③数分前 〜障壁〜
目を開けると、白い天井が見えた。もう5年住んでいるのに綺麗なものだ。妻は綺麗好きだし、お互い煙草も吸わないから内装が汚れることもない。
寝たまま首を左に傾ける。サイドテーブルに先程のデジタル時計が置かれていて、液晶画面には5時45分と表示されていた。やはり俺の予想通り、今は6時より前か。本来ならまだ1時間以上眠れたはずなのに。俺は感情のままその時計をぎゅっと握り締める。握り締め続けるとミシッとかカチッとか音がしたが構うものか!ああ憎々しい。
―しばらくして、時計を手から離し一つ息を吐く。落ち着け。起きるのは面倒くさいが、手際良くトイレを済ませてからまたベッドに戻れば6時前に再び就寝することも難しくないだろう。二度寝が何よりも気持ち良いと聞くし、それはそれで悪くないじゃないか。俺は自らの意思を奮い立たせてベッドを出ようとして。
右手に握る妻の手に気付いた。
右手は妻の左手と恋人繋ぎをしている。寝ている間に妻が握ったのだろう可愛い奴だとはつい先程思ったことだが。
…これではトイレにいけないではないか。
トイレに行くには妻の手を離すことになる。当たり前だ。しかし。
手を離したら、妻は起きてしまうのではないか?
起こしたら機嫌を損なうのではないか。
妻の機嫌は最重要事項である。妻の機嫌を伺う夫なんて恥ずかしいようだが、夫婦とはそういうものである。男は我慢である。
さて、俺は今、トイレに行かなければならない。しかしトイレに行くためには妻の手を離す必要がある。
妻は鋭敏な神経の持ち主だ。手を離してしまったら、起きる可能性がある。
想像してみよう。手を離してトイレへ立つ俺。妻はやがて手の違和感に気付き、俺がトイレで用をたす間に起きてしまう。サイドテーブルのデジタル時計を見ると5時45分。隣に俺の姿はない。まだ早いのに起きちゃったじゃない、と苛立つ妻。トイレから帰ってくる俺に対し、その苛立ちをぶつける。俺は説明する。トイレへ行きたかったから仕方ないだろうと。妻も大人だ。その場は納得する。しかし内に秘めた苛立ちは成長し続ける。なぜ休日なのにこんなにも早く起きなければならないのか。それは夫が、握っていた私の手を離してトイレへ行ったからだ。トイレは仕方ないと分かるけれど、胸がむかつく。そもそも私が可愛らしく恋人繋ぎしてやったのに手を離すとは何事か。トイレくらい我慢できなかったのか。これら苛立ちは朝食のメニューに反映される。いつもより一品少なかったり、目玉焼きが私好みの半熟ではなく固めであったり。それだけで済まず、休日全体に波及する。いつもなら見過ごすようなミスをあげつらい詰る。歯を磨いた後はシンクを綺麗にしてよ、休日なのにどこにも連れて行かないつもり?ちょっと今の急ブレーキ危なかったから気をつけてよ、あなたの選んだお店全然センスないね…嫌がらせは一日続くだろう。
理不尽と思う方もいるだろう。俺も理不尽と思う。トイレへ行っただけでなぜこんなことになるのかと。しかし、これが俺と妻であり、普遍的な夫婦仲というものであり、果ては男女の関係性というものなのだ。理不尽でも受け入れるしかない。
では、どうするか。トイレへ行かない選択肢はない。いくら妻の機嫌が悪くなろうと、このままベッドで漏らすわけには行かない。俺にも人としてのプライドはある。
では手を繋いだままいくか。手を繋いだまま妻をお姫様抱っこしてトイレへ運んで用をたすか。論外である。お姫様抱っこなどしたらそれこそ妻が目を覚ますだろうし、仮にトイレまで行けたとして妻を抱えたまま下半身を露出して用を足すなど高難易度過ぎて達成できる気がしない。用を対している間に妻が目を覚ましたらおそらく妻は実家に帰るであろう。俺が逆の立場でもそうする。
何か策はないか。何も、俺と妻は抱き合っているわけではない。俺と妻を繋ぐのは恋人繋ぎだけである。これさえ保てばいいのだが。しかし恋人繋ぎを維持しながらトイレへ立つ方法などあるわけがない。
俺は手段を考える。いくら妻が鋭敏な神経を持っていても、手を離した瞬間に目を覚ますというのは有り得ないだろう。手を離して俺がトイレへ行きまた戻ってくる間だけ、何とか誤魔かせればいいのだ。
しかし、睡眠欲に霞む脳では思考がまとまらない。今の俺では解決策を導くことは出来ない。もう諦めるしかないのか。
安寧な休日よ、さらばだ。一週間頑張って働いた俺の努力は報われなかった。暗澹たる休日を過ごして、一週間の疲れが取れないままに、また忙しい平日へと臨むしかないようだ。
俺が妻の手を離そうとしたとき。
「あきらめないで」
どこからか、声が聞こえた。
俺は思わず右で寝ている妻を見る。彼女は目を瞑って寝息を立てている。彼女の声ではない。
しかしこの家は俺と妻の二人暮らしだ。他に声がするなんて。
「あきらめないで」
再び声が聞こえた。いや、この声は耳から聞こえたわけではない。
俺の脳内から聞こえている?
「いま、きみの脳内に直接語りかけているよ」
その「声」は言った。俺は口を動かさず、脳内で問いただす。誰だお前は、どうやって俺の頭の中に声を届けているんだ。
「ぼくはコアラのぬいぐるみ。きみの奥さんにはコア君とよばれてる」
はっとして俺は寝たまま顔を動かし左上方を見る。
俺の寝る枕の横にまんまるとしたコアラのぬいぐるみが転がっていた。
ぬいぐるみが話しているだって?馬鹿な。
「きみのピンチにいてもたってもいられなくなったんだ」
言われてコアラのぬいぐるみを見ても、それは微動だにせず丸い体で枕の横に転がっているに過ぎない。
ぬいぐるみが話すなど信じられるはずがない。おそらく、寝ぼけた俺の頭が作り出した妄想なのだろう。それは納得してやろう。
が、妄想がなんだ。妄想では現実は変えられない。
何が「居ても立ってもいられない」だ。転がっているだけのお前と無能な俺では、この状況を打破できるはずがないじゃないか。
「あきらめちゃだめだ。ぼくにかんがえがあるよ」
聞かせてもらおうか。
「奥さんの手をはなして、僕を握らせるんだ。その間にきみはトイレへ行ってこればいい」
それは天啓であった。
そうだ、妻が俺の手を握っており、俺がその場を離れるのならば、妻の手に代替品を握らせればいい。
ぬいぐるみは温かく弾力がある。妻の手を素早く離してすぐにぬいぐるみを握らせれば、気付かないのではないか。しかもこれは、ぬいぐるみにしか出来ない。例えばサイドテーブルに置かれたデジタル時計やリモコンを握らせても無駄だろう。硬い物質を握らせたら妻は違和感に気付くに違いない。
ぬいぐるみだけが俺の右手の代わりになることができる。これ以外に方法はない。
「さあじかんがないよ。はやく」
あくまで優しく言う声に、俺は戸惑う。お前はそれでいいのか?妻は俺の手をぎゅっと握って恋人繋ぎをしている。お前の丸い体は妻の手に握り締められて形が変形してしまうかもしれない。爪で体に傷がつくかもしれない。それでもお前は。
「たんじょうびプレゼントにぼくをえらんでくれてうれしかった」
…そうか、お前が家に来たのはそんな経緯だったか。もう忘れてしまったよ。そう心の中で言うと彼はふふっと笑った…気がした。
「ぼくはきみたちのやくにたちたいんだ」
その台詞はもしかしたら、俺が妄想で言わせているだけなのかもしれない。妻に強く握られて痛んでしまうかもしれないぬいぐるみに対し、罪悪感を抱かないために俺自身が言わせた台詞なのかもしれない。
それでも俺は感銘を受けた。そうだ。この役はぬいぐるみにしか…コア君にしか出来ない。きみに頼むしかないのだ。
もし妻に握られてきみの見た目が多少変わってしまっても、俺と妻はきみをいつまでも大切にする。約束しよう。
「ありがとう」
その感謝の言葉は脳内のコア君の言葉だったか、それとも咄嗟に呟いた俺自身の言葉だったかは分からない。
とにかく俺は解決策を実行に移した。
タイミングが重要だ。左手にコア君を握り準備する。続いて反対側の右手。恋人繋ぎされた指を少しだけ動かして準備を整えて。
瞬間、俺は右手を妻の手から引き抜き、彼女の手の平が再び握り返されないうちにその手の平にコア君を握らせた。
妻がコア君の灰色の丸い体をぎゅっと握る。
妻の寝息が途切れ、俺の背筋に嫌な汗が流れる。
が、妻の寝息はすぐに元通り再開された。目を瞑り幸せそうに眠る表情も変わらない。その左手にはコア君が握りしめられている。
俺はその光景をしばらく見守ってからベッドを抜け出した。
山場は抜けた。後はトイレへ行くだけだ。
ベッドを抜けて寝室のドアの前に立つ。
木製のドアは真ん中に磨りガラスがはめ込まれており、そこから向こう側のシルエットが見えるようになっている。今は、磨りガラスから何も見えず暗闇だけがそこにある。
このドアを開けると玄関まで直線に廊下が延びている、数歩進んで右手のドアを開けるとトイレに入れる。
改めて確認するまでもない。勝手知ったる我が家である。
廊下へのドアを開けようとして。
思いとどまる。
目の前のドア、はめ込まれた大きな磨りガラスの向こうに見える闇へ目を凝らす。
もし廊下の照明が点いたら、この磨りガラスから光が漏れるに違いない。
俺は振り向く。ドアの反対側にはたった今まで俺が寝ていたベッドがあり、今は妻だけがそこで寝ている。
枕はこちら側を向いている。距離も遠くない。
もし廊下の照明がついたら磨りガラスから光が漏れて、妻が気付くかもしれない。
…杞憂だろうか?
いやしかし、すでに俺は危険を冒している。握られていた妻の手を離してここまで来たのだ。今のところ妻は目を覚ましていないが、眠る妻の深層心理で、違和感への警戒レベルが上がっていてもおかしくはない。「気付き」とは大きな一つの発見が齎すものではなく、細かな情報の積み重ねが齎すのである。
俺は妻の手を離すことで、彼女の中にある一つの違和感を作ってしまった。その違和感はまだ目覚めという名の「気づき」には至っていないが、これ以上違和感を重ねればそこに到達してもおかしくはない。
目覚めてもおかしくはない。
ならば照明を点けなければいい。ドアを開けて廊下に出て数歩進めばトイレなのだから、その短い距離を暗闇のまま進んでも危なくはない。トイレに着けば、問題ないのだ。トイレのドアは磨りガラスがはめられていないから光は漏れないし、また音も、トイレのドアと寝室のドアを二つとも閉めておけば妻の耳までは届かないだろう。
…問題は廊下の照明だ。何しろ廊下の照明は人感センサーによる自動点灯である。
人の動きを感知して点灯する人感センサー。廊下の照明にそれは付けられている。元々はただの電球で、廊下のスイッチで照明のオンオフを切り替えていたのだが、不便だったので人感センサー付きのLEDライトに変えてしまった。おかげで、玄関を入っただけで廊下の照明が点いてくれるので大助かりなのだが。
しかし、寝室から廊下へ出ても、当然ながら人感センサーは反応する。廊下には照明が二つ付けられており、どちらも人感センサー付きLEDだ。もしこのドアを開けて数歩進めば、人感センサーが反応して自動的に照明は点され…磨りガラスを通して妻の眠りを妨げる…かもしれない。いや、いつもなら起きないだろう。しかし今日は手を離すという「違和感」を一つ作ってしまったのだ。その違和感が呼び水となり、廊下から僅かに漏れる照明ですら目覚めてしまうかもしれない。
俺は唾を飲み込んだ。ここまでか。もう駄目なのか。
俺は首を振って自らの頬を、音が出ない程度に軽く叩いた。
何を弱気になっているんだ。ここまで来て諦められるか。
人感センサー付LEDは俺が後付で変えたに過ぎない。このアパートに元々付いていた照明ではないのだから、センサーの感知範囲が廊下全てに及んでいるわけではない。
当然ながら、照明は廊下の天井の真ん中についている。そして感知範囲はおそらく円形であろう。ならば。
屈みながら廊下の端を慎重に通ればセンサーの感知を逃れられるかもしれない。
そんなことが可能なのか?分からない。センサー付LEDを設置したのは俺だが、設置といっても専門的な知識があるわけではなくただ商品を取り付けたに過ぎない。どこまでがセンサーの感知範囲かは分からない。しかし記憶を辿れば、センサーが感知を失敗した経験もないではない。帰宅して玄関を開けてもしばらく反応せずに暗闇のまま点灯しなかったり、なぜか調子が悪く天井付近で手を振らなければ点灯しなかった場合も過去にはあった。
無論、人感センサーが廊下のほとんどをカバーしているのは疑いようがない。しかし穴がないわけではないのだ。
それに、今さら引き返せない。ここまで来て諦められるはずがない。
俺はドアノブに手をかけて。
ゆっくりとそれを開きはじめた。
経験上、ドアを完全に開放すればただちに照明が点灯する。
ならばゆっくり、体が通るぎりぎりまで開き、そこでストップする。
続いて屈む。腰を落とし、中腰になって歩こうとする。
そこで俺は止まる。中腰でいいのか。いや、ここまで来たらやり切るしかない。中腰では不安だ。
俺は腰を完全に落とししゃがみこむ。そのまま肘を折り曲げて両手を上げ、壁に体の正面をべったりとつける。眼前に白い壁が迫る。俺は鼻の頭を壁に擦りながら、両手は降伏したように中途半端に上げながら、下半身はしゃがみこみつつ蟹股にして。まるで平泳ぎのような格好で壁に沿って横歩きを始めた。
果たしてこのポーズに意味があるのだろうか。両手を上げることに意味があるのか、しゃがむことに意味があるのか。自分でも分からなかった。ただ両手を挙げた方がより壁に密着できる気がしたし、しゃがんだ方がより天井の照明に付いている人感センサーから遠くなる気がしたのだ。
苦しい格好だった。しゃがみこんだままの横歩きだから膝に負担がかかる。30歳の俺には厳しい姿勢だ。早く動くことも出来ないから、じわりじわりとしか進まない。数歩の距離がここまで遠く感じるとは。
俺は汗をたらしながら、壁を這って進みトイレのドアに手をかけた。
廊下は依然として暗闇に包まれている。人感センサーは反応していない!安物を選んでよかった。
手を伸ばして、トイレの照明のスイッチをオンにする。
そしてトイレの扉を徐々に開き、体が入るスペースだけを確保して…俺はトイレへと侵入した。
―時刻は5時48分。目覚めてから3分が経過していた。




