第6話 長野旅行へ
少しの休息を取ると決めた私は、ふと思い立って、長野県へ一人旅に出掛けることにした。
自然に囲まれた場所で、何も考えず、のんびりと過ごしたかった。そんな気持ちだった。事前に細かい計画は立てず、持っていくのは最低限の荷物と、少しの勇気だけ。
新幹線に乗り、長野駅に降り立つと、思わず深呼吸した。澄んだ空気が、肺いっぱいに広がる。
駅前からバスに乗り、静かな湖まで行った。小さな波が寄せては返す湖畔のベンチに腰掛け、持ってきた本を膝の上に開きながら、ぼんやりと水面を眺めた。
こんなふうに何も考えずに時間を過ごすのは、いったい何年ぶりだろう?
──ふと、地図を開き、近くに温泉があることを知った。歩いていける距離らしいが、道が複雑で分かりづらい。
地図をくるくる回しながら困っていると、不意に声を掛けられた。
「すみません、迷ってますか?」
驚いて顔を上げると、そこには一人の青年が立っていた。
スポーツマンタイプの快活な印象だが、どこか穏やかな空気をまとっている。
「あ、えっと……温泉に行きたいんですけど、道がよく分からなくて。」
「ここ、ちょっと分かりづらいですよね。僕、地元なんで案内しますよ。よかったら。」
あまりにも自然な申し出に、私は戸惑いながらも小さく頷いた。
「じゃあ、行きましょうか。」
青年はそう言って、私と並んで歩き始めた。
名前は優斗さんだという。地元の大学を卒業し、今は観光関係の仕事をしているらしい。
歩きながら、ぽつりぽつりと互いに話をした。
旅に来た理由を尋ねられたが、うまく答えられずにいると、優斗さんはそれ以上は何も聞かず、笑って「疲れた時は、自然に癒やされるのが一番だよ」とだけ言った。
──なんだろう。この人の前では、肩に力を入れずにいられる。
温泉に着くまでの道のり、何度か笑った。
久しぶりに、心からの笑顔だった気がした。
別れ際、優斗さんは名残惜しそうに「またどこかで会えたらいいですね」と言った。
私も、思わず本音がこぼれた。
「……また、会いたいです。」
言った瞬間、顔が熱くなった。慌てて「ありがとうございました!」
と頭を下げて、その場を離れた。
温泉に浸かりながら、湯気の向こうにぼんやりと浮かぶ彼の笑顔を思い出す。
──私、恋をしている。
思えば、こんな気持ちは、本当に久しぶりだった。
帰りのバスの窓から見えた山々は、朝よりも優しく、暖かく見えた。
「私、また歩き出せるかもしれない──。」
小さな希望が、心にそっと灯っていた。
翌日も天気は良く、私は朝早く目を覚ました。
昨日、ふと口にしてしまった「また会いたい」という言葉が、胸の奥で何度も反響していた。
──偶然でも、また会えたらいいな。
そんな淡い期待を抱きながら、宿を出て、近くの小さな朝市に向かった。
地元の野菜や果物、手作りのお菓子が並ぶ通りを、のんびりと歩く。
「おはようございます!」
元気な声に振り向くと、そこには──優斗さんがいた。
「えっ……!」
驚いて立ち尽くす私に、彼は少し照れたように笑った。
「ここ、朝市やってるから、もしかしたら来るかなって思って。」
その言葉に、胸がぎゅっとなった。
──私だけじゃなかった。会いたいって、思ってくれていたんだ。
「一緒に回ろうか。」
自然な流れで、私たちは並んで朝市を歩き始めた。
優斗さんは野菜を手に取り、真剣な顔で見比べたり、おばあちゃんたちと親しげに話したりしていた。
そんな姿を見ていると、心がふんわりと温かくなっていく。
「これ、甘くて美味しいんだよ。よかったら、どうぞ。」
彼が差し出してくれたのは、小さなりんごだった。その場で一緒にかじると、シャリッと音を立てて、口いっぱいに甘さが広がった。
「おいしい……!」
私がそう言うと、優斗さんは嬉しそうに笑った。その笑顔を見て、私は思った。
──この人と、もっとたくさんの時間を一緒に過ごしたい。
けれど、旅は永遠には続かない。
帰る日が、もうすぐそこまで迫っていることも、私は分かっていた。
朝市を歩き終えたあと、湖のほとりまで一緒に行った。春の光にきらめく水面を見ながら、ふたり並んで座る。
しばらく沈黙が続いたあと、優斗さんが口を開いた。
「……また、会えるよね?」
私の胸が、またぎゅっと締め付けられる。だけど、今度は痛みじゃない。勇気を出して、私は小さく、でもはっきりと答えた。
「はい。また、会いたいです。」
優斗さんはほっとしたように微笑んだ。そして、おもむろにカバンから一枚の紙を取り出した。
「これ、俺が働いてる施設のパンフレットです。よかったら、また長野に来られる時、寄ってください。」
それは、小さな自然体験施設のパンフレットだった。見れば、来月、春の花祭りのイベントもあるらしい。
「絶対、行きます。」
私はパンフレットをぎゅっと抱きしめた。
帰りのバスに乗る頃、私はもう泣いていなかった。新しい何かが、私の中に芽吹き始めていたから。
「また、きっと会える。」
バスの窓から見える長野の山々に、小さく手を振った。次にここを訪れる時には、もっと元気な自分でいられるように。
私の小さな旅は、こうして新しい始まりを告げたのだった。