詞──自分と一緒にいないほうがいい、と言いかけてイジェリアは顔を上げ、そして口を噤んだ。視線の先では、エスサラームが自分を真っ直ぐ見つめていた。優しげな色を湛えた黒い瞳が眩しそうに眇められる。
「お腹空いたね」
──何も言えなくなってしまった。
故郷の村がなくなってから、姉を探してあちこちを放浪してきた。その先々には老若男女を問わず多くの人がいた。あれほど沢山の人がいたのに、こんな風に穏やかな声が返ってきたことなど一度だってあっただろうか。そもそも誰かとまともに会話をすること自体あまりなかった。先々で見かけた同じ色の目をした人に姉の手がかりを聞いては、怯えたような目で知らないと答えられる──その繰り返しだった。
今になって思う。きっと自分も同じような目で彼らを見ていたのだろう。そして今も、そんな目でエスサラームを見ているのだ。きっと。
「今日はこの村のどっかにいるはずの兄ちゃんを見つけるのに付き合ってもらうから、お礼にここはご馳走するよ。……簡単なもの、しかないそうだけど」
エスサラームはちらりとカウンターを一瞥し、後半は小さな声で囁いた。
昨晩助けてもらってからというもの、良くしてもらっている。普通の人間と同じように扱ってもらっている。それなのに、とイジェリアは思う。それなのに、自分はあんな目でエスサラームを見ているのか。エスサラームはそれに苛立ったりしないのだろうか。
「わたしの方こそ姉を探すのに付き合っていただくのに」
「俺が一緒に行きたいって言ったの。無理言ってるのはこっち」
店の奥から料理が運ばれてきた。野菜を挟んだパンが数切れ皿の上に載っている。皿と一緒にテーブルに並べられた二つの木製の椀の中のスープはほかほかと湯気を上げていた。無愛想な主人は特に愛想を並べ立てることも二人の素性を気にする素振りもなく、皿と椀を置くとすぐにカウンターの後ろへ引っ込んでいった。
「あったかいうちに食べようよ。いただきまーす」
店主が踵を返すとほぼ同じくして、エスサラームはパンの一切れを頬張った。
「いただきます」
合わせた手を皿に伸ばしかけ、イジェリアは一瞬躊躇った。同じ皿に手を伸ばしていいものなのか否か。家族──思えば姉以外の誰かと食事を摂る機会など、無かった気がする。家族でも長い付き合いの友人ですらない者が同じ皿に手を伸ばすなど、嫌な気にならないだろうか。
「あ、もしかしてこれ嫌い? 違うの注文する?」
そう言われて初めて、躊躇することが失礼だと気が付いた。ご馳走してくれると言ってくれていたのに。経験の少なさはこういった側面で不意に顔を出す。親切にしてくれる人に不快な思いをさせたくない。でも正解が分からない。考えれば考えるほど思考が絡まっていく。
「いえ、そうじゃないんです。ごめんなさい、いただきます」
「……困ったなぁ」
椀をかき混ぜながらエスサラームが苦笑した。思わず肩をびくりと震わせイジェリアは顔を上げた。
「嫌いなら嫌い、嫌なら嫌って言っていいんだよ。付いて来ないでとか言ってもいい。俺、無理矢理付いてきてる自覚はあるんだから」
──やはり誤解されている。そうではないのに。どうしたら伝わるのか、どうやって伝えたらいいのか。どうしよう。どうしたらいいのだろう。途方に暮れながらイジェリアは必死に言葉を探した。
「違います、一緒に来てくださるの心強いです。誰かが一緒にいてくださるの、嬉しいです。でも、どうしたらいいのか分からなくて、わたし……」
「どうしたらも何も。別にどうもしなくていいよ」
ふっと息を吐いてエスサラームは笑った。
「ありがとう。嫌じゃないなら良かった」
エスサラームは心底ほっとしたような顔をした。その笑顔を見た瞬間、イジェリアは鼻の奥がツンとするのを感じた。怖い目に遭ったわけでもないのにどうして泣きそうになるのか、自分でも分からなかった。
気付かれたくなくて、椀を両手で抱え熱い中身を冷ますように息を吹きかけた。イジェリアの表情を隠すように、ふわりと湯気が立ち上る。温かい。その温かさにまた目の奥が熱くなる。どうして。
「おまえは鈍感だ、だから女の子にもモテないって兄ちゃんにもよくどつかれるんだよ、俺。迷惑だったら言ってね、本当に。俺多分気付けないから」
椀を抱えたままイジェリアはふるふると頭を振った。そんなことを言いながら、何度も気にかけてくれている。昨晩から丸一日も経っていないこの短い間、何度も何度も。
「エスサラームさん」
こんなときどうしたらいいのか、やはり分からない。自分自身ですら正確に把握出来ていないこの感情は、どういう名前を付けてどう表現すれば伝わるのかも分からない。けれど、今の気持ちを一言で表し彼に伝えるとするならば、選択肢はひとつしかないと思った。
「──ありがとう、ございます……」
「こちらこそ。気ばっかり遣わせてごめんね。一緒に来てくれてありがとう」
温かく立ち上る湯気の向こう側のエスサラームの姿がほんの少しぼやけて見えた。両手で抱えた椀から掌に伝わる温度が、愛おしいほど温かいと思う。
窓から射す光は柔らかくテーブルを照らしている。冬に差し掛かる直前の外気は冷たいけれど、ガラスを透過して室内に降り注ぐ光は暖かい。寒くないということは幸せなことだと思いながら、イジェリアは窓の外を眺めた。ガラスと木枠で切り取られた外界は、どこか違う世界のようにも見えた。
街の外れに近く大通りに面していないせいだろう、人通りは少ない。店の前の道沿いには背の低い塀のように灌木が連続して植えられている。何という種類の植物なのか、この季節には相応しくないほど青々と茂っていた。
「……美味しい」
手に取ったパンを齧ると、小麦の甘さと野菜のほろ苦さが口腔内で重なり合った。少しパサパサと乾燥していたが、それでも人の手が加えられた食べ物は美味しいとイジェリアは思った。次いで椀に口を付けると、とろりとした透明な琥珀色の液体を喉に流し込む。塩気のある温かさが身体に広がっていくような気がした。温かい。美味しい。
ふと、窓の外を見た。射し込む光は相変わらず円やかに暖かいが、時折窓枠を揺する風はきっと冷たい。その冷たい風に吹かれて灌木がさわさわと揺れた。黒猫が尻尾を立てて走り去っていく。その後ろを誰かが足早に歩いていく。
「──」
窓の外を歩いて行ったのは若い女だった。
ふわふわとカールした肩までの長さの髪は白に近い金色で、陽光を浴びてきらきらと輝いている。羽織った長いローブが風で捲れると、短いスカートからすらりと伸びた白い脚が見えた。髪も肌も服装も、全体的に白っぽい印象だが二つの色が女を彩っている。額に巻かれた黒い布、そして前だけを見ている紫色の大きな眼。あれは──
「──!!」
がたん、と大きな音を立ててイジェリアが立ち上がった。店内の客が迷惑そうにこちらを見たのは分かったが、そんなことはどうでも良かった。窓の向こうの女は振り返ることもなく歩みを進めどんどん遠ざかっていく。
待って。追いかけなきゃ。
追いかけなきゃ、また、いなくなってしまう。
「イジェリア?」
エスサラームの声は、聞こえなかった。外へ飛び出して行こうと身体が反転した瞬間、手首を掴まれて気付いた。エスサラームが心配そうに見ている。
「落ち着いて、一体どうし──」
「追いかけなきゃ、早く、姉さんが、いなくなっちゃう……っ」
言いたいことは一つなのに、文章が上手く組み立てられない。それでも切れ切れに紡いだ言葉の意味はエスサラームに伝わったようだった。
「カノーリアが!? 追いかけて、早く、俺もすぐに行くから」
エスサラームの言葉を最後まで聞かなかった。イジェリアは店内のテーブルの間をすり抜け扉を潜った。最後に会ってからもう七年になるが、すぐに分かった。窓の外、目の前を通り過ぎて行った女はずっと探していた姉、カノーリアだった。間違いない。
(やっと──会える、やっと)
カノーリアが歩いて行った方向、村の外れに向かってイジェリアは走り出した。焦っているのか、足が上手く運べない。まろぶように駆けていくと、やがて女──カノーリアの後姿が見えた。
歩いているはずなのに彼女の足は速く、距離が近づいた時にはもうほとんど村の外にいると言っても過言ではなかった。道なりに続いていた灌木はいつの間にか鬱蒼とした木々に変わっている。そこはもう村というよりも森に近い道で、イジェリアは漸く追いついた彼女に声をかけた。
「姉さん、カノーリア姉さん……!!」
前を歩く女が足を止めた。かなりの早足で歩いていたように思うが、呼吸一つ乱していない様子でゆっくりと彼女は振り返った。耳に下げた大きな輪っか状のピアスが木漏れ日を反射してきらりと光り、イジェリアの眼を射た。気の強そうな、少し吊り気味の大きな目がそんなイジェリアを捉えた。二対の紫眼が対峙する。
女が口を開いた。紡ぎだされたのはしかし、低く抑えた冷たい声色だった。
「……誰」
「えっ……」
つい、と視線を逸らし女は再びイジェリアに背を向けた。綺麗な白金色の髪がふわりと揺れた。遠ざかろうとするその背中を、イジェリアは必死で呼び止める。行かないで、待って。行かないで。──置いて行かないで。
「姉さん、わたし、イジェリアです、妹の──」
「知らないわ。人違いでしょう」
取りつく島もなく、女は振り返らずに足を進めていく。人違いなどであるはずがない。顔も、声も、姿も、確かに七年前とは全てが少しずつ違っているけれど。それでも間違えるはずなどない。絶対に。
イジェリアは足元が崩れていくような錯覚に陥った。立っているのが精一杯で、身体の震えが止まらない。自分のことはもう忘れてしまったのだろうか。思考が混迷していく。数年ぶりに姿を現わすのも、関係を否定するのも、全てが唐突過ぎて何が何だか分からない。もしかしたら夢でも見ているのだろうか。昨晩見た夢がいつかの現実だったように、今見ている現実は夢か幻なのだろうか。
「待って姉さん、わたし……」
「──カノーリア!!」
割り込んだのは、背後から鋭く響いた男の声だった。女は足を止めない。イジェリアが振り返ると、背中の剣を騒がしく鳴らしながら走ってくるエスサラームの姿が目に入った。何故だかほんの少しだけ心細さが消えたような気がして、イジェリアはその名を呟いた。
「──エスサラームさん」
女が再び足を止め振り返った。眉間に皺を寄せた険しい顔で、睨めつけるようにしてイジェリアを、走り寄るエスサラームを見ている。真一文字に結んだ唇が何か言いたげに動いたが、紡ぎだされたのは結局、言葉ではなく小さな溜息が一つだった。
「カノーリア、俺のこと覚えてる? ずっと昔にリゴール城下であなたに助けてもらっ──」
「人違いだって言ってるでしょう!! 聞こえないの!?」
苛立ったようにエスサラームの言葉を遮り、女は再び背を向けた。長いローブがひらりとはためいた。
「姉さん!!」
「カノーリア!!」
重なった二つの声にも女は今度こそ振り返らなかった。履いた靴の少し高くて華奢な踵を鳴らしながら、村の外へ向かって足早に歩いていく。その背中がどんどん遠ざかっていくのをイジェリアは茫然と目に映していた。呼び止める言葉を探しているのに、思考は凍りついたように動かない。どうして。そんなフレーズばかりが頭の中をぐるぐる回っている。追いかけていきたいのに、冷たい拒絶にこれ以上前に進めない。どうして。どうして。
山村の周りは森になっていて鬱蒼とした木々がぐるりを囲んでいる。その木々がひどくざわめいているようにイジェリアには思えた。その間を縫うように女は山へ分け入っていく。纏った白いローブがひらひらとはためきながら密集した木々の間に溶け、やがて見えなくなった。
「カノーリア……姉さん……」
村と山の境界線の向こうへ消えていった女の虚像を瞼の裏に映しながら、イジェリアは姉の名をぽつりと呼んだ。その小さな声は風に溶けていき、答えはどこからも返ってはこなかった。
「……ごめんなさい」
女を追って走ってきた道をとぼとぼ引き返しながら、イジェリアは少し前を歩くエスサラームにようやく口を開いた。
「わたし、姉さんを見つけたと思って店から飛び出しちゃって、でも姉さんは違うって言うし、わたし間違えるはずなんてないのに、姉さんがいたから追いかけて……お金も払わずに飛び出して……ごめんなさい」
「そんなの謝ることないよ。付き合ってもらうお礼にご馳走するって言ったろ?」
混乱しているのだろう。前後の言葉が繋がっていない。無理もない、とエスサラームは嘆息する。やっと、七年間ずっと探してきた姉に会えたのに。きっと姉に再び見えることだけを拠り所にここまで来たのだろうに。
あの女性ががカノーリアだということはエスサラームにも分かった。だが、それを否定する理由も背景も分からない。今分かるのはイジェリアの途方に暮れた気持ちだけだ。
「……姉さんがあんな風に言うならきっと、何か事情があるんです。きっと」
顔を上げたイジェリアは泣きそうな顔をしながら、しかし笑っていた。
「だから、姉さんがわたしに会いたくないなら、もう……諦め」
くしゃ。
泣きそうな顔で笑おうとしているイジェリアが迷い子のようで、エスサラームは思わず手を伸ばし──行き場を見失ったその手は彼女の頭に着地してその柔らかい髪を撫でた。ほんの少しだけ潤んだ目が一瞬驚いたように見開かれる。
「何か事情があるってことはさ、カノーリアもイジェリアに会いたいけど会えないんだろ。事情が分かるまで何回でも会いに行こう。もしかしたら解消出来る事情かもしれないし、出来ないかもしれないけど諦めるのはそれからでも遅くないんだし」
無茶苦茶言っているという自覚はあった。それでも、苦し紛れに聞こえないようにエスサラームは明るい声色で続けた。
「あれは絶対にカノーリアで、人違いなんかじゃないだろ? 少なくとも生きていて、今現在この近くにはいるんだから。一歩は前進したと思わない?」
「……はい」
無理をしているようにはやはり見えるけれど、それでも先刻よりは自然な笑顔でイジェリアは頷いた。冷たい風が時折二人の間を通り抜けていく。後ろで束ねたエスサラームの長い黒髪を、イジェリアが羽織った薄灰色のローブを、風が撫でていった。
「生きていてくれたから……生きていてくれれば、絶対にまた会えます」
「うん、何度でも会いに行こうよ」
気付けば、昼食を取った店の前まで戻ってきていた。店の中からは外の様子が良く見えたのに、同じ窓の反対側から見る店内は薄暗くてよく分からなかった。中からは見えるのに外からは見えないものがあるように、外に発した言葉だけでは内で思うことは分からないこともある──とエスサラームは結論づけた。女──カノーリアが放った冷たい拒絶の裏側には何かがあるのかもしれないと。
「その前に、エスサラームさんのお兄様に会いに行かないと」
「え、ああ、うん。そういえば。ちょっとだけ付き合ってくれる? ごめんね」
言うが早いか、エスサラームはくるりと踵を返した。行って戻った道をまた歩き出す。
「え? どこへ?」
当然村のどこかにある宿屋か民家へ向かうものだと思っていたイジェリアは面食らった。この店から向こうにはほとんど建物がなかったように思う。エスサラームの兄は村の外にいるというのだろうか。
「もうちょっと先に廃屋みたいな小屋があったの見なかった? 廃屋とか空家とか、兄ちゃんはひとりで逗留するときは大概そんなとこを勝手に使ってるんだ」
「そんな小屋ありました? 全然気が付きませんでした」
「うん、ちょっと奥まってたけどそれらしい建物があるよ──ほら、あそこ」
店からさほど離れていない位置に、しかし木々に囲まれて分かりづらい場所に木組みの建物が確かに見えた。石造りの家が多いこの村においてはひどくみすぼらしく小さな木造の建物が、茂った緑の間に建っている。近づいていくと遠目で見る以上に老朽著しい、まさしく廃屋みたいな小屋、がそこにはあった。
「ごめんくださーい」
蜘蛛の巣が張った取っ手をそっと押し、エスサラームは小屋の中に声を掛けた。扉を少し開けるとその隙間からひどく薄暗い屋内が見える。小さな明り取りの窓があるものの、周りに生い茂った草木のせいで本来の目的は全く果たせていない。
「誰かいますかー?」
ぎいっと軋んだ音を立てて扉を開けた。誰もいない。小屋の中には少し傾いたテーブルが一つだけあり、椅子やその他の家具は見当たらない。テーブルの上には何も乗っておらず、人の生活の痕跡はない。テーブルの向こう側には扉が一つあり、少なくとも二部屋以上はあることだけが分かる。
「お邪魔しまーす」
エスサラームは扉を潜り室内へ入った。足を運ぶたびに床板が軋んだ悲鳴を上げる。腐ってこそいないようだが、躯体に相当ガタが来ている。
「床板が抜けると危ないから気を付けて」
おずおずと続いて入ってきたイジェリアを振り返ると、怖々足を進めていた。相当体重の軽そうな彼女をして軋む床の強度は一体どの程度保障され得るものなのか、エスサラームは自分の足元が今にも崩れていきそうな不安に駆られた。たとえ空家であろうとも他人の家の床を踏み抜いてはいけないと足元に注意しながら部屋の中央のテーブルまで辿り着いたその時、部屋の奥から木が軋む音が聞こえた。
「床に嵌ったら格好悪いから気を付けろよ。彼女にフラれるぞ」
エスサラームが顔を上げると、テーブルの向こうの扉が開いていた。そこには、背の高い褐色肌の男が満面の笑みで立っていた。
「兄ちゃん」
「えっ……お兄様?」
短く揃えた黒い髪と同じく黒い衣装を身に纏った男が、やはり床を軋ませながらテーブルを回り込みエスサラームの前へ歩いてきた。褐色の肌と黒髪、黒衣にも関わらずやけに明るい印象を与えるのは左右の耳にしつこいほど刺さっているピアスのせいか、それとも強い光を宿す紫眼のせいか。傾いだテーブルの上に腰を下ろし、男は笑顔で二人を見た。
「ようエスサラーム。首尾は上々か? 俺はついうっかり無報酬の仕事を見つけてしまって金にはならんことをしている」
「ちょ、無報酬の仕事ってなんだよ」
「っていうか人生の首尾は上々みたいだな。いやぁ一日ぶりに会うのにこんな可愛い子を連れてくるなんておまえもなかなか隅に置けないな」
「いや、だから──」
「どこで知り合ったの? いいねえ、可愛いねえ。義妹が出来るってのは悪くないね」
「いや──」
「兄のリヴァンです。不肖の弟だけど末永くよろしくしてやってね」
全く人の話を聞こうとしない。男──リヴァンはにこにこ笑いながらイジェリアに話しかける。
「あ、あの……」
「このエスサラームは俺の弟だけあって顔はまあまあそれなりだけど、鈍感で不器用で冴えない奴でねえ。まあでも気のいい男だから。ていうかむしろ気がいいだけが取り柄だから」
「えっと……」
「いやあ、可愛いねえ。昔からエスサラームは鈍くて阿呆で彼女なんか出来たことがないのに、いきなりこんな可愛い彼女を連れてくるなんて兄は嬉しいねえ」
「……」
「いやー良かった良かった。ところで君、何ちゃんって言うの?」
ほとんど一方的に喋りたいだけ喋ると、リヴァンはようやく言葉を止めた。この人がエスサラームの兄だというのは本当だろうかと心底訝しく思いながら、イジェリアは口を開いた。
「イジェリアと申します」
「兄ちゃん、ちょっとは人の話を」
「何? 二人の馴れ初めから今に至るまでの惚気話がしたいわけ?」
「そうじゃなくて、だから」
「じゃあ、おまえが如何に彼女に惚れてるかっていう話か? 面倒臭い男だなぁおまえ」
「だーかーらー……っ!!」
ひたすらおちょくられているエスサラームとその兄とを順繰りに見比べ、イジェリアは目を瞬かせた。肌と髪の色こそ似ているものの、風貌というのか雰囲気というのか、この兄弟は身に纏うものが何から何まで違って見える。背負った大きな剣に相応しくないほどに穏やかな気配を湛え、如何にも朴訥で優しい印象の弟。それに対し──ごく短く切り揃えツンツンと尖った黒髪から覗く耳には無数に光る銀色のピアス、腕や首回りにも沢山の飾り輪を着けて楽しげに口角を上げた兄はどちらかというと軟派な印象を与える。但し、その色こそ共通していないものの二人の眼に宿る強い、何物かに対する真っ直ぐな光は兄弟でとても良く似通っているように見えた。
「え? 恋人じゃない? またまた、そんな見え透いた嘘を吐いて兄は悲しいなぁ」
「だから、昨日会ったばっかりだって言ってるじゃないか! そんな風に決めつけたら彼女が迷惑に思うだろっ!!」
「だってどう見ても、この子おまえの好きそうな感じの子だし」
「……俺の好みなんか知らないだろ」
「エスサラームの分際で俺に隠し事が出来るとでも思ってるのか? 相変わらず底の浅い男だなおまえ」
良いように遊ばれているエスサラームは、イジェリアが短い道中で見たどの瞬間とも違って見えた。それを言葉で表すならば──絶対的な安心感。頭を掻いて苦笑するエスサラームの、兄リヴァンに対する揺るぎない信頼が作る笑顔には迷いも屈託もない。この一日イジェリアに向けていてくれた優しい大人の笑顔に対して、安心した子供の笑顔にそれはとても良く似ていた。
「……」
不意にエスサラームとリヴァンの姿が滲んで見えたことにイジェリアは気付いたが、その時には遅かった。鼻の奥がツンと痛んだと思った時にはもう、ぼろぼろと大粒の涙が溢れだしていた。
「……っ」
意思に反してとめどなく湧き出てくる涙は枯れる気配を見せない。鼻腔が、眼窩が、痛い。
「イジェリア!?」
ひどく慌てた顔でエスサラームが振り返った。イジェリアの方に一歩踏み出すと、足元の床板が激しい音を立てた。
「イジェリア、どうし──」
言いかけた言葉はそこで止まった。リヴァンに思いっきり後頭部を叩かれたからだ。勢いで踏鞴を踏めば、床がまたしても大きな悲鳴を上げた。
「おまえ、悪さしたな」
「しないよ!! 兄ちゃんがアホなことばっかり言うから気を悪くして」
「違います、違うんです」
こみ上げるものが邪魔をして上手く喋れない。イジェリアは涙を拭いながら必死に言葉を続けた。
「違います、わたし……お二人を見てたら、姉さんを」
姉さん。口にすれば尚更苦しくなった。やっと会えたのに。ここまで辿り着いたのに。
「カノーリア姉さんと一緒にいたときのこと、思い出してしまって……っ」
──誰? 知らないわ。人違いでしょう。
耳朶に蘇る言葉はひどく冷たく、氷の塊が喉の奥に詰まってしまったかのように息苦しくなる。単に忘れてしまったのか。それともカノーリアにとって自分は忘れたいことだったのか。イジェリアの肩が小さく震えた。
「どうして……」
ずっと我慢してきたものが、堰を切ったように流れ出していく。もう自分ではどうすることも出来なかった。次から次へと涙となって溢れ出てくる。
「……カノーリアはイジェリアの生き別れの姉ちゃんで、俺の恩人でもあって──昔、リゴールで軍人に殺されかけた時に助けてくれたのがイジェリアの姉ちゃんだったんだよ。それでさっき再会し」
エスサラームの台詞がまたしても途切れた。今度は後ろで束ねた髪をリヴァンが思いっきり引っ張ったからだ。「……痛い」、涙目になりながら抗議の目を向けると、リヴァンは眉間に皺を作りエスサラームを睨んでいた。
「だからおまえは馬鹿で阿呆で鈍感なんだ。我が弟ながら愚かしい。だからモテないんだ。今必要なのは俺への状況説明か? 違うだろ」
ごく小さな声で弟を容赦なく罵倒すると、リヴァンは力を込めてエスサラームの背中を押した。俯いて泣いているイジェリアの真正面に押し出された格好となったエスサラームは咄嗟に、目の前で震える華奢な肩にそっと手を掛けた。思っていたよりもずっと細く柔らかいその感触に、エスサラームは動揺した。
「あ、あの……」
言葉が続かない。
何といってやればイジェリアの気持ちが軽くなるのか。見当も付かなかった。ここに兄がいる。弟であるエスサラームに軽口まで叩いている。イジェリアの姉はここにはいない。そして、妹の存在すら認めないでいる。自分に何が言えるというのか。何を言っても傷つけてしまいそうな気がする。そもそもこの状況下で兄に会うのにイジェリアを同席させたこと自体が無神経だったのではないか。悪気などもちろん無かったとは言え、エスサラームは自己嫌悪を覚えた。全く兄の言う通り、馬鹿で阿呆で鈍感だと思う。
「ごめん、俺」
そこで言葉が途切れた。言葉どころか、心臓すら一瞬止まったかもしれない。
イジェリアが両手でエスサラームの服の胸元を握り締め、嗚咽を漏らしながらエスサラームの胸に顔を埋めたのだった。抱きつかれる格好となり、彼女の肩に置いていた両の手が宙に浮く。
「エスサラームさん、わたし、わたし……っ」
エスサラームの眼下すぐに、ふわふわとした銀髪が小刻みに揺れていた。どこか甘やかな匂いが鼻腔を擽る。細い指で握り締められた服の布地が時折強く引き攣れるのが、途方に暮れるほど切ない。
「……」
エスサラームはそっとイジェリアの背中に手を回した。目で見る以上にずっと華奢な身体は今にも折れてしまいそうで、エスサラームは壊れ物を扱うようにイジェリアの頭を優しく撫でた。
泣かないで、とは言えなかった。元気を出してとも言えなかった。何かを言うことも、強く抱き締めることも出来なかった。ただ、腕の中で泣きじゃくるイジェリアをエスサラームはそっと抱き留めていた。
「……じゃあ、俺はちょっと無償の(テ)仕事してくるから留守番よろしく」
「え……ええっ? 兄ちゃん!?」
イジェリアを腕の中に収めたままエスサラームが振り返ると、リヴァンはとうにテーブルから立ち上がり入り口へ移動していた。紫色の眼を細めて嬉しそうに笑っている。
「リヴァンさん、ごめんなさい、わたし取り乱して──」
「兄ちゃんちょっと待てよ、俺──」
顔を上げたイジェリアと首だけ振り向いたエスサラームにひらひらと手を振って見せ。リヴァンは軋んだ音を立てて入り口の扉を開け放った。
「無報酬なんだけどさ、ちょっと仕掛かりの仕事があってな。ちょっとだけ手間取ってるだけだから、鈍感馬鹿の助けは必要ない。天才呪士様の心配なんぞ要らんからな。まあちょっと待っててくれ。それじゃあまた後でねー」
止める間もなく、リヴァンはウインク一つを投げると扉の向こうへと軽やかに消えて行った。軋んだ音と共に閉められた扉の向こうから聞こえる、草を踏むがさがさという音が遠ざかった後は、さっきまでここにリヴァンがいたのが嘘のように小屋の中は静まり返っていた。村の外れにあるせいか、外界の音も聞こえない。
生い茂る葉に遮られながらも小さな明り取り用の窓から射しこむ弱々しい光だけが、うっすらと小屋の内部を照らし出していた。




