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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

神より先に勘定を出せ!

作者: 春風
掲載日:2026/01/12

 雨は嫌いじゃない。

 この街では雨が降ると、匂いが混ざってくれるからだ。


 糞尿と馬糞、濡れた羊毛、煤けた煙、酸っぱい酒、古い血。晴れた日はそれぞれが自己主張して鼻を刺すが、雨の日は全部が同じ重さでまとわりつく。どれか一つを選んで嫌がる必要がない。私はそういう日が好きだった。好きと言っても、気分が少しだけ楽になる程度の話だ。


 宿屋兼酒場の床を拭きながら、私は桶の水を替えた。濁った水が石畳の隙間に流れ落ちる。入口の戸がきしみ、客が入ってくる音がした。濡れた靴の音、馬の世話をする小僧の罵声、誰かの笑い声。いつもの昼だ。中途半端な酔っぱらいが、酔っているふりをして居場所を作る時間帯。


 私はここで雇われている。

 孤児だが拾われたわけじゃない。情けで置かれているわけでもない。役に立つから雇われている。それだけだ。


 雇われの身は軽い、と言う人もいる。どこが、と私は思う。軽いのは、死んだ時に泣く人が少ないことだけだ。給金は少なく、失くなっても誰も困らない。困るのは私だけだが、困ったところで世界は何も変わらない。


 だから私は金が好きだった。

 好きというより、信用している。


 金は裏切らない。今日の金が明日には石ころに変わることはない。人間は簡単に変わる。昨日笑っていた奴が、今日は平気な顔であなたを売る。金だけが売られない。売るのはいつも人間だ。


 女主人は帳場に座っていた。背筋が伸び、手が乾いている。金を数える手だ。目つきが鋭いのに、声は低く穏やかで、酒場の騒ぎを一枚の布みたいに押さえ込む。客は彼女に逆らわない。逆らうと損をすると知っているからだ。私も同じだ。


 女主人は私を客に出さない。

 裏の部屋はある。金を払えば女と寝られる部屋だ。私は雇われだから、掃除も湯の用意も後始末もする。血も吐瀉物も精液も、私が片づける。仕事だ。仕事だから、嫌だと思っても手は動く。だが、私はその部屋の「商品」にはならない。


 理由を聞いても、女主人は言わない。

 言わないから、余計に腹が立つ。


 私は美人だと自覚している。鏡がなくても分かる。人の目が教えてくる。だが女主人は私の顔を平凡に作る。そばかすを足し、唇の色を消し、目の下を少し暗くする。髪もまとめさせる。光の当たり方まで指示する。客の目に残らない女を作るのがうまい。


 金が欲しい。

 自由が欲しい。

 そのためなら客を取るのも構わない。


 私はそう思っているのに、女主人は止める。理由も言わずに止める。止められるほど、余計に金が欲しくなる。逃げたくなる。逃げるには金だ。どこへ行くかは決めていない。決める必要もない。決めたところで、金がなければただの夢だ。


 戸口の方で、いつもより上等な靴音がした。石畳の上で迷わない歩き方。泥を嫌がらない歩き方。金のある人間の足だ。私は顔を上げずに耳だけで判断した。顔を上げるのは、余計な期待が湧くから嫌いだった。


 「部屋はあるか」


 男の声。低い。太い。酒で潰れた声じゃない。

 女主人が答える。


 「空いているよ。食事は?」


 「軽く」


 軽く、という言い方が腹立たしい。軽い食事でも、この店の一日分の売上くらいになることがある。そういう言い方を平気でするのは、金に困ったことがないからだ。


 私は床拭きを続けた。女主人の視線が一瞬だけ私に来る。顎が少し動く。余計なことはするな、の合図。私は合図に従う。合図に従うと給金が減らない。給金が減らなければ金が貯まる。金が貯まれば出ていける。計算は単純でいい。


 男は裏の部屋に通された。

 私は湯を運ぶ準備をした。湯を運ぶ仕事は嫌いじゃない。重いものを運ぶと、世界が黙る。腕が痛い時は余計なことを考えなくて済む。


 裏の廊下を歩く。濡れた木の匂い、古い香油、汗。いつもと同じ。扉の前で女主人が立っていた。扉を開ける手が、いつもより慎重だった。


 「静かに」


 女主人が言った。私は頷き、湯桶をゆっくり持ち上げた。


 扉を開けると、部屋の中は薄暗かった。蝋燭の火が一本。光が弱い。金を払う部屋にしては暗い。男は寝台に腰掛けている。上着は脱いでいた。布が良い。縫い目が丁寧で、糸がほつれていない。靴も擦り切れていない。肌は焼けていない。外で働く男ではない。貴族か、貴族の周辺の人間だ。


 男は私を見た。

 目が一瞬だけ止まる。

 その止まり方は、私の化粧の下の顔を見ている止まり方だった。


 腹が立った。

 腹が立つが、金にならない怒りは無駄だ。


 私は湯桶を置き、無言で下がろうとした。


 その瞬間、男の呼吸が変わった。

 吸う音が短くなり、吐く音が長くなる。胸が上下する。汗が浮く。酒の汗じゃない。冷や汗に近い。男は片手で腹を押さえた。もう片方の手が寝台の縁を掴む。指先が白くなる。痛みだ。


 「あ?」


 男が声にならない声を漏らした。

 次の瞬間、体が前に折れた。椅子が倒れるような派手な音はしなかった。人が壊れる時は案外静かだ。男は寝台から滑り落ち、膝をつき、床に顔を打ちつけた。


 私は思った。面倒だ。

 死なれたら厄介だ。

 生きていても厄介だ。

 どっちに転んでも厄介だが、死なれる方がもっと厄介だ。警吏だの聖職者だのが出張ってくる。話が長くなる。私の仕事が増える。給金は増えない。最悪だ。


 女主人が叫ぶ。


 「水!」


 私は桶を見た。湯だ。水ではない。

 私は舌打ちしそうになったが、舌打ちも金にならないので飲み込んだ。


 男の口元に吐瀉物がにじんだ。

 酒の匂いの中に、甘く酸っぱい匂いが混じる。肉の脂の匂いもする。濃い食事だ。軽く、なんて言っていたのに。金のある男の「軽く」は、貧乏人の三日分だ。


 私は膝をついて男の顔を横に向けた。吐瀉物で喉を詰まらせたら、その瞬間に厄介が確定する。鼻をつく匂いに眉が動きそうになるが、私は顔を動かさない。慣れだ。慣れたくはないが、慣れるしかない。


 男の唇は青くない。

 息はある。

 脈は速いが乱れていない。

 毒ではない。


 毒ならもっと早く出る。

 毒ならもっと派手に出る。

 呪いなら、周りの馬鹿がもっと喜ぶ。


 男は呻き、腹を押さえた。

 私は腹の上を少しだけ押した。硬い。張っている。胃ではなく、もっと下。腸の辺り。押した瞬間、男の体が小さく跳ねた。痛みが鋭い。


 「神罰だ」


 背後で誰かが言った。裏部屋の女が、恐る恐る覗き込んでいる。

 私は振り返らなかった。神罰という言葉は便利だ。理由を考えなくて済む。だが便利な言葉は大抵、金にならない。私は金にならない言葉が嫌いだ。


 女主人が私の横に膝をついた。

 男の顔を見て、次に私を見る。目で聞いてくる。「死ぬか」


 私は、なるべく小さく首を振った。


 「今すぐは」


 それだけで十分だ。余計な説明は自分を売ることになる。売るなら値段をつけてからだ。今はまだ値段の話をしていない。


 女主人は素早く指示を出した。

 蝋燭を増やせ。布を持ってこい。冷たい水。誰にも外に言うな。客の誰にも言うな。裏部屋の女にも言うな。


 私は内心で感心した。

 金を扱う人間は、騒ぎを嫌う。騒ぎは噂を生む。噂は客を減らすか増やすか分からない。分からないことは金を減らす。女主人はその手の「分からない」を潰すのが上手い。


 男は奥の小部屋に運ばれた。

 私は床を拭いた。吐瀉物の跡は残さない。残すと、明日には三倍の話になる。三倍の話は三倍の厄介になる。厄介は金にならない。私は淡々と拭いた。


 拭きながら、男の靴の泥を見た。

 この街の泥じゃない。粘りが違う。

 遠くから来た泥だ。


 面倒だ、と思った。

 遠くから来た人間は、地元の決まりを守らない。守らないのに、守らせようとする。そういうのが一番面倒だ。


 夜になった。

 酒場はいつものように騒がしくなったが、私の頭は奥の小部屋に向いていた。向けたくはない。向けると仕事が増える。だが、仕事の増える匂いがしていた。銀貨の匂いも、少しだけ。


 私は水を持って小部屋に入った。

 男は汗で髪が額に張りついている。目は開いていた。意識はある。死にかけた目ではない。悔しそうな目だ。金のある男ほど、弱ることを恥だと思う。


 「……誰だ」


 男が言った。

 私は水を差し出した。


 「雇われです」


 「医者か」


 「違います」


 男は苦笑した。苦笑にも金の余裕がある。

 私は男の手を見た。爪が切り揃えられている。剣を握る手ではない。書く手。署名する手だ。


 「助かったのか」


 「死んでほしくない人が、ここにいるだけです」


 女主人のことを言ったつもりはない。だが、そういう言い方になった。人は勝手に自分を美化する。私は自分を美化するのが嫌いだ。美化は金にならない。


 男は水を少し飲み、顔をしかめた。

 私は男の口元を見た。舌の色。唇の乾き。呼吸。腹の張り。熱。どれも、金のある男が自分の体を雑に扱った結果として、十分に説明がつく。


 私がしたことは、せいぜい二つだ。

 吐かせ、飲ませない。

 そして、少しだけ休ませる。


 それで死なないなら、元々死ぬほどじゃない。

 ただ、倒れる場所が悪かったら死んでいた。

 倒れる場所が悪くならないようにするのも、運だ。


 男は枕元を探り、小さな銀貨を二枚置いた。

 私は目だけで数えた。


 二枚。

 ……安い。


 私は内心で舌打ちした。

 だが、舌打ちは飲み込んだ。今ここで怒っても値段は上がらない。値段を上げるのは、交渉の場だ。交渉の場はまだ来ていない。


 「これでいいか」


 男が言った。

 私は銀貨を取らなかった。取ると、ここで話が終わる。


 「これで、今日の分です」


 私はそう言った。

 男の目が細くなる。


 「明日も要るのか」


 「あなた次第です」


 男は少し黙り、銀貨をもう一枚置いた。

 三枚。

 やっと、話ができる数字になった。


 私は銀貨を受け取った。

 指先が少しだけ温かくなる。金属は冷たいのに、持つと気分が温かくなる。私はそういう自分が嫌いじゃない。


 男は二日後に宿を出た。

 出る前に女主人と短く話し、女主人は頷いていた。私はそのやり取りを遠くから見た。女主人は人に頭を下げる。だが、頭を下げる角度が上手い。下げているようで、相手に「借り」を作らせる角度だ。


 男は名乗らなかった。

 だが、名乗らなくても分かる。あれはただの旅人じゃない。身分を隠している人間は、隠し方が下手だ。隠そうとするから、逆に目立つ。


 三日後、使いが来た。

 昼の雨が止んだ直後だった。戸が開き、湿った空気が流れ込む。男が二人。服装が揃っている。雇われだ。私と同じ種類だが、彼らは殴る仕事をしている。目がそう言っている。


 女主人が前に出る。


 「宿は空いてないよ」


 「宿の話じゃない」


 男の一人が言った。声が乾いている。命令に慣れた声だ。


 「ここに、女がいると聞いた」


 目が私を射抜いた。

 私は顔を上げない。顔を上げると、余計な反応を与える。反応は値札を吊り上げる前に出すものじゃない。


 女主人が言う。


 「用件は?」


 「先日倒れた方の使いだ。貴族だ。名は出すなと言われている」


 貴族。

 やっぱり、と思った。

 「やっぱり」と思った瞬間、私はもう半分、計算を始めていた。


 使いは続けた。


 「彼は別の国から来ている。医師は教会が握っている。金を積んでも順番が回らない。診てもらうには、教会に頭を下げ、教会に払わなければならない」


 それはこの国でも同じだ。

 ただ、向こうはもっと露骨なのだろう。


 「だが、お前は見抜いた。医師でなくてもいい。来てほしい。診てほしい」


 女主人が私を見る。

 私はそこで初めて口を開いた。


 「いくらですか」


 空気が一瞬止まった。

 使いの眉が少し動いた。善意の返事を期待していたのかもしれない。馬鹿だ。


 「金は払う」


 「いくら」


 「……相応に」


 相応に、という言葉ほど嫌いなものはない。相応の基準は言った側が決める。決めさせると、私は損をする。


 私は淡々と言った。


 「前金。滞在費。帰りの路銀。途中で話が変わったら、その場で精算。口止め料も別」


 女主人が咳払いをした。止める気配ではない。咳払いは「見ている」という合図だ。私は合図に従う。合図に従っても、値段は下げない。


 使いは一度外に出て、戻ってきた。

 小さな袋を置いた。

 音で分かる。銀貨だ。そこそこ重い。


 私は袋に手を伸ばさなかった。

 まだだ。袋を掴むと、こちらが先に欲しがっていると伝わる。欲しがっている側が負ける。欲しがっていても、欲しがっていない顔をするのが交渉だ。


 「医師じゃないんだろう」


 使いの一人が言った。

 挑発だ。挑発に乗ると値段が落ちる。


 「医師じゃない」


 私は認めた。認めるのが一番強い。隠すと揺さぶられる。


 「だから、できないこともある。できないことに文句を言うなら、最初に契約の形にする」


 「契約?」


 使いが眉をひそめた。

 私は言った。


 「紙。署名。私が医師ではないこと、治らない場合もあること、死ぬ場合もあること。その時に私を責めないこと。責めたら、追加で払うこと。払えないなら、最初から頼むな」


 女主人が小さく笑った。笑いというより、息だ。

 私はその息に少しだけ腹が立った。面白がられている。面白がられると、値段が上がることもあるが、下がることもある。私は上げたい。


 使いは黙った。

 黙るのは、飲めない条件にぶつかった時だ。

 私はさらに言う。


 「口止め料も別。私がここで何を見たか、あなたたちが何を隠したいか、それで値段は変わる」


 使いの目が冷たくなる。

 冷たくなるのは、こちらが核心に触れた証拠だ。


 女主人が口を挟んだ。


 「この子は雇われだ。勝手に連れて行く話は、私を通しな」


 その瞬間、私は理解した。

 女主人は「守るため」に言っていない。

 「自分の取り分」を確保するために言っている。


 腹が立った。

 だが、腹が立つのは金になる。


 私は女主人の方を見た。化粧の下の目で。

 女主人は目を逸らさなかった。

 金を扱う人間同士の目だ。情けも恩もない。


 使いが言った。


 「雇い主にいくら払えばいい」


 女主人が数字を言いかけた。

 私は先に言った。


 「私に払う分とは別にして」


 女主人の口が止まる。

 私は続けた。


 「私の話に、雇い主の取り分を混ぜるな。混ぜると、私が損をする。私は損をしない」


 女主人の目が細くなる。

 だが怒らない。怒ると損をする場面だと分かっているからだ。


 使いが袋をもう一つ置いた。

 重い音。

 私は袋に手を伸ばした。今が掴むタイミングだ。掴んだ瞬間に条件を詰める。


 「出発はいつだ」


 使いが問う。

 私は言った。


 「今夜は無理。私は準備がある。明日の朝、ここで契約の紙を作って、前金を確認してから」


 「紙がない」


 「ある」


 女主人が言った。帳場の奥から帳簿用の紙を出す声がした。

 女主人は手早い。手早いのは、金になる匂いを嗅いだからだ。


 私は袋を持ち、重さを確かめた。

 悪くない。

 悪くないが、これで終わりではない。


 私は言った。


 「私は医師じゃない。だから“医師扱い”はやめろ。治ったら褒美、死んだら罪。そういう扱いはしない。金を払って、私の見立てを買う。それだけ」


 使いが息を吐いた。


 「……承知した」


 承知した。

 その言葉を聞いて、私は笑いそうになった。笑うと安く見えるので、笑わない。

 私はただ、袋を懐に入れた。


 金属の重みが、体の中心に落ち着く。

 私はそれだけで気分が良くなる。

 単純で助かる、と自分でも思う。


 使いたちは帰っていった。

 店の空気が少しだけ軽くなった。客がまた大声を出し始める。さっきまで黙っていた男が急に笑いだす。人間はそういう生き物だ。強い匂いが去ったら、また自分の匂いを出して安心する。


 女主人が私を帳場の裏に呼んだ。

 狭い部屋。紙と酒と金属の匂い。ここは女主人の巣だ。


 女主人は言った。


 「本気で行くのか」


 私は即答した。


 「金になるから」


 「向こうは貴族だ。気まぐれで人を捨てる」


 「それでも金は捨てない」


 女主人の目が少しだけ揺れた。

 その揺れが、気に入らなかった。

 揺れるのは情けだ。情けは金にならない。女主人が情けを持っているのが嫌だった。情けを持てるのは、余裕があるからだ。余裕がある人間の情けほど、人を縛るものはない。


 女主人は机の上に、いつもの化粧道具を置いた。

 そばかす用の粉。唇の色を消す油。目元を鈍くする煤。

 彼女はいつも通りに言った。


 「明日もそれでいけ」


 私は言った。


 「もう必要ない」


 「必要だ」


 「私が決める」


 その瞬間、女主人の声が低くなった。


 「ここで雇われの女が、急に美人になって、貴族の使いに呼ばれたら、何が起きると思う」


 私は口を開きかけた。

 だが、答えは分かっている。

 噂が立つ。妬みが生まれる。警吏が嗅ぎ回る。教会が難癖をつける。私を「勝手に医者をした女」として吊るす口実にする。女主人の店を潰す口実にもする。


 分かっている。

 分かっているが、私は言った。


 「それでも金がいる」


 女主人は一拍置いて、言った。


 「じゃあ取引だ」


 取引。

 その言葉が出た瞬間、私は少し落ち着いた。説教より取引の方がいい。取引なら数字にできる。数字なら私も負けない。


 「私が化粧を続けさせる。お前は明日、使いの前で“医師じゃない”ともう一度言え。紙に書け。署名させろ。証人に私の名も入れろ」


 女主人は淡々と続けた。


 「そうすれば、教会が嗅ぎ回っても“勝手な医術”で吊るされにくい。吊るされにくいなら、店も潰されにくい。店が潰れなければ、お前の金の置き場も残る」


 私は鼻で笑いそうになった。

 置き場。

 女主人は私の金すら、自分の店の中に置きたいのだ。


 私は言った。


 「取り分は」


 女主人の目が戻った。

 数字の目だ。


 「半分」


 「ふざけないで」


 「じゃあ三割」


 「二割」


 女主人が少し黙り、言った。


 「二割五分」


 私は計算した。

 明日の前金、滞在費、路銀、口止め料。全部を合わせると、今の給金の何年分になるか。二割五分は痛い。だが、女主人が証人になる価値もある。教会は証人の肩書きが好きだ。女主人は商売人としての肩書きを持っている。孤児の私よりはずっと強い。


 私は言った。


 「二割。代わりに、今夜の追加。契約書の紙と筆代もそっち持ち」


 女主人が笑った。今度ははっきり笑った。

 笑いが金の音に聞こえた。


 「欲深いね」


 「生きるのに必要です」


 女主人は頷いた。


 「いい。二割。紙と筆もこっち」


 取引成立。

 私は少しだけ機嫌が良くなった。

 機嫌が良くなると、余計なことを言いそうになるので、私は早めに話を切った。


 「じゃあ明日」


 部屋を出ると、酒場の喧騒が戻ってきた。

 私は自分の寝床に戻り、袋を取り出して銀貨を数えた。数えるたびに心が落ち着く。金は数えると増えた気がする。実際は増えていないが、増えた気がする時間は貴重だ。


 私はふと思い出した。

 倒れた貴族が枕元に置いた銀貨が安かったこと。

 あの男はケチなのか、それともあの場で出せる金に限りがあったのか。


 どちらでもいい。

 私が欲しいのは、今ここにある金と、明日ここに来る金だ。

 未来の約束は、紙に書いても腐る。銀貨だけが腐らない。


 夜中、雨がまた降り出した。

 屋根を打つ音で、客の笑い声が少しだけ静かになる。私は目を閉じ、明日のやり取りを頭の中で繰り返した。言うべき言葉、言ってはいけない言葉、相手の顔の動き、手の動き。交渉は戦いだ。殴り合いじゃない。相手の欲を測り、こちらの欲を隠し、最後にこちらの欲だけを通す。


 私は眠りに落ちる直前、思った。

 この街を出る日は近い。

 近いが、まだだ。

 まだだからこそ、焦らない。焦ると安くなる。


 翌朝、空は鉛色だった。

 雨は止んでいない。

 私はいつも通り化粧をした。そばかすを足し、唇の色を消し、目元を鈍くする。平凡な顔。記憶に残らない顔。腹が立つが、今日はそれが金になる。


 帳場の机に紙が置かれた。

 女主人が筆を持ち、文字を並べる。私は文字が読めない。読めないが、女主人が要点を口で言うのを聞き、私はそれに合わせて言葉を足した。


 私は医師ではない。

 治らないことがある。

 死ぬことがある。

 その責を私に負わせない。

 責を負わせるなら、その場で追加の支払い。

 支払いができないなら、最初から頼むな。


 使いが来た。昨日と同じ二人。

 彼らは紙を見て顔をしかめた。


 「こんなもの」


 「こんなものがないと困るのは、あなたたちです」


 私は淡々と言った。

 淡々と言うと、強く聞こえる。強く聞こえると値段が上がる。私は値段を上げたい。


 使いは渋々、署名の代わりに印を押した。

 貴族の家の印だろう。小さな刻印。蝋に押されると、紙が急に偉そうな顔をする。教会も警吏も、こういう顔が好きだ。


 私は言った。


 「前金」


 使いが袋を置く。

 私は袋を開け、銀貨を一枚だけ出して歯で噛んだ。噛む真似だ。本当に噛むと歯が痛い。だが真似は効く。効く真似は金になる。


 「よし」


 使いが苛立った顔をする。

 苛立ちはいい兆候だ。相手がこちらの手のひらで転がっている時に出る顔だ。


 女主人が咳払いをした。

 私はわざと使いに言った。


 「今日の分はここまで。出発の話は、昼まで待って。私は準備がある。準備ができないと、あなたたちが損をする」


 使いが眉を寄せる。


 「何の準備だ」


 私は言った。


 「金の準備」


 その言い方に、女主人が小さく息を吐いた。笑いか呆れか分からない。

 私は気にしない。気にしても金にならない。


 使いは帰った。

 昼まで待て、と言ったから、彼らは昼まで待つ。待つ時間は金を生まないが、こちらの条件が通った証拠になる。


 私は自分の寝床に戻り、袋を二つ並べた。

 昨日の袋と、今日の前金の袋。

 私は銀貨を机の上に並べ、数えた。


 数えるたびに、胸の中が静かになる。

 静かになると、考えがよく回る。

 考えが回ると、次の金が取れる。


 昼までの間に、私は一つだけ決めた。

 この話で私が欲しいのは「出発」じゃない。

 出発は余計な面倒を運ぶ。

 私が欲しいのは、ここから出るための金と、それを邪魔されない紙だ。


 私は女主人のところへ行き、言った。


 「私、行かない」


 女主人の手が止まる。


 「は?」


 「行かない。その代わり、ここで診る。ここで診られる形にする。貴族がここに来る。来れないなら、使いが患者を連れて来る。どうせ向こうに医師がいないなら、こっちに運ぶ方が早い」


 女主人の目が鋭くなる。

 計算の目だ。

 私は続けた。


 「向こうに行くと、私が消える。私が消えると、あなたの二割も消える。私がここにいれば、あなたの二割は確実。店も潰れにくい。教会も嗅ぎ回りにくい。だって患者がここに来るなら、ここで“ただの宿の手当”にできる」


 女主人が黙る。

 黙るのは、こちらの話に筋がある時だ。

 私は畳みかけた。


 「条件は簡単。貴族側に“診察料”を上乗せ。あなたは部屋代と口止め料で取る。私は診る代で取る。私が医師じゃないことは紙にある。向こうで騒がれても、ここにいれば逃げ道がある」


 女主人がゆっくり息を吸い、言った。


 「……欲深いね、本当に」


 「だから生きてる」


 女主人は頷いた。

 そして、帳場の奥から別の紙を出した。

 旅の通行許可のような、町の印が押せる紙だ。女主人の手がそこに伸びる。


 「自由になりたいんだろ」


 私は答えなかった。

 答えると安くなる。

 私はただ言った。


 「金が欲しい」


 女主人は紙を机に置き、言った。


 「じゃあ、これも取引だ。貴族から“安全な通行札”を出させろ。お前がこの街を出る時に、警吏が面倒を見ない札。教会が難癖をつけにくい札。金と一緒に持て。金だけじゃ足りない日がある」


 その言葉は、私の胸に少しだけ刺さった。

 金があれば足りると思っている自分が、ほんの少し揺れた。

 揺れたことが腹立たしかった。

 腹立たしいが、今は役に立つ。


 昼。使いが戻ってきた。

 私は先に言った。


 「私、行かない」


 使いの顔が固まる。


 「何を言っている」


 「行かない。ここで診る。患者を連れて来い。貴族本人が来られるなら、来い。来られないなら、使いが連れて来い。医師が教会に独占されているなら、あなたたちが動くしかない」


 使いの一人が怒鳴りそうになる。

 私は先に銀貨を一枚、机に置いた。


 「これは返さない。契約書はある。前金は前金。嫌なら、今ここで騒いで。騒げば教会が来る。教会が来たら、あなたたちが困る。私は困らない。私はただの雇われの女。困るのは、身分を隠して倒れた貴族の方」


 使いの喉が鳴った。

 飲み込んだ音だ。

 私は心の中で値段を上げた。


 「条件は二つ。診察料は倍。口止め料は別。あと、通行札。私がこの街を出る時に、面倒が起きない札。貴族の印入りで」


 使いは唇を噛んだ。

 噛むのは、金を払いたくない時の癖だ。

 払いたくなくても、払うしかない顔だ。


 「……持ち帰る」


 「今日中」


 私は即答した。

 「今日中」と言うと相手は走る。走るのは金の匂いがするからだ。金の匂いがするなら、走らせた方がいい。走ってくれる相手ほど、安く買い叩ける。


 使いは出ていった。

 女主人が私を見た。

 私は言った。


 「これで、ここから出る金と札が揃う」


 女主人は頷いた。

 頷き方が、少しだけ悔しそうだった。

 悔しそうなのが、少しだけ気持ちよかった。


 夜、使いが戻ってきた。

 袋が増えていた。

 紙も一枚増えていた。

 貴族の印が押された、通行札だ。


 私は袋の重さを確かめ、紙を指で撫でた。

 紙は軽い。

 だが、この軽さが面倒を減らす。

 面倒が減れば、金が守れる。


 私は袋を受け取り、言った。


 「患者はいつ来る」


 使いが言った。


 「明日の夜。貴族本人は来られない。代わりに、同じ症状の者を連れて来る。手順を教えろと言う」


 私は頷いた。

 教えるのはいい。教える分も金になる。

 私は机の上の銀貨を見た。

 私は自分の欲深さを、少しだけ誇らしく思った。


 その晩、私は荷物をまとめた。大した荷物はない。服と、銀貨と、通行札。それだけでいい。思い出は持っていかない。思い出は重い。重いものは旅に向かない。金は重いが、金は価値がある。重い価値なら持つ。


 夜明け前、雨がまた降り出した。

 私は戸を開け、外の湿った空気を吸った。

 背中の袋が重い。

 その重さが嬉しい。


 女主人が戸口に立っていた。

 いつも通りの顔。いつも通りの目。

 だが、その目が一瞬だけ、私の顔の化粧を見て、そして逸れた。


 「化粧、落としていけ」


 女主人が言った。


 私は少しだけ迷った。

 迷うのは、金にならない癖だ。

 だが、その癖が出た。


 「どうして止めたの」


 私が聞いた。

 女主人は答えなかった。

 答えないのは、彼女の勝ち方だ。


 その代わり、女主人は言った。


 「金があるなら、顔はお前が決めろ。好きにしな」


 私は頷いた。

 頷いたが、礼は言わなかった。

 礼は金にならない。


 私は化粧を落とさずに歩き出した。

 平凡な顔のままの方が、今は都合がいい。金を持っている時ほど、目立たない方がいい。美人は目立つ。目立つと金が減る。私は金が減るのが嫌いだ。


 雨の中、街の外れへ向かう。

 通行札が懐にある。銀貨の袋が重い。

 私はそれだけで満足だった。


 自由とか、未来とか、そんな言葉はどうでもいい。

 私は金を持っている。

 金があるなら、次はどこへでも行ける。

 どこへ行くかは、金が減ってから決めればいい。


 そう思いながら、私は足を止めなかった。


 雨の中、私は街を出た。振り返らなかった。振り返ると、置いてきたものが値札に見えて安くなる。私は安くなりたくない。私は高く売りたい。自分の時間も、体も、知恵も。高く売って、金を持って、次の場所へ行く。それだけでいい。


 街道はぬかるんでいた。靴の裏に泥が貼りつく。歩くたびに重くなる。背中の袋も重い。だが、こっちは嬉しい重さだ。泥の重さは腹が立つが、銀貨の重さは腹の底を落ち着かせる。私は性格が悪い。性格が悪くても、銀貨は逃げない。


 門を出たところで、松明の火が二つ揺れた。

 見張りではない。見張りなら堂々と立つ。こいつらは道の端に寄り、暗がりの方に体を隠している。隠れるやつは決まって同じ目的だ。金だ。


 男が二人。背が低く、肩が広い。金を奪うために生きている体だ。片方が私の背中の袋を見た。目が袋に吸い寄せられるのは、飢えた犬と同じだ。飢えた犬は噛む。噛ませたら面倒になる。面倒は金を食う。


 「夜道は危ねえ」


 男が言った。

 私は歩みを止めない。止めると会話が始まる。会話は安いのに、面倒は高い。


 「通行料だ。見逃してやる」


 通行料。便利な言い方だ。通行料と言えば、奪い取るより正しく聞こえる。正しく聞こえると罪悪感が減る。罪悪感が減ると手が早くなる。早い手は痛い。痛いのは嫌いだ。痛いのは金にならない。


 私は袋に手を伸ばさなかった。袋に手を伸ばすのは負けだ。欲しがっている側が負ける。私は負けない。

 私は懐に手を入れ、紙を一枚取り出した。貴族の印の札だ。門番に効いた札。門番に効くなら、こいつらにも効く可能性がある。効かなければ、次の手に移るだけだ。


 私は札を松明の火の方へ差し出した。

 「これ見える?」

 男の目が細くなった。

 紙の印を見て、顔が一瞬だけ固まる。固まるのは、面倒の匂いを嗅いだからだ。面倒は誰でも嫌いだ。泥棒だって面倒が嫌いだ。面倒が嫌いなやつは、金で動く。


 「……何だそりゃ」


 男が言う。強がりだ。強がるのは怖いからだ。


 私は淡々と言った。

 「貴族の使いが持たせた。これに手を出すなら、勝手にして。私は明日、門に戻って“道で奪われた”って言うだけ。門番は印を見て動く。動いたら、あなたたちの顔は町中に貼られる。教会の犬も嗅ぎに来る。あなたたちが困る」


 男の片方が舌打ちした。舌打ちは安いが、今の舌打ちは値段の舌打ちだ。払ってもいいと思っている舌打ち。

 私はそこで初めて、銀貨を一枚だけ取り出した。袋からではない。袋に手を伸ばすのは負けだ。懐から出すのがいい。懐の金は「余り」に見える。余りに見える金ほど、相手は安く満足する。


 私は銀貨を指で弾いた。音が雨の中でもはっきり響いた。金の音は強い。

 「これで終わり。これ以上欲しいなら、さっきの話を続ける。続けたら、私は面倒を呼ぶ。面倒はあなたたちが嫌いだろ」


 男は銀貨を見て、札を見て、私の顔を見た。平凡な顔の化粧の下の目を見ようとして、諦めた。諦めた顔をした。諦めた顔をした瞬間に、こいつらは負けた。負けたやつは小さく取って帰る。


 男が銀貨を掴んだ。

 「……さっさと行け」


 私は歩みを止めなかった。礼も言わない。礼は金にならない。銀貨一枚で命が動いた。安い取引だ。安い取引ができた自分に、私は少しだけ満足した。満足は油断に繋がる。油断は高くつく。私は満足を胸の奥に押し込め、足だけを動かした。


 夜は長かった。だが、夜が長いのは悪いことばかりじゃない。暗いと顔が見えない。顔が見えないと値踏みが減る。値踏みが減ると奪われにくい。私は奪われたくない。だから、暗い夜は嫌いじゃない。


 途中で小さな祠の陰に身を寄せ、雨をやり過ごした。濡れた布は体温を奪う。体温が奪われると頭が鈍る。頭が鈍ると金の計算が狂う。金の計算が狂うと死ぬ。私は死にたくない。死ぬのは損だ。私は損が嫌いだ。


 夜明け前、雨が弱まった。空が少しだけ白くなる。白くなった空は優しく見えるが、優しい空は大抵、泥を隠している。私は泥を信じない。信じるのは金と紙だけだ。


 次の町の外れに着いたのは、朝の市が始まる少し前だった。屋台が並び、パンの匂いがする。肉の匂いもする。匂いがある町は金が回る。金が回る町は働き口がある。働き口があれば、金が守れる。私はここまで来られたことを、心の中で銀貨に換算した。換算すると、ちゃんと価値がある気がした。


 門番が私を止めた。

 「どこから来た」

 私は札を出した。貴族の印。控えも見せた。雇い証文も見せた。紙を見せる順番は大事だ。印→控え→証文。相手に「面倒」を先に見せてから「仕事」を見せる。仕事の紙は安心材料になる。安心すると相手は安くなる。安くなるのは相手だけでいい。私が安くなる必要はない。


 門番は眉をひそめたが、札の印を見て体を少し引いた。怖がるのはいい兆候だ。怖がる相手は丁寧になる。丁寧な相手は面倒を起こしにくい。

 「……入れ」

 私は入った。

 簡単だった。簡単なのが嬉しい。難しいことは金になるが、難しいことは命を減らす。命を減らすのは嫌だ。金が増えても命が減ったら意味が薄い。薄い意味は嫌いだ。


 私はまず宿を探した。安宿でいい。安宿の方が目立たない。目立たない方が金が守れる。部屋に入って、扉の内側に椅子を噛ませた。安宿の鍵は信用できない。信用できないものは補強する。補強は金にならないが、金を守る。


 袋を下ろし、私は銀貨を広げた。数える。数えると落ち着く。落ち着くと、次の金が取れる。私は性格が悪い。性格が悪いから生きている。

 銀貨は確かに増えていた。口止め料も、診察料も、追加の紙も、二割の支払いも全部がここにある。ここまで運べたのが嬉しい。嬉しいが、嬉しい顔はしない。嬉しい顔は安く見える。私は安く見られたくない。


 次に私は水を買った。水を買うのは嫌いだ。水は本来ただだ。だが、ただのものほど金を取られる。取られるなら、取られた分は取り返す。私はそう決めている。水で顔を洗い、煤を落とした。唇の色を消す油も落とした。そばかすも落とした。平凡な顔を作るための努力は、落とす時に一気に無駄に見える。無駄に見えると腹が立つ。腹が立つが、腹が立つのは「もう必要ない」証拠でもある。


 鏡はなかった。安宿に鏡があるわけがない。だが、水面が少しだけ私の顔を映した。

 私は、思ったより綺麗な顔をしていた。

 それを見て、腹が立った。綺麗な顔は厄介だ。綺麗な顔は値段を勝手につけられる。私は勝手につけられる値段が嫌いだ。値段は自分でつけたい。


 だから私は、鏡を買うことを決めた。

 自分の顔の値段を、自分で決めるために。

 そういう買い物は嫌いじゃない。嫌いじゃない買い物は、だいたい正しい。


 昼前、市に出た。人が多い。人が多いのはいい。人が多いと、私一人の価値が薄まる。薄まると目立たない。目立たないと金が守れる。

 私は屋台の前で立ち止まり、薬草を扱う露店を見た。乾いた葉、根、粉。匂い。ここにいる店主の手は、女主人とは違う乾き方をしている。土と油の乾き方だ。金の乾き方ではない。金の乾き方じゃない人間は、騙されやすい時がある。騙すつもりはない。だが、安く雇わせることはできる。安く雇われて、そこで金を増やすのが私の仕事だ。


 私は露店の主に言った。

 「雇い手は要る?」

 主は私を見て、疑う顔をした。

 「何ができる」

 私は答えを選んだ。正直すぎると安くなる。嘘すぎると後で面倒になる。面倒は金を食う。


 「湯が沸かせる。布が洗える。吐いたものの始末ができる。寝台の始末もできる。あと、痛い腹の人間を死なせない程度のことは知ってる」


 主の眉が動いた。

 最後の一言が効いた。効かせる一言は金になる。


 「医者か?」


 「違う」


 私は即答した。即答すると、嘘を疑われにくい。

 「医者じゃない。医者の真似をしただけ。教会の医者ほど取らない。その代わり、教会の医者ほど守れない。だから給金は多めに」


 主が笑いそうになる。笑いそうになるのを、こらえている顔。

 私はその顔が嫌いじゃなかった。笑うのをこらえる顔は、たいてい損をしたくない顔だからだ。損をしたくない人間は取引ができる。


 「いくらだ」


 私は数字を言った。安すぎない数字。高すぎない数字。まずは居場所を確保する数字。居場所を確保した後に、仕事で値段を上げる。私はそういうやり方が好きだ。好きというより、勝ちやすい。


 主は渋い顔をしたが、渋い顔のまま頷いた。

 渋い顔で頷くのは、選択肢がない時の返事だ。選択肢がない相手ほど、こちらの条件は通る。


 その日の夕方、私は部屋に戻った。パンを買い、少しだけチーズも買った。肉は買わない。肉は高い。高いものは慎重に買う。私は慎重が好きだ。慎重は金になる。


 部屋で食べながら、私は銀貨をもう一度数えた。数えるたびに、胸の奥が静かになる。静かになると、未来を考えられる。未来を考えるのは好きじゃないが、金がある未来なら悪くない。金がない未来は嫌いだ。嫌いというより、見たくない。


 私は雇い証文と札の控えを布に包み、枕の下に入れた。銀貨は分けた。一つは懐に。一つは靴の底に。もう一つは部屋の板の隙間に。盗まれる可能性は常にある。可能性は消えない。消えないなら、分ける。分けるのは金にならないが、金を守る。


 窓の外では雨がまた降り出した。

 私はその音を聞きながら、思った。

 女主人は理由を言わなかった。最後まで言わなかった。だが、言わなかったことが、今の私の袋の重さに繋がっているのも確かだ。

 だから私は、女主人のことを値段で考えた。恩だの情だのじゃなく、取引として考えた。取引として考えると、腹が立たない。腹が立たないと眠れる。眠れると明日の金が取れる。


 私は、久しぶりにちゃんと眠った。


 翌朝、私は露店の主のところへ行き、仕事をした。湯を沸かし、布を洗い、客の吐瀉物を片づけ、薬草の粉を小袋に詰めた。そういう仕事は慣れている。慣れている仕事は早い。早い仕事は信用に変わる。信用は借金の匂いがするが、信用が金に変わるなら構わない。


 昼過ぎ、露店の前で腹を押さえてうずくまる男が出た。顔色が悪い。汗が冷たい。周りが「神罰だ」と言い始めた。便利な言葉だ。便利な言葉は金にならない。

 露店の主が私を見た。

 私は肩をすくめた。

 「診るなら前金」

 主が小さく笑い、銀貨を一枚、私の掌に置いた。

 私は銀貨を受け取り、男の顔を覗き込んだ。


 「まず、吐け」


 男が首を振った。

 私は言った。

 「吐けないなら、金を増やせ。吐けるようにする手間が増える」


 周りの連中がざわついた。

 ざわつくのはいい。ざわつくと噂になる。噂は金になる。私は噂を嫌いじゃない。噂に値段をつけられる側にならなければいい。


 男は結局、吐いた。

 私は死なせなかった。

 そして銀貨を二枚追加で取った。


 夕方、私は部屋に戻り、買ったばかりの小さな鏡を机に置いた。鏡は安物だ。歪んでいる。歪んでいるが、歪んでいても私の顔は私の顔だ。私は鏡の中の自分を見て、少しだけ口元を上げた。笑うと安く見える。だが今の笑いは、誰にも見せない笑いだ。誰にも見せない笑いは安くならない。


 私は思った。

 この顔で、私はいくらでも稼げる。

 稼いで、また移動できる。

 移動できるなら、好きな場所を選べる。

 選べるなら、負けない。


 自由という言葉は嫌いだ。

 だが、選べるのは悪くない。

 選べるのは、金があるからだ。


 私は銀貨を数え、紙を確かめ、鏡を布で包んで枕元に置いた。

 雨の音が、前より少しだけ心地よく聞こえた。

 私は性格が悪い。がめつい。善人でもない。

 それでも、今夜は腹が満ちて、明日の仕事が決まっていて、金が逃げない場所がある。


 それなら十分だ。

 十分なら、私は勝っている。

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