第60話 最後の夜、最初の朝
結婚式を翌日に控えた夜。
我が家のリビングには、少しだけ特別な空気が流れていた。
娘はいつも通りに振る舞おうとしていたけれど、口数が少し減っていて、何度も携帯を確認していた。
「大丈夫? 忘れ物はない?」
そう声をかけると、娘はこくんとうなずいて、小さく笑った。
「うん、大丈夫。……明日、だね」
その言葉に、胸がぎゅっとなった。
ついこの間まで、ランドセルを背負っていたような気がする。
幼稚園の帰り道に、「ママのごはんがいちばん好き!」って笑っていたあの顔が、瞼に浮かんでくる。
私は、希美の手を取った。
「寝る前に、ちょっと話せる?」
希美は少し驚いたような顔をしたけれど、「うん」と静かにうなずいた。
リビングの電気を少し落として、ふたりで並んでソファに座る。
優斗は気を利かせて先に寝室へ向かってくれていた。
「ねえ……あなたが生まれた日のこと、覚えてるよ」
ぽつりと私が言うと、希美は「そんなの、私が覚えてるわけないじゃん」と笑った。
「そうだよね。でもね、あの日、私は人生で初めて、心の底から『守りたい』って思える存在に出会ったの」
希美は黙って、私のほうを見つめていた。
「あなたを育てるって、決して簡単なことじゃなかった。自分の母親との関係を引きずって、不安でいっぱいだった時期もある。でもね……あなたが笑ってくれるたびに、私はちゃんと『母』になれてたんだと思う」
目に涙が浮かんでくるのを隠せなかった。
「明日、あなたは誰かの妻になる。でも、それでもずっと、私の大切な娘であることに変わりはないの」
希美もまた、そっと涙を拭いながら、私の手を握った。
「ママ……ありがとう。ずっと、見守ってくれて、味方でいてくれて。子どもの頃、言えなかったけど……ほんとに、ありがとう」
その一言が、何よりのご褒美だった。
あの日あのとき、どんなに悩んでも、泣いても、眠れない夜を越えても。
いま、この瞬間のために、すべてがあったのだと心から思えた。
その夜、娘は私の肩に頭を預けながら、しばらくの間、何も言わずに目を閉じていた。
私は彼女の髪をそっと撫でながら、明日からの新しい人生が、やさしさと強さに満ちたものであるよう、願わずにはいられなかった。
それは、「最後の夜」であり、
母として、彼女を送り出す「最初の朝」への、前奏だった。




